狭い世界の内と外とで

 何度も泣きながら懇願した。やめてください、もう嫌だ。もう誰も殺さないでと。

 それは何度も、お前は間違っていると言った。



 史織は姉からの電話に出た。生存確認も兼ねて月に一回くらいのペースでかけてきては、ダラダラ駄弁る。それが今までの史織の唯一の他者との交流であった。

「やっほ〜。シーちゃんご飯食べてる?」

 いつものようにハキハキとした声が聞こえてくることに史織は安心した。異常な状況に置かれている中でも、まだ正常な世界と繋がりを保てていると思えた。

「食べてる。うん、お姉ちゃんは元気?」

「元気だよ。てかシーちゃん、なんか良いことあった?」

「ん。なんで」

 思いがけない話の流れに思わず声がうわずる。

「いや喋り方がさ、すんごい楽しそうな声っていうか、ウキウキしてる感じ?」

 そうかな、と部屋の端で通話の邪魔にならないようにジッとしているレーコに目をやる。たまたまレーコと目があったので、史織がはにかんで手を小さく振ると、レーコはそれがおかしくてクスクス笑った。

「ねー、明日さシーちゃんの部屋遊びに行って良いー?」

「ええ?明日ァ?」

「うんー明日休みなんよー。駄目だったら駄目でいいけどね」

 レーコちゃんのことを考えると無理……だけど、姉に会いたい気持ちもある。史織はしばらく黙ってしまった。

「……んーうん。そだよね。急に言ってごめんね〜。シーちゃん元気かなって思っただけだから。ね、なんか困ったことあった言ってね」

「あ、あ、いや、明日来ていいよ。部屋キレイにしたし、明日暇ならね!」

 無意識に口をついて出た言葉に、史織自身がビックリした。レーコも話の流れがなんとなく分かったらしく目を丸めている。

「え!じゃあ行くよ。めっちゃ暇だし、何時頃行けば良い?」

「あ、あ〜10時くらい……昼ごはん用意できないからやっぱ12時よりあとのほうが良いかも」

「え〜お昼もシーちゃんと食べたぁい。昼なんていくらでも買ってくるからさぁ」

「それなら10時で……」

 史織はレーコの顔をチラチラ見ながら姉と応答する。レーコは無表情だった。

「ん。オッケー。シーちゃんナポリタン好きだったよね。ナポリタン持ってって良い?」

「あは、そうだったっけ……」

 史織は数年の引きこもり生活の中ですっかり食の楽しみを忘れ去り、自分が何を好んで食していたのかさえも分からなくなっていたことに気が付き、焦る。でも、自分の姉が言うならナポリタンが好きなのだろう……たとえ腐ったような年月が自分の味覚を変容させていたとしても美味しそうに食べればいいのだ。と、史織は自分を落ち着かせた。

「あれ?違うのが良い?遠慮なくリクエストして〜」

「いやナポリタンが、ナポリタンがいい!ありがとね!」

「おけおけ〜じゃまた明日〜」

 テロンッと軽快な音とともに通話が終わる。

 史織はめいっぱいの溜息をつき、さてどうするか……と助けを求めるような顔をレーコに向ける。

 レーコも困ったようにおでこに手を置いて唸るが、ふと自分の背後のクローゼットに気がついた。

「そっか。普通に隠れればいいじゃん」

 風呂場は洗面所に入ると磨りガラス越しに見つかる可能性がある……となると、クローゼットしかない。史織は姉がそこまで無神経でないことを知っていたから、中を見せたくないからクローゼットを開けないでと言えば放っておいてくれることを確信していた。

「完璧な作戦だよ!天才レーコちゃん天才!」

 史織とレーコは暫く手を握り合ってはしゃいでから、クローゼットの中の掃除に取り掛かった。レーコが来たばかりの時にやった大掃除である程度は綺麗になったが、長時間いることを考えたらもう少し念入りにしたほうが良いだろうと考えたのだ。

 隅までピカピカに拭いたあと、レーコの布団が入ることを確認した。史織の姉がいる間、レーコはクローゼットの中で寝れば退屈でしかたがないなんてことはないだろう。

 史織がレーコの布団をクローゼットから出そうとしたとき、レーコが引き止めた。

「あのさ……今日はこのまま寝てみない?シオリもクローゼットでさ」

「え?今夜は私がクローゼットで寝るってこと?」

 確かに私のせいでレーコちゃんがクローゼットに閉じこもる羽目になるし、私も同じ目に……と納得しかけたが、レーコは顔を赤らめて首を振った。

「じゃ、じゃなくて2人で……」

 史織がポカンとしてると、レーコは耳まで赤くし、なんでもない!と布団を引き出そうとしたが、そこで史織はようやく理解した。

「2人でクローゼットの中で寝たいってことね!面白そうじゃん。うん、しよしよ」

 史織は目の前の少女を酷く赤面させたことに罪悪感を覚え、無理やり提案を肯定した。正直意味が分からなかったが、レーコが望むことを挫くのは本意ではなかったのだ。

 レーコはすっかり真っ赤になった顔で控えめに頷く。史織には彼女の気持ちが理解できなかったが、彼女が史織を求めていることを何となく感じた。

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