ep.3 "幻贖のランプ"の育て方

―――幻贖のランプの育て方――――――


1.新月の翌日の太陽が沈むまでの間に"祈捧の雫"を植物に注ぐ

("祈捧の雫"を植物に注ぐことで、次の新月の夜までに幻贖の力を持つ"幻贖のランプ"が育つ)

2.太陽が沈んだ新月の夜に"幻贖のランプ"を探す

3."幻贖のランプ"の周囲(半径約2メートル以内)の植物を採取する

4."祈捧の雫"を作る

5.手順1に戻る


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 新しい朝が幕を開けた。穏やかな波が寄せては返し、蒼穹そうきゅうの色と光が海面に映り込み、揺れている。晨光しんこうのカーテンが、息を呑むほどの壮麗そうれいさを示す。開け放たれた窓から射し込む光が体全体を包み込み、今日の始まりを告げた。波音に調和し、遠くから海鳥たちが奏でる美しい旋律が耳に届いた。



---



「ニミー、おはよう!」

「おはよう――ニミー」

「エル、ニウス、二人ともおっはよーう!」


 朝露あさつゆに潤いたっぷりの草木が、視線の先で静かに目覚める。葉先から滴る露珠ろしゅが、無音のまま大地に吸収されていく。エルを先頭に、ニウスはまだ眠たげな表情を浮かべながら、兄の後ろをゆっくりと歩いていた。ニミーは軽快な歩調で、その隣を楽しげに進んでいく。


「ねぇねぇ、ねぇねぇ、聞いて聞いて!」

「どうしたの?」

「前よりね、もっーと大きくてね、ふわっふわにね、作れるようになったの! ふわっふわの、もっこもこだよ! すっごーく、上手くなったんだから!」

「ほんと? 早くみたいなぁ。楽しみ!」

「ぼくも――たのしみ――」

「いくよー! ちゃーんと、見ててね!」


 畑に着くと、ニミーは歩みを止め、掌を空に向けて広げた。指先に意識を集中させると、白いもやがじわじわと立ち昇り始めた。柔らかな靄は揺らめきながら空気中に広がり、次第にその密度を増していく。やがて、掌の上で渦を巻くように集まった。目を閉じ、心を注ぎ込む。彼女の願いに応えるかのように、靄はさらに広がり、その輪郭が次第に鮮明になっていった。


 凝縮しながら次第に形を整え始めると、やがて小さな白雲しらくもへと変わっていった。雲はふわりと宙に浮かび、掌からゆっくりと離れて、彼女の背丈ほどの高さで漂った。以前よりも一回り大きな雲ができあがり、ニミーは満悦まんえつの表情を浮かべた。同じ手順で、次々と小さな雲を生み出していく。ニウスもその光景に見入って、すっかり目が覚めた様子だった。


「どーだ! すごいでしょ!」

「――ほんとだ!前より大きい! さすが、ニミー!」

「すごい、すごい、すごいよ!」

「でしょー! いっぱい練習したんだもんね!」

「すごいなー!かっこいいなー!――僕もやりたいなぁ」

「ニウスは飛ぶんでしょー。雲は私の専門よ!」

「――ぼく、まだ飛べないもん」


 幾多の雲を創出そうしゅつした後、ニミーは持ってきた"祈捧の雫"を取り出し、その雫を静かに雲に注ぎ始めた。一滴一滴が触れた瞬間、波紋のように色彩が拡散していく。雫が浸透すると、雲は柔光に包まれ、黄金色の輝きを放った。


 エルとニウスはそれぞれの準備を進めていた。エルは雲の前で立ち止まり、目を閉じた。彼の掌から生まれた風が、渦を巻きながら徐々に大きくなり、雲がふわりと浮上した。彼の足元でも渦が巻き起こり、ゆっくりと体を浮かせるが、その動きはまだぎこちない。時にあおられてふらつきながらも、腕を広げて平衡へいこうを保とうと必死な様子を見せていた。


「――じゃぁ、僕は、――うわっ。真ん中に行ってくるねっ――っちょ、あれっ」

「――わかった。僕は、また端っこかぁ」

「拗ねっないっでよっ――おっとっ。終わったら、一緒に練習しようよっと」

「――また飛べないかもしれない」

「やってみなきゃわかんっ――ないっだろっ。水やり終わったら――れ、練習するよ! じゃ、行ってっくるー」

「――行ってらっしゃい」

「ほんとに、気を付けてね―!」


 エルと幾つかの小さな雲が、畑の中心へと徐々に進んでいく。腕を広げ、円を描くように動かすと、導かれるように少しずつ集結しゅうけつし始めた。磁石に引き寄せられるかのように、次第に距離を縮めた。やがて溶け合い、一つのたゆたう大きな雲となった。

 彼の動きに呼応するように、その雲は畑の上空でゆるやかに停留し、しっとりと雨を降らせ始めた。雨粒は煌めきながら、土に吸い込まれ、まるで砂金を散りばめたかのようだった。



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 一方畑の端では、ニウスとニミーは如雨露じょうろを手に、作業を進めていた。ニウスの視線は、しばしば空高く浮かぶエルに向けられている。憧憬しょうけいと不満が混じり合い、その瞳は陰りを帯びていた。ふと我に返り、作業に戻るが、一部分に雫を垂らしすぎていることに気づき、慌てて手を止める。如雨露が軽くなる分だけ、彼の心は重くなっていく。



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 "祈捧の雫"が、畑の風景を一変させた。


 やがて、雨を降らせ終えた雲が徐々に姿を消すと、エルは風を収めて地上に降り立った。彼は満足げに畑を見渡し、微笑んだ。


「終わったー!」

「エル―! こっちも終わったよー!」


 作業が終わり、三人は畑に向かって、大音声だいおんじょうで祈りを込めた。


「心を込めて、せーのっ」

「「「元気に育つんだよー!」」」

「「「いつも、ありがとうー!」」」



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「――あ、エル、前より上達したんじゃない? 安定してきた気がする!」

「わかる?僕もそう思うんだー! ニミーもさ、大きな雲作ってたよね!すごいことだよね!」

「でっしょー!」

「――ねぇ、兄ちゃん、練習」

「わかってるって。あ、ニミーはどうする?」

「うん! 私も練習するー!」


 エルの教えは、まず風の流れを感知することから始まる。ニウスはその教えに従い、目を閉じ、耳を澄ませた。彼の周囲を通り抜ける動きを、肌で感受かんじゅしようとする。葉が囁く音、地面を撫でる音、そんな些細な音にも意識を向ける。身体の周りをどう流れているのか、その微細な動きを追いながら、手元へと導くように意識を集中させていく。


「――どんな感じ?」

「葉っぱが揺れてる。風はね――さわさわした感じ?」

「どこら辺が一番強く感じる?」

「膝くらいのところかな――たぶん」

「じゃぁ、ちょっとしゃがんで膝あたりに手を当てて」


 ニウスは兄の指示に従って身を低くした。風が肌をでる感触は、確かに感じ取ることができた。


「よし、そしたら、手のひらに乗せて、渦巻きのイメージするんだ」


 教わった通りに、イメージを何度も反復した。しかし、彼はいつもその先に辿り着けない。『風が渦巻く?それはいったいどんな風に?』その感覚は、今までも、そしてこれからも、掴めない気がする。


「――今日もだめだ。手のひらなんかに乗らないよ。――いつもと同じだ」


 ふと気がつくと、ニウスは脚に微かな痺れを感じ、膝裏と掌が汗で湿っていた。数え切れないほどの挑戦が積み重なり、そのたびに不安が心を重くしていく。視界は徐々に曇り、気力も感覚も、絵の具に水を含ませた時のように、色が滲んで消えていくようだった。


「――どう?」

「――今日もだめだ。全然。わかんない」

「ちょっと休憩する?」

「しない――絶対しない」


 声が震え、瞳が揺れる。そんなニウスの姿を見ると、エルはいつも胸の奥で言葉が絡まり、何も言えなくなってしまう。


---


 一方、ニミーは少し離れた場所で、黙々と雲を作る練習を続けていた。腹から聞こえてくる音が、昼時の訪れを告げた。


「――ねぇ、ニウスの調子はどう?」

「頑張ってるんだけどね――なかなか難しいみたい」

「まだ、続けそうだね。どうする? 今日はここでランチ食べる?」

「うん、ありがとう。そうしてくれると助かるよ」

「おっけー! 今日は何かなー楽しみ!」


 ニミーは畑を後にし、駆け足で来た道を遡った。彼女の姿が遠ざかるにつれて、エルは再びニウスに視線を戻した。


---


「おーい! お昼だよー!」


 太陽が天頂てんちょうに近づく頃、ニミーの足音が草の上を軽やかに踏みしめてきた。籠バッグを携えた彼女は、笑顔を浮かべながらこちらへ駆け寄ってくる。その瞬間、ニウスの心に張り詰めていた緊張の糸が、柔らかくほどけていった。


「――つーかーれーたー」


 ニウスは、力を抜いて大の字に倒れ込んだ。背中を冷たい地面にゆだね、空を見上げながら、ひんやりとした感触を楽しむ。


「頑張ってたねー」

「――へとへとでペコペコだよ」

「今日のランチはパニー作だよー」

「「野菜たっぷりサンドウィッチだ!!」」

「だーいせいかーい!」


 ニミーが籠バッグを広げると、中から何とも食欲をそそるサンドウィッチが顔を出した。


「「「虹色だーーーー!」」」


 パニーはサンドウィッチが大好きで、毎回テーマに拘りがあり、今回も見事に反映されていた。虹色に彩られたサンドウィッチは、一目見るだけで心が躍動おうどうする。赤色のパプリカ、だいだい色の人参、黄色のズッキーニ、緑色のレタス、青色のブルートマト、あい色のブルーベリーマスタードソース、そして紫色の紫キャベツ。瞳に映るこの芸術作品は、疲弊ひへいした体に染み渡る。

 さらに、ニミーはフルーツジュースの瓶を取り出した。生搾りのリンゴジュースが入っており、陽光を受けて煌めいていた。サンドウィッチを手に取り、一口かじると新鮮な野菜のシャキシャキとした食感が、口の中で絶妙な調和を奏でた。その彩り豊かな具材が口内で舞踊ぶようし、ニウスは思わず顔がほころんだ。エルもまた、サンドウィッチを味わいながら、その絶妙な組み合わせに目を細めた。


「ありがとう、ニミー」

「――うまっ。ありがと!」

「パニーもありがとうー!」

「帰ったら伝えようね」


 ニウスは再びサンドウィッチに夢中になり、エルは喉を鳴らしながらジュースを飲んだ。三人は食事をしながら、たのしげに会話を交わし、笑い声を響き渡らせた。



---



「――ニミーは練習どうだった?」

「ちょっとだけ大きい雲ができた気がする!」

「いいなー」

「ニウスは?」

「――僕はぜんぜんだめ。才能ないんだよ。きっと」

「そうかなー?――エルは去年から飛べるようになったんだよね?」

「そう、だからニウスも今年中にはできるよ思うんだよなー」

「でも一度も、風をまーったく動かせられないんだよ? エルが飛べるようになったのは確かに去年だけど――風を動かせるようになったのは、もっと前だったよ」


 エルが初めて風を掌に感じたのは、一年半程前のことだった。それまで数年間、彼は日々手を天に向け、挑戦と失敗を繰り返し、失意の日々を過ごしていた。まさに今のニウスのように。

 数日前から保護していた海鳥の療養が終わったある日、エルはその海鳥をそっと天に放った。再び大空を翔けることを願い、全身全霊で祈った。

 すると、エルの掌に微かな感覚が走った。何度も試みてきたが、今回は確かに違った。彼の掌で風が軽やかに舞い踊っている。海鳥はその風に乗り、エルの手から飛び立ち、天空高く舞い上がった。



---



 ランチを食べ終え、話題が練習の再開に移ると、ニウスの肩が落ちた。食事中だけ忘れていた焦燥しょうそうと不安が再び蘇り、うれいがその顔に影を落とす。


「ニウスはさ、空飛べたら何したい?」

「――え?」

「私は、風使えないから、飛べないじゃない?だから直接的なアドバイスはできないけど――私はね、おっきな雲作って、その上に乗って浮かんでみたいなー! って思いながら作ってるの!」


 ニミーは、落胆するニウスの顔を覗き込み問いかけた。彼は一瞬思案を巡らせた後、答えた。


「僕は空に近づきたい。それに――」


 その時、サイデンフィルたちが近づいてきた。ニウスは自然と手を伸ばし、一番近くにいたリリーに掌を差し出した。リリーはしなやかにその上に舞い降り、目を細めて満悦の表情を浮かべた。彼はリリーをそっと頭上に持ち上げ、彼の髪の上に軽やかに乗せた。羽は柔らかく、日の光を受けて淡く煌めいていた。彼の頭上で安定すると、他のサイデンフィルたちも安堵したように寄り添い、彼の周囲に親しげに集まってきた。


「――リリーたちと遊びたいんだ」


 サイデンフィルは、掌に収まるほどの小鳥で、その羽毛は絹のように柔らかく、淡青たんせいから紫紺しこんへのグラデーションが広がっている。絵筆で描かれたかの如く鮮やかで、小さな丸い目はオニキスの如く黒く、愛らしい。


 自力では飛翔ひしょうできない彼らは、空の民の力を借りて、空中で軽快けいかいに舞う遊びが大好きだ。日々楽しげに飛び回っている。ニウスは、彼らと共に風に乗り、天空を駆け巡る日を心に描いていた。


 その時、頭上にいたリリーがぴょんと肩に飛び移り、愛おしげにニウスに寄り添ってきた。リリーのおかげで、ニウスの心はわずかに軽くなった。そんな気がした。

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