泥の上に立つ

(被造物が壇上に立っている。周囲には人々が座っていて、熱心に見つめたり恐怖で泣き叫んだりしている)

 ぐらあき。

 冷めた土塊の原初の海の、淀んだ泡から産まれた肉の、朽ちゆく定めを恐れる子らの、祈り嘆きを穿ち給え。

(ぐらあき!ぐらあき!ぐらあき!ぐらあき!)

(覚めるまで繰り返し)



 薫が帰った。

 史織は久々に人との関わりを楽しんだ快い余韻を味わいながら姉を見送ると、クローゼットの中に閉じ込めている同居人を思い出して急いで部屋に戻った。

 クローゼットを開けると、レーコは丸まって眠り込んでいた。眉を顰め、頰は涙で濡れている。

 悲しい思いをさせてしまったのかな。私の軽率さがレーコちゃんを傷つけたのか?

 指でそっと涙を拭い、肩を軽く叩いても起きないので寝かせておくことにした。先にシャワーを浴びて寝巻きになって、さっさと寝てしまおう。そう思って背を向けた瞬間、隣の部屋から叫び声がした。

 上浪さんだ。史織はその場で立ちすくんでしまった。

 警察か、救急車を呼ぶべきか?でも、まだ叫んだだけだし、何か台の上から落ちそうになったとか、そういう他愛のないハプニングか何かだろう。

 微動だにせず耳を澄ませるが、その後は何も聞こえない。

「ん、シオリ……? お姉さん帰ったんだ……」

 史織が動き出す前にレーコが目覚めた。先程の叫び声は聞こえていないようだ。

「……うん。そうそう、レーコちゃん寝てたから先にお風呂はいっちゃおうかと思って」

「んん〜でも起きたから一緒に入る……」

 レーコはフラフラと立ち上がり、史織に眠たげにすり寄る。

 レーコの頭を撫でながら、史織はさっきの出来事を一旦忘れることにした。


 それから3日間、隣人の上浪は史織の眠りを妨害した。夜中に大声を出したり壁を叩いたりするものだから、そのたびに史織は目覚めてしまう。レーコは眠りが深いのか覚めないが、史織の記憶からそのことを知った。

 史織もレーコも流石に平気ではなかったが、能動的に対処はしないことに決めた。

 引っ越し挨拶以降付き合いのない人間とやりとりをするのは億劫だったし、単純に危険な人間の可能性があるので気が引けてしまう。かといって通報でもすれば事情聴取でレーコの身元を聞かれて、まずい状況になりかねない。

 全てが終わるか慣れてしまうまで我慢するしかないのだ。

 四日目には、大勢の人間が出たり入ったりしているような物音が聞こえたが、二人は気にも留めず部屋の中でネット小説を眺めていた。どうしようもないことで気を揉むのはとても疲れるのだ。

 五日目に、チャイムが鳴った。ピンポ~ンと間抜けた音に史織は飛び上がった。

「どなたですか〜……」

 史織は玄関まで小走りで近づくと、精一杯の声を出してドア越しに尋ねる。

「突然すみません。お聞きしたいことがあるんですけど」

 やけにハキハキとした女性の声が返ってきて、史織は顔を顰める。なんらかの勧誘か?

「ドアは開けなくても構いませんよ。質問に答えてければ」

「はぁ……なんですか」

「『もものき』という老人ホームをご存知ですか」

 もものき……確か徒歩20分くらいの距離にある老人ホームだ。行ったことはないが、周囲に看板がいくつか立っているため、名称だけならわかる。

「名前だけは知っています」

「そうですか。一昨日もものきで発生した集団入水事件について何かご存知ないですか」

 しゅうだんじゅすいじけん。その音の集まりが意味するものをすぐに掴めず、返答に詰まる。

「しゅうだん、じゅすい、です。入居者の方の何名かがホーム内の池に自ら飛び込み、亡くなりました」

 集団入水……入水自殺か!史織は合点がいったと同時に、何故そんなことを尋ねるのかという疑問が湧く。ドアには鍵がかかっているのに、無意味にチェーンも掛けた。

「知りません。今初めて聞きました」

「はい。では最後の質問をします。『グラーキ』をご存知ですか?」

 知らない。知りません。

 史織は心臓の鼓動で自分の声が聞こえなかった。

 分かりました。ご協力ありがとうございます。淡々とよく通る声でドアの前の人間が礼を述べ、立ち去る足音が遠ざかって聞こえなくなってから、ようやく史織は息を吐いた。

 レーコは布団の上で、青ざめた顔で下唇を噛んで震えていた。

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