第8話
軽く見積もって三メートル。
それほどの身の丈を誇る大男だった。
目の錯覚か、それともそういうものなのか。男の全身からは絶えず黒く粘りのある空気、瘴気とでもいうべき謎のオーラが溢れており、地面に触れると霧散するそれは、生物としての根源に眠る忌避感情を揺さぶってくる。
彼の右腕に握られているのは、矢であった。しかし弓はなく、また、矢そのものも異常な形態をしていた。
大きい。
細長いそれがまるで太い様に思えてしまうほど、その矢は大きかった。僕の太もも以上の太さの矢だ。まるで丸太にそのまま巨大な鏃をつけたかのようなそれは、矢であるというよりもそういう形状の大剣であると言われた方がまだ納得が出来る。
そんな大男に背後に立たれた少女は僕の視線を受けてのことだろう。はっと振り返る。男が矢を彼女に振り下ろしたのは、叩きつけたのは正にそのタイミングだった。
「きゃあああぁぁぁっ!」
「げふっ」
鏃が――否、刃が叩きつけられ土煙を上げる。叫び声と共に、少女が僕の方へと吹き飛んできた。そして彼女の頭が棒立ちだった僕のお腹のいいとこに入る。目覚めてから初めての痛みらしい痛みを受けて、僕はよろけてしまった。
「うぉ、痛ってぇ……吐きそう……」
そうぼやく僕の正面に、気が付くと大男がいた。
「ぅおっ!?」
矢が横薙ぎに振るわれ、僕はなんとかそれを腕で受けた。
受けきった。
受けた衝撃で足が地面を砕き、衝撃波が僕のすぐ近くで伸びていたオーク二人組を転がした。目が覚めたらしい二人は僕らの方を見て、ピギーと声を上げてその場から逃げ出した。
「――――っ!? バカっ、まともに受けず逃げなさい!」
胸の内から叫び声。見れば薄汚れた少女が僕を睨むように見上げていた。
その言葉は正しいのだろう。矢の刀身を受けた僕の右腕は痺れたように感覚がなく、大男の膂力が人外染みていることを如実に語っていた。
痛い。とても、痛い。
けれど。
僕の腕は、刃物のように鋭いそれを受け止めているにも関わらずまったく出血すらしていなかった。
再三いうけれど、僕の方も大概だ。
「大丈夫だよ。よく分からないけれど、向こうが化け物だっていうなら僕だってそうだ」
そう言って、ぐっと拳を握りしめる。
生まれてこの方、そして死んでこの方まともにケンカなんてしたことはないけれど、人間が持つ腕力、筋力の単純な力を暴力に変えるくらいなら僕にだってできる。ただ殴るだけなのだから。
この体は、遥か遠方の木を矢を投げることで吹っ飛ばしてしまうほどの力を秘めているのだ。
そう、思った刹那。
「うぐっ!?」
「きゃあっ!?」
僕の体が動きを止めてしまう。
視界がまるで消えかけの蛍光灯の明かりのように明滅する。筋肉が痙攣したかのように引きつり身動きが取れない。呼吸すらままならない。
まるで感電でもしたかのように。
「あが、が……」
違う。
実際に、感電しているんだ!
僕の体から電気が出ている! それで自分自身が感電している!
僕の体中からまるで稲妻のような閃光が放たれていた。
電気ウナギと仕組みは同じなのだろう。あの奇妙な生物も、放電の際自分自身も感電しているのだ。
どうして僕が放電しているのかは分からない。けれど、それが僕にとって不利にしか働いていないことは見るまでもなかった。
何故なら、空気は電気抵抗が非常に高い。放電しても感電したのは僕だけだ。
そして動けずに固まった僕に、大男が矢を振りかぶった。
「あ――――」
――――
『……まさか、こういった事態になるとは少々想定外でした。いえ、本音を言えば邪神の使徒と化したエルフ――古の大英雄ストマックをアナタが葬ってくださることを期待してあの森に堕としたのですけれど』
『ですから、ええ。想定外というのは保険がこのような形で起動してしまったことについての方です』
『説明を、ですか? どうしてワタシがそのようなことを? 目が覚めればどうせ忘れてしまうアナタにここで何を語ろうと、それは無意味というものでは――分かりました、話しましょう。話しますからその化け物を消してください。消しなさい、今、すぐに』
『……ふぅ。どういう訳か、夢の中であれば以前の夢の記憶も引き継いでいるようですね。いったいどういう理屈なのでしょうか、夢を見ないワタシ達天使には夢の原理がさっぱりですね』
『簡潔に説明しましょう。モモモ人。原始人ともいえる古代人ですが、彼らは人間の中でも頂点に位置するほど強力な人種でした。その強力な人種を始めて纏め上げたのが初代族長、モ・モーモだったのです。故にモモモ人はモモモ人と呼ばれている』
『死産したとはいえ、アナタはその初代族長の実子の体を有しています。その肉体に眠るモモモ人の力は、現代の生命には想像すらできないほどのものであるかもしれません。ですから保険をかけておいたのです』
『そう、天界でアナタに行った祝福……なんですか淫行とは。天使の祝福を下賤な生命の行為と同一視しないでください。これだから教養のない愚か者は……』
『保険の内容は暴力の抑止です。当たり前でしょう? 地上に圧倒的な強者が降り立ちそれを放置することなどできません。ワタシがアナタにこうして首輪をつけておくことは当然のことなのです。今後の動きにも関わって……おっと、これはまだ話すことが出来ませんね』
『ともかく。アナタは地上において暴力行為を行おうとすれば聖痕から雷が放たれることになるのです。いい気味です、昨晩ワタシを甚振ってくれた報いです。神罰ですよ、神罰』
『ですから無闇矢鱈と力を振るうことは出来ません。暴力行為は加減して行うように……とはいえ、目覚めてしまえばこの話も覚えてなどいないのですが。徒労感が凄まじいのでもういいですか?』
『よろしい。では目覚めなさい、ミゲル。ワタシも忙しいのですから、夜以外は意識を落とさないよう心掛けてくださいね』
――――
はっと目を覚ますと、空には星が浮かんでいた。
夜だった。真っ暗な森の中、三日月と星明りだけが輝いていた。
「あ、起きた? 良かった、流石にアレくらいじゃ死なないと思ってたけどもしかしたらってこともあるものね」
「……ここは?」
「見れば分かるでしょ、森の中よ。……アンタ、本当に人間? 電気を出す人間なんて初めて見たんだけど。それに自分で感電してるし……なにがしたかったの?」
目の前には、呆れたような顔の、あの亜麻色の髪の少女がいた。
こじんまりとした、十歳前後くらいの女の子。吊り上がった勝ち気そうな目は、探るような視線をこちらに向けている。
「アンタ、名前は?」
「百山ミゲル」
「モモヤマ? 聞かない部族名ね。まぁどこかの田舎部族なんでしょうけど。アタシは……あー……レーナ。ただのレーナよ」
何故か言いよどみつつそう名乗った彼女だったが、僕の怪訝そうな眼差しを受けてか少し強引な口調で。
「と、ところで! アンタ、なんでこんな辺鄙な森の中になんているのよ。それにその、なに? 変な格好」
「驚いた、僕もキミにまったく同じことを聞こうと思ってたんだよ」
「なんですってぇっ!?」
怒られてしまった。
理不尽。
「僕はまぁ、成り行きだよ。なんか知らないけれどこの森の中に落とされたんだ」
「落とされた? 空から?」
「そう、空から」
「ハーピィにでも攫われたの?」
「天使にだよ」
「天使? そんなものが実在すると本気で思ってるワケ? 嘘を吐くならもっと面白い嘘を吐きなさいよ、ジョークのセンスってのが微塵も感じられないわ」
「あれ、天使の実在性って疑われるレベルなの? 神様みたいなのがいるんじゃないの、この世界」
「変な言い方するのね、この世界って。まるで別の世界があるみたいな言い方。神なんているはずないじゃない、よしんばいたとしても、それは神じゃなく神だとおもえるくらいすごいってだけのただの生き物よ」
レーナと名乗った少女は中々強烈なタイプの無神論者らしい。ここまで真っ向から神を否定する意見は前世の日本ですら珍しかった。
信心深さが薄れてきた昨今の日本でも、なんとなく神を信じている人は多い。都合の良いときだけ信じる、というのがほとんどだし神も仏もごちゃまぜの信仰だけど、それでも神社やお寺にお参りをしたり、罰当たりだなんだという観念は持っている。神の実在を証明できずとも、なんとなくふんわり。
彼女はその点真逆だ。もし仮に神の存在証明が成されても、それは神のように見えるなにかだと言ってしまえる。
「アタシは、そうね。一人旅の最中に偶然ってカンジかしら。適当に世界中を巡っていたらこの森に入っていて、そこであの鎧の化け物に襲われたってワケ」
彼女の言葉で、その存在を思い出す。
「そうだ、ソイツだ。その化け物、どうしたのさ。もしかしてだけどキミがやっつけちゃったのか?」
だが、その思い出した存在は、続いた彼女の言葉で再び僕の意識からかき消えた。
「まさか。アタシって自分でいうのも本当にアレだけど、なんにもできないわよ?」
「……なんにも?」
「そう、なんにも。戦えないし、泳げないし、道具を作るのもへたっぴだし物覚えは悪いし体力だってあんまりない。ぜんっぜん、これっぽっちも出来ることがないの! へへへ、いいでしょ」
何故か誇るようにそう言うレーナだったけれど、僕は流石に首を傾げざるを得ない。
「あのさ。普通、って僕が言うのも変かもしれないけど、普通は出来ないより出来る方がいいんじゃないか?」
「大抵の人はそうね、でもアタシはそう思わないの。むしろ逆ね、なんでもできる人ってとっても可哀そうだわ!」
……可哀そう。可哀そう?
「なんで?」
「なんでって、決まっているじゃない。したことがないことをする、出来なかったことが出来るようになる、それこそが人生の醍醐味だからよ!」
その彼女の言葉は、どうしてだろうか。
僕の胸の内に、棘のような、しこりのような、得も言われぬ違和感を生み出した。
これは言語化しにくい感覚だけれどあえて言うならば、不快感。
もやもや、どろどろ。擬音にするならそうなるのだろうか。
「その点アタシは最高よね。なんだって出来ない今があるってことは、これからなんでもできるようになるんだもの! 世界征服だって夢じゃないかもしれないわ!」
流石にそれは夢でしかないだろう、と僕は思ったけれど、キラキラした彼女の瞳を前に何故か、どうしてだかなにも言えなかった。
何故僕が言葉に詰まったのかは僕自身にも分からない。
だから、振り絞るように言葉を繋いだ。
「キミは、レーナは人間、なんだよな?」
「見ての通り、人間よ? それがどうかしたの?」
「僕は人間はなんでも出来る化け物だって聞いた。実際、僕自身人間なんだけど、力はすごいし全然傷つかない、なんでもできるってのはあながち比喩表現じゃないんだって思うんだ」
「ふぅん? まぁ、大体は正しいんじゃない?」
年下と思えるような小柄な少女に、僕はなにを言っているんだろう。
そう思いながらも、どうしてだか言葉は続く。
「なんでも出来るのはいいことだ。優秀なのはいいことだ。優れている方が優れているなんて、偉いヤツが偉いなんて当たり前のことだろ? でも、キミはそれが可哀そうというんだ」
「可哀そうじゃない、だって」
「なんでだよ。どうして可哀そうなんだ」
「強い人は今から改めて強い人にはなれないし、偉い人もそうでしょ。人間って自分勝手だから、今より下の自分になんてなりたくないもの。始めから高い位置にいると、どうしてもそういう今に拘ってしまうのよ」
「分かったようなことを言うんだね、キミは」
「逆よ、分かっていないから言うの。強い人の気持ちも偉い人の気持ちも分かんないわよ、だってアタシは偉くも強くもないもの。だからアタシはアタシが思ったようにしか言わないの。知らない強者に気持ちなんて考えずにアタシが可哀そうだと思ったっていうの」
「……………………」
僕がこの世界で黙らされたのは、初めてだった。
きっと彼女は、自分で言った通りなんにもできないんだろう。弱いのだろう。賢くもないのだろう。偉くもないのだろう。
けれど、どうしてだろうか。そんな彼女に僕はどうしてこんなにも敗北感を感じているのだろうか。
鎧の大男を思い出す。
どういう訳か突然体が動かなくなって、気が付いたら僕はここにいた。アレが今どこにいるのか、どうなったのかは分からないけれど、きっと僕はアレに負けたのだろう。だが、それに対する敗北感は、正直ない。
「さっきまで気絶していたアンタに言うのも変だけど、もう夜だし寝た方がいいわよ。人間は夜に眠る生き物だもの」
そう言いながら、地面に無防備に横たわる彼女には、言いようのない敗北感を感じている。
今、もし僕が彼女に馬乗りになって首を絞めれば、きっと殺すことが出来る。簡単だろう。モモモ人の本能なのか、どうすれば殺せるかが感覚的に手に取るように分かった。
ぴり、ぴりと痺れるような感覚が肩から指先にまでじんわりと広がる。
「……うん、そうだね。夜は寝た方がいい。その通りだ」
僕は彼女に背を向けて横たわった。
どうにも、今夜は眠れそうにない。
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