上鳥居の末裔(1)
それは夢を運ぶ者。
それは夢を見せる者。
それは夢を見る者。
揺蕩うほどに、腐らせる者。
洗剤が届いたその日のうちに部屋をかなりまともな状態に戻したことに、史織自身が一番驚いていた。衣服はとりあえず着そうなものを全部洗濯機に入れて干すことができたし、風呂は気持ちよく使えそうだ。キッチンの皿も片付いた。
ここ数年寝るかごく稀に歩くかしかしていない自分の体力がここまで保つとは思っていなかった。
「レーコちゃんの眷属になったおかげかも」
史織が冗談半分にそう言うと、レーコは頷いた。
「私の力を与えてるからね」
本当にレーコちゃんの力なんだ、と史織はうすら笑いで返す。
「レーコちゃんって、神様?」
「神も化け物も妖怪も、人間が決めるものだよ。シオリにはどっちに見える?」
「そりゃもちろん、命の恩人だし、今もレーコちゃんのお陰で部屋がきれいになったし、神様
!」
レーコは苦笑いをして、お風呂のお湯を張りに浴室へ向かった。ふたりとも下山してから初めてのお風呂だ。
「お風呂かぁ……」
史織は最後にシャワーを浴びたのがいつかを思い出そうとしたが、不可能だった。風呂に入らない期間が長すぎた。
「……シャンプーとか、大丈夫かな」
レーコが浴室で悲鳴を上げた。シャンプーの容器から虫が出てきたのだ。史織が駆けつける頃には虫の始末を終えて、呆れ顔をするばかり。
「ごめん。だらしなくって」
「んーん。しょうがないよ」
ふたりはボトルを全部袋に纏めて、身体をうんとこすってから湯船に入ろうという事にした。
史織は不思議な気分だった。こんなに現実味のない存在によって、史織は再び自分の人生に実感を持ち始めている。
部屋を綺麗にして、身体を洗う。普通の人間には簡単なことが、以前の自分にはひどく難しいことだったのに、レーコと出会って二日で容易く達成されそうなのだ。
史織は両親がまだ生きていた頃のことを思い出した。あの頃は、自分の身体は自分の意思で動き、当たり前のことを当たり前にこなしていた。
「シオリ?どうかしたの?」
思考に陥った史織の顔をレーコが覗き込む。ハッとして、史織は顔の前で手をひらひらさせると、恥ずかしそうに誤魔化した。
「や、良かったなって。いろいろまだわかんないことはあるけど、とりあえずレーコちゃんと会えて、よかったって」
レーコもそれを聞いて気恥ずかしそうにした。
ピ〜ンポ~ン。
玄関のチャイムが鳴る。訪ねてくる人なんて居ないはず、と史織が怪しんで開けないでいると、苛立ったように何度も何度もチャイムを鳴らし、ガンガンとドアが軋むほど激しいノックをし始めた。
『居るのは分かってるぞハヤマシオリ!今すぐ出てこい!』
甲高い女の子の声が聞こえてきたことに腰を抜かし、史織はへなへなと座り込んだ。
「じゃあ出てやるよ……」
史織が怖がったのを見たレーコは怒りを抱きながら玄関へ向かった。史織は止めようとしたがビビりすぎて声が出ず、細い腕を伸ばして空をかくばかり。
「家主を驚かせるんじゃない!」
レーコは腹から声を出して怒鳴りながら玄関を勢いよく開けた。ゴォンと衝突音。ドアの前に居た誰かが思い切りドアに額をぶつけたらしい。二、三歩後ろによろめき、廊下のフェンスに背中をぶつけてずるずるとへたり込んだ。
「いたぁい……うぁぁあ……」
レーコはすっかり弱ったその人物を睨みつける。季節外れに分厚いコートを着て、大きな青いリボンで長く艷やかな黒髪を一つにまとめた、15歳そこらの女の子である。
史織が弱々しい泣き声を聞いて慌てて玄関に走り寄ると、困った顔でレーコに声をかけた。
「あの……知ってる人?」
「知らない」
レーコの返答で史織はもっと困ってしまった。
女の子は、額を手でおさえながら立ち上がる。背丈はレーコより大きいが史織より小さい。身長と顔のあどけなさから、中学生か高校生くらいかな、と史織は感じた。
「あの〜どなたですか?なんの用件で……」
「上鳥院 碇紗。あなたが神格を従えてるから、どうやったのか聞きに来た……」
少女は涙目で弱々しく答える。
「ウエトリイン テイサさん……あー……」
「私がシオリを眷属にしてる。わかったら帰って」
碇紗は俯くと、ボソボソと何かを呟くが、史織には聞き取れない。レーコはますます怒り、碇紗の顎を掴んで目を無理やり合わせると
「ハッキリ言って!私達に手を出したらタダじゃすまないって、分かって来たんでしょ!」
と恫喝し、碇紗を突き飛ばした。碇紗は小刻みに震えながら後ずさると、泣きそうな顔で走り去ってしまった。
史織はその光景をただただ、あ然と眺めていた。
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