第10話 幕間
あるシスターがいた。
彼女はラミアだ。人間を除くこの世界の生物で頂点とも言える種族。欠点らしい欠点は寒さに弱いこととメスしかおらず他種と交わることでしか繁殖できないことくらい。
彼女は日々、清貧に身を浸しながら暮らしていた。
食事は月に一度と最低限。国中で盛んな、暗黙的に許されている違法な食事は一切行わない。交友関係も同性のみ。
太古の昔、この世界を席巻したといわれるモモモ人の聖遺物。それを守護することだけを生業に彼女は生きてきた。
そんな彼女がある日、いつものように地下墳墓へと足を向けるとそれは起きた。
聖遺物が――遺体が蘇っていた。
それだけならばよかった。ただの奇跡、世界にとっては大きな出来事であっても一介のシスターにとっては束の間の非日常。
問題は、蘇った彼が、そう、彼が、男だったのだ。
そして、あろうことか彼は全裸だった。
シスターラミアは清貧を是として生きてきた。自身の欲を律して日々を過ごしてきた。
しかし、その表現が適切でない欲望が彼女には存在した。
できないと、しないは、大きく違う。
異性のいる環境で異性への誘惑を断ち切ることと、始めから異性と接触しないことは大きな隔たりがある。
シスターは当然のように、男性に対する免疫がなかった。
モモモ人は、人間という地上の支配者の中でもとびきり優秀な人種だった。そして蘇った彼もまた、実に健康的な肉体を有していた。
二メートルに届こうかという背丈のどこか愛嬌のある美丈夫、モモモ人特有の黒髪黒目もミステリアスな魅力があった。全身も無駄な脂肪がついていない美しい体つきでしなやかな筋肉は抱きしめられた時に思わず失神してしまいそうになるほどであった。
七難隠すとは言うが、やや難があるように思える彼の性格も、男を文字通り知らぬシスターにとってはそういうものだと思えてしまう。何よりやはり、顔が良かった。否、顔も良かった。顔だけでなく全部良いようにさえ思える。
小一時間あるかないか。たったそれだけの時間であった。たったそれだけで十分だった。
無垢な白蛇はそれだけの時間で、彼の存在に惚れ込んでしまっていた。それだけ彼女にとって、この未知なる接触は刺激に溢れた魅力的なものだったのだ。
だがそれも、その彼女にとって熱病とも思えるほどの接触も終わりを告げた。
ラミアの国の小さな街の、これまた小さな教会の小さな小さな小屋の中に、天使様が降臨なされた。
天使様が現れた理由はシスターラミアにもすぐに分かった。聖遺物たる遺体の蘇生。そんな奇跡を前に、天界に住み地上を管理するといわれる天使が現れない訳がなかった。
奇跡とは、言い換えれば滅多に起きない世界の不具合のようなものなのだ。
天使は現れると、シスターラミアの前からモモモ人の彼を奪って消えてしまった。
シスターは突然の出来事に呆然とし、少しして今起きた事実を受け入れた後、大きな喪失感に襲われた。
つい先ほどまでそこにいた彼は、もういない。今どこにいるのかさえ分からない。おそらくは空の上にあるとされている、天使が大勢いるという天界にでも連れていかれたのではないだろうか。
ショックで小屋の中一人立ち尽くすしかなかった彼女の脳内に、ふと二人組の白蛇が現れた。
一人は白い羽根、もう一人は黒い羽根が生えていた。
白い羽根は言った。
「いけませんよシスター。アナタの努めは聖遺物の管理だけではありません。この教会全体を管理することもまたアナタの責務なのです」
黒い羽根は言った。
「かまいませんよシスター。所詮戒律など教会本部が決めたもの、アナタが信仰しているのはその教えであって教会そのものではないのです」
白は言う。
「戒律に従いなさい。それがアナタのすべきこと、欲望を律し自身を律し、そうしてアナタは生きてきたのでしょう?」
「欲望に従いなさい。それがアナタの願いであり、教えにも記された種族繁栄を司る根源の感情なのですから」
この二人は天使と悪魔なのだろう。
シスターの周囲を飛びながら、囁くように言葉を紡ぐ二人の白蛇。
考えて、考えて、考えて考えて考えて――シスターは、ぴしゃりと尻尾を叩きつけた。
白い羽根の蛇は太い尻尾に潰されて霧のように消えてしまった。
「天使は嫌いです。私から彼を奪ったのですから」
天使呼ばわりだった。
シスターの中で、天使という種族は既に敵だった。
敬称を付けるに値しない存在である。
彼女にとって重要なのは、彼女が信じていたのは、宗教そのものではなくあくまでその教えの在り方だったのだ。
神は死んだ。ついでに天使も滅べばいいのに。
パンクでロックな思想に目覚めた彼女は心中の悪魔が向けてきた笑みににっこりと微笑み返す。今は悪魔が微笑む時代なのだ。
それからの彼女の動きは早かった。
荷物をまとめ旅支度を整えると、教会と小屋に火を放った。もうこんな所は必要ない。そもそもラミアの国で信仰なんて全然栄えていないのだ。信者なんてぶっちゃけシスター一人だったのだし、大教会からの支援はしょっぱいし、美味しいものも食べられなければおしゃれだって許されない、そんな息のつまる宗教なんて滅んでしまえ。
「全ての者が種族問わず、主の下に平等である。その教えだけは捨てませんけれど」
轟々と上がる火と煙を前にシスターは呟く。
教会は街はずれの辺鄙な場所にある。他の建物への延焼の心配はない。
焼け落ちてゆく教会を見るのは、まるで春の訪れとともに脱皮をしたかのように清々しい気分だった。
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