幻贖のランプ 〜抗進する者たち〜
@panope
Part 1 水上集落 -選択-
ep.1 "幻贖のランプ"の探し方
新月の夜、世界はその薄暗さを、賢明にも密やかに湛えていた。星の数だけ点在する光が、森の奥深くまで染み込み、月がその威厳ある存在感を休ませる間、森全体がひとつの知の庭になったかのようだった。あたりは静寂に包まれている。けれども、見る者の眼差しがその内奥に触れるならば、きっとその"ただの夜"が、特別な叡智を湛えた景色に変わるだろう。
足元には、柔らかな苔が一面に敷かれており、どれもが歴史ある敷物のように森の大地を守っている。古木の幹には、藤の蔓が密やかに絡みつき根を下ろしている。彼らは夜の賢者のように黙然と立っていた。その場の真の秘密は、森の地に点在する"
風がそっと舞い降りると、"
「あったー?」
「――いや、まだ見つかんねぇ」
二人の声が夜の森に吸い込まれていく。パニーとエイディが求めているのは、“
二人の足元には、湿り気を含んだ落ち葉がぎっしりと積もっている。パニーがひと掻きすると、重なり合った葉と土の奥から、小さな命が解き放たれる。パニーは枝を軽く掻き分け、小枝や苔を一つずつどかしているが、エイディもまた目を光らせ、周囲を探り続けていた。
「おわっ」
「どしたー?」
「――いや、なんでもねぇ」
エイディが小さな枝を避けた途端、隠れていた小さな虫やカエルが四方八方へと飛び散っていった。エイディは驚いた顔をしたものの、すぐに平静を取り戻し、探索を続ける。落ち葉の下から微細な生物たちが顔を出し、二人をどこかへと誘う。
パニーがふと足を止め、エイディに視線で合図を送った。二人の視線の先、薄明のようにぼんやりとした光を放つ小さな植物がぽつりと浮かび上がっている。それはまさしく、"
「――エイディ、見つけた!」
パニーの声が、森を揺らした。エイディが足を止めて彼女の指差す方向を見ると、そこには霧の中に浮かぶ花びら。夜空の欠片を宿し、辺りをほんのり照らしている。内部から発せられるその光は、植物自体が脈打ち、森の闇をわずかに押し返している。これが"
エイディはそっと跪き、細心の注意を払って手を近づける。ほんの少し触れただけで、光がわずかに強くなる。
「はぁぁぁー。すげー圧倒されるなー」
「――ね。景色がね。贅沢だよねー」
二人はその場に立ち止まると、夜の澄んだ冷気を深々と吸い込む。肺いっぱいに広がるのは、森の奥底から沁み出た清冽な空気。森の匂いが肌に触れ、冷たくも優しく体の奥まで染み渡る。
"
「そういや、今日さ、アイガ相当怒ってなかったか?」
「――あー、うん」
「原因はー、パニーとみてる――どうだ?」
「――ちょっとねー。会話がねー。なんというか、こう? ドッチボールしちゃって」
「会話がドッチボール? ――あぁ、ぶつかり合ったってことか」
「そうそう、もー!私の心は痣だらけよ」
「うぇー。痛そうだな。んで、決着は? どうなった?」
「んー、たぶんお互い譲らずだから、引き分け? になるのかな」
「ふーん、次の試合予定は?」
「近日開催するしかないかなー。でもやだなー。また怒られるの」
「俺、観覧しよっかなー」
「もちろん非公開ですけど?」
すべての採取を終え、二人は再び歩き出した。森の密度が少しずつ薄まり、枝葉の隙間から夜空が広がりを見せ始める。遠くから届く波音に、海の存在が感じられる。淡い潮の香りが混じる夜風は、二人の顔に触れてその体を癒しながら、確かな方向を示している。足元に続く星灯草の光の名残が、森と海の世界をゆっくりと溶け合わせて、二人を先へと導く。
「なぁ、パニー。えっと――あのさ」
「――ん? どした?」
「さっきの話なんだけどさ――」
「さっきの?」
「ここを、ここから――出ていくつもりだろ?」
「――え?」
「さっき言ってた試合の理由、それだろ」
パニーはエイディの突然の指摘に瞳を丸くし、少し戸惑いながらも彼を見つめた。エイディもまた、何かを探るように、視線を彼女に注いでいる。
「――もしかして、聞こえてた?」
「いや、今日のは内容までは聞こえてなかった。けど――あー、わりぃ。実は前にエムスタと話してただろ? そっちが聞こえてた。アイガのこと、あそこまで怒らせるとしたら、それだろうなって思って」
「――あー、そっかー。ううん、いいよ。大正解だし」
「やっぱり、だよなー」
海岸線に立つと、閉塞感から解放され、パニーは大きく息を吸い込んだ。二人の目の前に、暗い海が果てしなく続いている。その先、遠い地平線には星々の瞬きが広がり、夜の静けさに吸い込まれた。寄せては返す穏やかな波音が、二人の周囲に時間を織り込む。
「――サリー」
パニーが名を呼ぶと、風がふっと海の匂いを運び、彼女の声が波間に溶かす。波音だけがしばし耳に残り、やがて海の表面がゆっくりと持ち上がり、悠然とした大きな頭が現れた。
「――なぁ、あの、さ」
「あ、ちょっとまって」
二人が小舟に身を委ねると、サリーは水を掬い取るように、湖面を滑り出した。その巨大な身体が湖をかき分けるたび、広がる波紋が夜に紛れ込んで、湖の鼓動となる。エイディはパドルを操り、水音が夜の帳に刻まれていく。空には星が複雑な模様を描き、湖面に散らばるような光がどこまでも広がっていた。
パニーは舟の端に腰掛けて、サリーの動きをじっと目で追いかけていた。風が彼女の髪を通り過ぎ、湖の空気が肌に触れた。息を吸うごとに、心が少しずつ透明になっていく。
「ごめん、ごめん。それで、なんだっけ?」
「――俺も。一緒に――連れてってくれ」
エイディとパニーの視線が絡み、海の上で時がぴたりと止まる
「――え?」
「俺も一緒に連れてってくれ」
「――へ?」
「だーかーらー、お・れ・も! ここから出たいんだよ!」
エイディの声は夜の風に乗り、広がる海を叩いた。
「!」
「だめか?」
「――!!」
「なぁ? だめか? って、聞こえてるか?」
「――!!!」
「おーい――パニー?」
パニーは言葉を失い、ぽかんと口を開けたり閉じたりしながら、エイディをじっと見つめる。彼の揺るぎない眼差しに、返事の一つも見つけられず、ただ目を見返すばかりだった。
「――!! ううん! 全然! だめじゃないよ! ただ――そう。ただ驚いたの!だって、一人で行く気だったし、それに――」
パニーがようやく絞り出した言葉はまだ揺れていた。
「本当に?! いや、でも、あの――外界だよ? 大丈夫――なの?」
「――正直言うと、怖いが八割」
「じゃぁ、なんで――」
「でも、パニーさ、エムスタに言ってたろ? ここを、終わらせたくないって」
「――うん」
「俺もさ、終わらせたくない――そう、思った。"あの日"のこと、今でもたまに夢に出てくるくらいにはビビってる。けど――このままじゃだめだ。そうだろ?」
彼は、感情が溢れるまま拳をぎゅっと握りしめて、自らの思いを打ち明けた。その言葉には、気負いも飾り気もなく、ただまっすぐな力強さがあった。
「考えたくはないけどさ。いつか、じいちゃんたち、ばあちゃんたちが――死んじまったら。そしたら、ここには17人しか残らない。たった17人だぞ? もし、もしもさ、幻贖の力も途絶えちまったら?
彼の声は、言葉をつなげるたびに強さを増し、どこまでも力強く、彼女の心を鷲掴みにする。
「17人じゃ、少なすぎる。近くの未来は見えるけど、もっとずっと先が見えないんだ――そうだろ? ここは、俺にとっても大事な場所だ。俺たちを救ってくれた。絶対、終わらせねぇ!――って、そう思った」
「――エイディ」
「それだけじゃない。どうなってるかわかんねぇけど――生まれた場所も気になってる。もしかしたらまだ――いや、それはいい。とにかく行ってみたい」
「――そっか」
「あ、勘違いすんなよ? 行ってみたいだけだ。誰もいないしな。帰るのはここだ」
「――うん」
「それにさ、残りのニ割だけどさ、あー、パニーの言ってたケーキに、チョコレートにー、あと――何だっけ、遊園地? とか行ってみたいんだ」
「――覚えてたの?」
「あったりまえ! パニー達はさ、俺らに遠慮して外の世界のこと話さなくなったんだろうけどさ。俺は、すっげー憧れてた!」
「そっか、うん! うん! そっか、そうだよね」
「――じゃぁ!!」
「うん!二人で、一緒に行こう!」
パニーの心は、灯された。
「―――ほんとか!!」
「うん、二人で行こう! 行こうよ!それに、エイディが来てくれたら、私もとっても心強いよ」
「だろ? パニー結構抜けてっから、しっかり者の俺がついててやるよ」
「なにそれ、急に調子づくじゃん。私も意外としっかり者だよ――エイディよりお姉さんだし」
「年だけな」
「前言撤回するよ」
「二言はなしだぞ」
「柔軟な対応でしょ」
「あっ!! ってことは、つまり――」
パニーの口元にふっと笑みが浮かぶ。エイディをちらりと見て、その瞳にいたずらな光が宿す。
「バランとウィノナとのドッチボール頑張れ!怪我しないようにね?」
彼女の茶化すような一言に、エイディは目を細め、眉をしかめた。
二人は小舟を静かに進め、水上に浮かぶ集落へと向かっていった。そこは、大きさも形もばらばらな筏や浮き台が組み合わされ、思い思いに建てられた小さな小屋が並ぶ、浮かぶ集落だった。家々はほとんどが灯りを落とし、眠りについている。ただひとつ、薬草室だけがまだ灯りをともしており、その金色の光が水面に揺れる道筋を作っている。その道をなぞるように、二人は小舟をゆっくり進めていった。
風が二人の頬をそっと撫で、波が小舟を揺らす。進むたびに、淡い薬草の香りが漂ってきた。桟橋に舟を繋ぎ、薬草室の灯りが二人を優しく照らす。
「サリー、送迎ありがとな。またな」
「ありがとう―――おやすみ、サリー。また明日ね」
二人が声をかけると、サリーは首を垂れ、ゆっくりと海の中へ戻っていった。夜の海に残るかすかな波の跡は、彼女の余韻だ。
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