ep.2 祈り
パニーとエイディが薬草室の扉をそっと開けると、豊かな薬草の香りが室内から溢れ出し、瞬く間に二人を包み込んだ。天井に届くほど高くそびえる棚が壁一面を覆い、無数のガラス瓶が並んでいる。各瓶には乾燥したハーブ、鮮やかな色彩の花々、根や種が詰められていた。森の恵みが、この集落の生活を豊かに彩っていた。
壁に取り付けられたランタンの仄かな光が、薬草の影を壁に柔らかく投影している。天井から吊るされた
部屋の中央に設置されたテーブルの傍らに、リンディの姿があった。細かく刻まれた葉がボウルに落ちる音が、静寂の中に響く。彼は乳鉢を手に取り、刻み終えた薬草を移し替えた。時折、薬草の効能を確かめるために、鼻に近づけて香りを吸い込み、独り言を呟く。
「ただいまー、リンディ」
「ただいま、兄貴」
「――おう、おかえり」
二人の訪れを感知したリンディは、一瞬手を止め、肩越しに振り返って軽く声を掛けた後、再び作業に没頭した。その様子を見た二人は互いに目配せし、持ち帰った薬草の整理に取り掛かる。
「忙しそうだね――じゃぁ、私たちは片づけちゃおっか」
「だな。じゃ、俺はー、こっちからやるよ。パニーは――じゃぁそっちの袋よろしくな」
「はーい」
布袋から薬草を取り出し、パニーはランタンの傍に持ち寄った。指先で葉を摘み、折り曲げ、その弾力から水分量や新鮮さを見極める。隣ではエイディが別の薬草を手に取り、耳元で軽く擦り合わせて乾燥具合を確かめていた。
次に、彼女は薬草を鼻に近づけ、その香りを吸い込んだ。香りが体中に広がると、瞼を閉じて微笑を浮かべる。この香りなら問題ないと安心し、次の薬草に手を伸ばす。エイディもまた、葉を広げ、その色の鮮やかさや変色の有無を確認し、透光にかざして細かな斑点や異常がないかを丹念に調べていく。
「――はぁ。終わったー」
「お疲れさん」
「エイディはどんな感じ?」
「――もう少しかなー」
「何か手伝うこと――、あ! じゃ、ラベル書きしとくね」
「おう! 助かる!」
品質を確認し終えると、パニーはラベルとペンを手に取り、薬草の名称と収集日を記入した。一方、エイディはそれらを順次、容器に収めていく。彼は棚からガラス瓶を取り出し、ラベルを貼り、薬草を慎重に納めてふたを閉じた。
「そういや、"お
「"
「お、よかった。ありがとな。すぐ使いたいから、そこ置いといてくれねぇか」
「おっけー」
リンディの問いにパニーが応え、先ほど整理した棚から"お告げ花"を取り出し、小瓶ごと彼の作業テーブルの端に置いた。
"お告げ花"は希望の象徴であり、祈りを込めることができる。リンディがその花を手に取り、観察し、その質感を指先で確かめた。そして、満悦の表情で頷き、さっそく加工作業に着手した。まず、テーブルに広げた花弁の一枚を取り、刃で微細に刻む。次に乳鉢で粉末状にする。やがて、テーブルの上にふんわりと積み重なった粉末を、透明な液体のビーカーに移し入れる。最後に、ガラスの攪拌棒を用い、ビーカーの中の液体をかき混ぜた。粉末が液体に触れると、即座に溶解し、液体は徐々に色を変え、黄金色に輝いた。
「――どう? 終わった?」
「ん。今日はもう終わりにする。肩凝った」
リンディは背筋を伸ばし、深長な一息を吐き出して疲労を解き放った。大きな円を描くように肩を回すと、固く縺れた結び目が一つ一つ解かれていくようで、彼の目は自然と細まった。
「そっか。お疲れ様――何か飲む? 用意しようか?」
「じゃぁ、アイスティー作ってくれ。そこのティーポットにまだ残ってる」
「おっけー。エイディもアイスティーでいい?」
「おう! サンキュー」
パニーがティーポットを手に取ると、彼女の指先から微かに霧が立ち昇り始めた。冷気がじわりと広がり、ドライアイスのように白く濃密な霧が手のひらを包み込んだ。その霧は徐々にポット全体に伝播し、瞬く間にそれを覆い尽くした。
ポットの中には、美しく開いたジャスミンの花が漂っていた。透明な花弁が光に照らされ、水中に舞う白い蝶のように輝いている。
程よく冷えた後、彼女はカップに注ぎ始めた。琥珀色の液体が流れ込み、微細な気泡がゆっくりと昇っていく。花の香りがふわりと広がり、鼻孔をくすぐった。
「はい、アイスティーできたよー。ここ、置いとくね」
「ありがと。はぁーうめぇー! 染み渡りますな」
「ありがとな。――あ、そういや、パニー、聞いていいか?」
「ん? なに?」
「――少し前にアイガがここに来てたんだ。パニーがいきなりここを出ていくって言うから、止めるように説得してくれって――そう言われた」
リンディの突然の問いかけに、パニーは思わずアイスティーを噴き出しそうになった。彼女は急いで口元を押さえ、軽く咳払いをした。
「――えー! おばあちゃん、もうリンディのとこにきたの?」
「ちなみに、結構怒ってたぞ」
「まじかー。だよねー。知ってた」
「あぁ、そのことか。さっきまでちょうどパニーとその話してたんだ。――なぁ、兄貴。聞いてくれよ。俺もさ、一緒に行くつもりなんだ。パニーと。な? いいだろ?」
「――は?」
「ちょっと、エイディ! 唐突すぎる!――ほらー! もう! リンディびっくりしてるじゃん!」
「あ、わりぃ」
リンディは溜息を漏らしつつ頭を振り、やがて苦笑を浮かべてエイディに言葉を投げかけた。
「――ったく、お前は。話をややこしくするなよ」
「わ、悪かったよ。さっきの今だったから、ついな。ま、でもそういうことだか――」
「リンディ、おばあちゃんになんか言った?」
「いや、俺からは何も。話聞いてみます、とだけ」
「――ん? というかさ。自然すぎて思わずスルーしかけたけど。何?兄貴知ってたんだ? この話。パニー話してたのか?」
「――!! 確かに!え?私話した?話したっけ?――いや、話してない…よね?」
パニーは机に手を付き、身を乗り出してリンディに迫った。
「いや、聞いてねぇ」
「だよね? 言ってないもんね?――でも驚いてない…よね?」
「――少しは驚いた」
「ほんとに? 表面化しないね?」
「表情筋サボってんぞ」
「昔から、行きたがってたの知ってっから」
「――へ?」
「――!! やっぱりな!そうだと思った! ケーキとか遊園地とかの話だろ?ほら、パニー、俺言ったろ?覚えてんだって」
「そ、そっかー」
「あぁ、それもある。し、パニー、覚えてねぇのか?――俺たちの両親探しに行こうって」
その瞬間、リンディの視線は言葉を求めて虚空を漂い、やがて首を掻きながら、躊躇いがちに問いかけた。
「――え?」
「俺たちも、だけど。メリーとか、ニウスとか、あいつらが親に会いたいって泣くたびに、いつか会いに行こうって言ってたじゃねぇか」
「――あぁ、あん時か」
「パニーの両親だって行方知らずなのにな」
「――よく覚えてるね?」
パニーは椅子に腰掛け、遠い記憶の迷宮を彷徨うかのように目を閉じた。幼き日の思い出が、一つ、また一つと鮮烈に蘇る。今振り返れば、それが如何に無責任な発言であったかが痛感される。行方も、生死すらも定かでない両親を探しに行こうなどと、無謀な子供の夢物語に過ぎなかった。無意識のうちに、彼女の手から冷気が漏れ出していることに気づき、そっと力を抜いた。静かに目を開けると、リンディとエイディと視線が交わった。
「――待ってて」
リンディは立ち上がり、扉を開けて外に出ていった。エイディは首をかしげながら、その後ろ姿を見送る。数分後、戻ってきた彼の手には、古びた木箱が大切そうに抱えられていた。パニーはすぐにそれがリンディの宝箱であることに気付いた。彼はその中から一枚のカードを取り出す。年月を経て少し黄ばんでいたが、幼い字で『なんでもおねがいごとをきくよ』と書かれていた。パニーはその字を目にすると、胸が締め付けられるような感情が込み上げ、目頭が熱くなった。
「――それ、昔誕生日にプレゼントした」
「――うん」
「まだ持ってたんだ」
「まあな――これ今使おうと思う」
リンディはカードに視線を落とし、その文字を一つ一つ目で追った。彼の心は過去の記憶に誘われ、やがてカードをパニーに手渡した。
「――俺は、パニーがくれた言葉に、希望を見せてもらった――一緒に探そうって――嬉しかった」
リンディは背筋を伸ばし、深く息を吸い込んで心を整えると、言葉を紡ぎ始めた。
「――だから俺も言葉を返すよ――パニーが納得する、そんな生き方をして欲しい」
「――!!」
「パニーの進む道を、俺は――全力で応援したい」
「兄貴、良いこと言うじゃん! そうだよ、俺たちは、これから自分に正直に生きていこう!――そんで、納得できる人生にしよぜ!」
「――ありがとう、リンディ、エイディ」
パニーはリンディからカードを受け取り、その文字と彼の顔を交互に見つめた。瞳がじんわりと輝きを帯びる。彼女が目を細め、瞬きをすると、目尻から一粒の星が、煌めきながら流れ落ちた。
「おばあちゃんともう一度話する! ちゃんと話し合う!」
「おれも、話さないとだー」
「おう、二人ともがんばれよ。――いや、つかなんでエイディも行くんだ?」
「パニー、一人じゃ心配だろ?」
「――それもそうか」
「なにそれ! 異議あり!」
「異議なし。ちなみに、いつ行くか決めたのか?」
「ううん、出る日はまだ決まってないんだけど――ほら、もうすぐペオの誕生日でしょ? それは出たいから――そうだなー、誕生日が終わって、落ち着いてからにしようかな」
「誕生日が一カ月後だから――早くて、二カ月後――くらいか?」
「うん。それくらいかな? エイディどう?行けそう?」
「おう! わかった、準備しとく!」
「早ぇな」
そうと決まると、パニーとエイディは相対してテーブルに着席した。ランタンの仄かな灯火に包まれながら、彼らは旅支度について論議を交わす。エイディが一つ提案すると、パニーは頷き、時折リンディがその会話に加わる。彼らの外界に対する知識は乏しかったが、持てる限りの情報を交換した。リンディが何かを指摘すると、パニーは急いで筆を走らせ、エイディはそれを確認しながら頷き、さらに問いを投げかける。談話は徐々に熱を帯び、時の経過を忘れるほどに盛り上がっていった。
その間、無意識のうちにアイスティーの最後の一滴まで飲み干してしまうほどだった。カップを置く音が区切りを告げた。
「まだ飲むか?」
「うん、もう一杯飲もうかな」
「俺も、少しだけ」
リンディは棚に手を伸ばし、"
"祈捧の雫"がアイスティーに融け込むと、生命を宿すかの如く脈動しながら徐々に広がっていく。光の粒子が舞い踊るように浮かび上がり、小さな渦を描いた。その渦が回転するたびに、アイスティーはさらに麗しい色合いを帯び、神秘的な光を放つ。
「ほら」
「「?」」
リンディはカップを持ち上げ、前へ差し出した。二人は一瞬首を傾げたが、すぐに彼の所作に倣い、自分たちのカップも差し出す。
「二人の安全な旅路を祈って」
「「!!」」
リンディがカップを高々と掲げ、祈りを捧げた。二人が顔を見合わせると、自然と微笑が広がった。カップが触れ合う音が、薬草室に響き渡った。
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