虫かごの翅

 昆虫標本を見た。

 ピンと広げられた蝶の羽根が、色とりどりの絵画のようで美しい。

 これを作った人は蝶が好きなんだねと言うと、そんな訳あるかとソレは応えた。

 蝶々が好きなら虫籠に入れて、花をやるに決まっている。翅のきれいなうちに殺してしまって、剥製なんかにするものか。

 虫籠の蝶を見た。

 籠にぶつかって翅はズタズタになり、色褪せて、弱りきって、ゆっくりと翅を開いたり閉じたりするばかりになってしまった。

 こんな姿にするなんて可哀想と言うと、生きているなら姿なんて関係ないとソレは応えた。



 レーコちゃんだけならそれなりに余裕がありそう。史織は狭いクローゼットの中でそう思った。

 史織は背が高い方だ。身体はやつれているが、クローゼットは奥行きがそこそこあるため横になる分にはあまり関係ない。それよりも足を伸ばせないのがかなり窮屈であった。

「シオリ……なんか変なこと言って、ごめん」

 いいんだよ。と、史織はレーコを撫でた。レーコはその手に手を重ねて、痣を爪で引っ掻いた。

「なぁにレーコちゃん」

 レーコは掴んだ右手を自分の口元へ寄せる。不可解な行動に史織がされるがままになっていると、レーコが右手の痣に口づけをする。痣は触覚が鈍っているはずなのに、唇の触れたところからジンと痺れるような感覚がする。

 レーコちゃんは特別?

 口づけに留まらず、舌先でチロチロと痣を舐める。史織は少しビックリしたが、レーコのしたいようにさせた。

 自分の軽率さのせいでレーコがクローゼットに半日閉じ込められることが申し訳なかったし、痣をいじられて悪い心地もしなかった。

 ブツッ。と皮膚を貫く音が身体中に響く。

 痣を噛まれたのか……それもうんと強く。史織はどこか他人事のようにそう考えた。

 レーコは自分でやったことに愕然として青ざめたが、あたりは暗闇なので史織には見えない。

「ご、ごめ……ごめんなさい……」

 痣は痛まず、血も出ない。史織は歯で傷ついた部分が妙に軽くて心地良いのに困惑したが、レーコに対してなんらかの感情が湧くことはなく、どう慰めるか決めあぐねていた。

「わた、わたし……こんなことするつもりじゃ」

 史織は啜り泣くレーコの頭を胸のあたりに抱き込んで、好きにして良いんだよ、と呟いた。

 レーコは史織が姉を呼ぶのが不安だったのだ。全く正常な人間である姉との交流で、史織が人間的な感性を取り戻せば、レーコを忌避するようになるのではないか……そんな不安があった。

 史織は何故かそう思い、何故そんな風に思うのかは分からないながら、間違っていないことを確信していた。

 史織には自分のことが分からなかった。肉体と思考が分離しているようだった。思考の中ではレーコにどうしていいか分からないのに、肉体はレーコを慰めるように動き声を発する。

 思考さえも、もはや自分のものではないのか?

 史織は、自分の思うことが、自分の中にあるものではない気がした。思考の筋道がたどれないのに、ふと浮かんだ考えに確信を抱くのは奇妙だ。

「いいんだよ。怖くないよ。私はずっとレーコちゃんと一緒にいるからね」

 なんで私はこんな言葉を選んだのだろう?それさえも分からない。

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