生活の在処

 爪と歯をもぎ取って、血で壁一面に神を描いた。

 人間が人間として生きることがあらゆる苦しみの根源であると思った。

 天にまします我らが父よ、私はヨブにはなれません。代わりに、あなたこそが人々を欺く病んだ幻想であることを暴くでしょう。

 人類の行く末こそ我が夢の続きであることを、誰が疑うのだろうか?



 碇紗が去ってしまってから一週間、買った弁当やおにぎりは手を付けずに腐らせてしまった。

 ある程度の生活感は戻ってきて、朝の9時に起きて歯磨きと洗顔をし、あとはまた布団で横になり、夕方頃に食物を摂取して風呂に入り、寝る。というペースが出来上がった。

「もうちょっとさ、できることやってみない?」

 レーコはパソコンで近所のクラブ活動などを探しているが、史織としてはあまり他者と関わりたくなかった。この部屋で完結しているならそれでいい。

「それならさ、なんか部屋でできる趣味とかつくらない?このままぼんやり過ごしてると……こう、心に良くない気がする!」

「んあ〜……丁寧に暮らすでいいんじゃない?もしかして、レーコちゃんが何かやりたいことあったりする?」

「……ない」

 そんなこんなで、2ヶ月ほど、規則正しいだけの生活をしていた。史織はそれで満足だったし、レーコも史織が幸せなら無理に変えなくても良いかと思っていた。


「はじめまして。僕、この度303号室に引っ越します、上浪と申します」

 ある日、隣人が挨拶に来た。人当たりの良さそうな好青年である。聞けば仕事の都合でここに移住したらしい。

「あ、ああ、ご丁寧に……」

 粗品のタオルを受け取ると、下手な愛想笑いを浮かべてそそくさと別れた。久々にまともな人間と相対し、かなりくたびれた史織は布団に倒れる。

「常識がありそうな人が隣に来てくれて安心だけどね〜……上鳥院の人とか来たら困っちゃうから」

 史織は上鳥院碇紗に関して音沙汰がないことを喜んでいた。次の者を送り込むなんてことをされないなら、多分『狡猾な神』との契約は変わったか、破棄になったのだろう。魔術師ナンタラカンタラなんてよく分からない世界にどっぷり浸かるなんて冗談じゃない。史織はだいぶ無責任なことを考える自分を自嘲し、天井を眺めた。

 親は真面目に生き、真面目に働き、借金はなく、老後を安楽に暮らせるだけの貯蓄をして、手を付ける前に死んでしまった。あの日のバスの転落事故。遺体は見ることができない有り様だと言われた。それが起きた場所は……

「シオリ。出掛けられる日は図書館にでも行かない?漫画とか、小説とか、そういうのを読めば気分も晴れるかも」

 レーコは史織に笑いかけた。史織は曖昧に頷くと、いいね、そうしようかとだけ答えた。


 そんなやり取りをした後の曇りの日、二人は近くで一番大きい図書館へ歩いていった。

 土だけの花壇、葉の落ちきった街路樹、ぴゅうぴゅうと木枯らしだけが響く閑散とした雰囲気も悪くないと史織は感じた。それに、隣にはレーコがいるから、一人だった今までとは全く違う季節なのだ。

「漫画読もうかな。どんな本があるか楽しみ」

 史織はぴょこぴょこ歩くレーコがかわいいなぁと心のなかで愛でながら、自分の好きだったジャンルを思い出そうとした。

「シオリはどんなのが好き?」

「ん〜……ふふ、着いてからのお愉しみ……」

 思いついていないだけである。

 図書館に着くとレーコは言っていたとおりに漫画本コーナーへ向かった。図書館内くらいなら離れても問題ないらしいので、史織も別の本棚へ向かう。

『怪奇・伝承』

 その文字列を見たとき、怪談が苦手なわけでもないのにゾッとして、背中を向けて別のコーナーを探した。

『エッセイ・文学』

 ここなら心騒がせるような本はないだろう……なんとなく背表紙を眺めると、不思議と目に付くものがあった。

『肉體の回顧』

 漢字の物々しさだろうか?ゴシック体のポップな雰囲気とはいささかミスマッチな文字列の背表紙をした本を引き抜く。サイズは文庫本のようだ。しかし、文庫本にしてはかなり薄い。題名が書かれているのは背表紙だけで、表紙も裏表紙も真っ黒な異様な本。

 史織はそれだけ持って、レーコの居る漫画コーナーへ向かう。レーコはその途中のテーブルで漫画を熱心に読んでいた。

 集中しているので、史織は声をかけずに横に座る。レーコはちらりと見るが、すぐに漫画に視線を落とす。

 広い空間に暖房のゴーゴーという音と、時折誰かが歩き回ったり咳き込む音が響く。

 史織もちょっとの間遠くを眺めると、黒い本を開いた。

『この本に書かれるあらゆる出来事は、主観的な体験に過ぎず、多くの場合は事実と異なる。』

 出だしが物々しいな、と史織は読み進める。

『ただし、この本において【グラーキ】と表記される神の存在は事実であることを留意すること。』

 もしかして別のコーナー……怪談かホラーか……の本が紛れ込んでいたのか?と史織は訝しむが、別にいいかとページを繰った。

『ものも充分に食えず、満足に眠ることもできず、恥辱と苦痛を与えられることが、天国に行く手段であろうか。爛れ腐った皮膚を、誰が癒やしてくれる?』

 ……目次もなく突然そんな文章から始まるので、史織は全容を掴もうとパラパラとページを早送りし全体を眺める。各話が2〜4ページの短編集のようだ。

 さっきまで読んでいた箇所に戻る。

『夢と現実とがわからなくなる……身体の限界を悟ると、その血肉が惜しくなった。グラーキと繋がるために、教えられた図形を己自身で描く……故に、グラーキは肉体を増やし、その働きに喜んで……そしてグラーキに食われることで、解放の悦楽と、正しき支配者に仕える歓びに満ちたのである』

 史織はその内容の陰惨さに1話読んだだけで本を閉じてしまった。暗くなる話をわざわざ読んでいたくないと思ったのだ。ただ、折角持ってきたのと、別の本を探すのがだるくなり、もう一度開いた。見開きが真っ白なページが現れる。

『お前の近くに居るのは』

 白いページに文字が浮かび上がり、史織は仰天して声も出せずに本を机から払い落とした。バシャァンと衝突音が館内に響き渡る。

「シオリ?」

 レーコが立ち上がり、史織の代わりに本を拾った。その中身を一瞬見るや、青ざめて服の中にしまい込む。

「駄目……駄目だ…」

 漫画を足早に棚に戻すと、史織を引っ張るように歩かせて外に出た。

「これはあっちゃ駄目……」

 レーコと史織は、帰る最中、お互い黙り込んだままだった。

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