#2 私の秘密

「―――で、分かっているんだろうな?荻野おぎの。お前のような奴がクラスの輪を乱していると」


 背格好が高く、ガタイの良い体育教師が、仁王立ちをして腕を組み、目の前の席に座っている女子生徒へ、冷淡な言葉をぶつける。


 体調不良、怪我等でここを訪れている他の生徒たちの視線が、針のように文香ふみかの胸に突き刺さった。


 他の生徒の対応をしている養護教諭は、時々こちらをちらちらと横目で見ては、面倒くさそうに顔を顰めている。


「あのな、学校行きたくないのはみんな同じなんだよ。でもみんな嫌々ながら頑張って来てる。お前だけなんだよ、逃げてるのは」


 ……みんな、同じ?


 その言葉に、文香は不信感を募らせる。


 耳に入ってくる、廊下で楽しげに話す女子生徒たちの声。


 姿は直接確認できないが、とてもじゃないけれど彼女たちが『嫌々ながら』学校に来ているとは思えない。


 そう思ったが、この状況でそれを口に出して言えるはずもないので、文香はただ黙って項垂れるしかなかった。


「お前、そんなんで親御さんに顔向け出来るのか?せっかく安くない学費払って、高校に通わせて貰っている立場で」


 ぐっ、と膝に置いた手を握りしめる。少しでも力を抜いたら、目尻から涙が零れてしまいそう。


 でも、泣いたりなんてしたら多分もっと怒られる。だから、文香は懸命に堪えた。


「あのな、社会は学校より何倍も厳しいぞ?その中で嫌でも他人と上手くやっていく術を身に着けなきゃいけない。学校は、教室はその練習の場なんだよ。それなのにお前ときたら…今からそんなんで、これからどうするつもりなんだよ」


 担任はまだ何が言いたげの様子だったが、授業の始まりを告げるチャイムが鳴り、説教は終わらざるを得なかった。


「明日も来るからな」


 最後にそう釘を刺すと、担任はズカズカと大きな足取りで保健室を出て行った。


 その姿を確認した瞬間、文香はほっと安心した。良かった。やっと出て行ってくれた。


 だが、『明日も来る』という担任の言葉に、文香は憂鬱な気持ちになる。


 あぁ、嫌だな。またあの長々とした説教を聞かされるのだろうか。



【✎✎✎】


 五時間目の図書室は、誰も居なかった。


 まぁ、当然である。文香以外の他の生徒は授業を受けているのだから。


 カウンターで本の整理をしている司書教諭に、『ゆっくりしていってね』と優しく声をかけられた。


 窓際の一番端の席に座ると、読みかけだった小説の続きを読む。


 誰も居ない図書室は、しんと静まり返っていた。

 

 仕事をしているらしい司書教諭の慌ただしい足音と、文香のページをめくる音だけが小さく響く。


 ここは教室のように、馬鹿騒ぎする男子の声も聞こえない。


『あいつキモくない?』という女子たちの陰口も、甲高い笑い声も聞こえない。


 大声でクラスメイトを怒鳴ったり、殴ったり、体罰を与える先生も居ない。


 文香にとっては、学校で唯一ほっと息をつける場所のような、『逃げ場』だった。


 最初の頃は保健室だって教室に居るよりかはマシに思えたが、度々やってきては『教室に来い』と催促してくる担任のせいで、心から安心出来る場所では無くなってしまった。


 ふと、外から笑い声が聞こえてくる。グラウンドの方からだ。文香は気が付くと、立ち上がって窓の外を覗き込んでいた。


 グラウンドでは、ジャージ姿の生徒達がグループになって騒いでいる。体育の授業だろうか。


 屈託なく笑う、少年少女たちの瑞々しい表情。


 まさに『一度きりの青春』を心から楽しんでいる、理想の高校生の姿。


 自分とは遥か遠い場所にいる彼らを眺めながら、文香は思い返していた。


 昔から、学校は苦手だった。


 臆病かつ繊細で、どんなに些細な失敗でも引きずってしまう文香の性格は、集団生活そのものに適していなかった。


 小学生の頃のクラスで、誰かひとりをみんなで無視したり、悪口を言うのが流行っていた時期があって、文香がそのターゲットにされたことがある。


 それ以降、文香は周囲の目を過剰に気にするようになった。


 嫌われたくない、居場所を失いたくないという思いから、常に他者の機嫌を伺ってばかりだった。


 それだけで心身ともに疲れ切ってしまい、文香は他のみんなのように、学校生活を楽しむ余裕なんて無かった。


 とはいえ、中学まではまだ良かった。心置きなく話せる友達が何人かいたから。


 だから、高校に上がりその友達と離れた途端、状況は一気に悪化した。

 

 初めこそ頑張って、クラスメイトたちとそれなりに上手くやっていた。


 だけれど、小さな誤解やすれ違いが重なっていくうちに、あぁもういいやと、徐々に気力を無くしていった。


 心は、とうとう限界を迎えてしまった。


 気がついたときにはもう、教室に入れなくなっていた。


 保健室で勉強した分を出席日数に入れて、なんとか単位は取得できるよう学校側が配慮してくれたおかげで、留年の不安はない。


 でも――――


 目が痛くなるほどキラキラ眩しい光景を背に、文香は再び席に座る。    


 そして家から持ってきた、文庫本サイズの日記帳を開いた。


 鮮やかな赤色の上に彩られた、金色の絨毯模様の、ノスタルジックな雰囲気があるお洒落なデザイン。


 商店街の文房具屋でこれを見つけた時、一目で気に入って即購入した。


 なんだか『アンネの日記』の作中に出てくる、主人公の日記帳に似ていて―――


 メモ帳にでも活用できるかなと思って、誕生日プレゼントに親から貰った万年筆まんねんひつと合わせて持ち歩いてみたものの、そんな機会には巡り合わなかったけど。


 感情のままに、勢いのままに、真っ白なページに筆を走らせてみる。


『いつから私はこんなふうになってしまったんだろう。

 いじめられたわけでもないのに、教室に入るのが怖いと思っちゃう。

 みんなの目が怖い。人と話すのが怖い。

 自分でもおかしいんじゃないかって思うけど、怖くて仕方ない。


 でも、大人は誰も私の気持ちを理解してくれない。

「甘えてる」「そんなんじゃ社会で生きていけない」って。

 何でそんなこと言うんだろう。

 なんで、誰も私の辛さを分かってくれないの?

 辛いことから逃げるのって、そんなに悪いこと?

 死にたくなっちゃうくらい苦しくても、無理にでも耐えて、立ち向かって行くのが「正しい生き方」だって言うの?  


 そんなことが出来てたら、私だって最初から普通に学校行けてる。

 周りのみんなはあんなに楽しそうなのに、なんで私はこんなに苦しいんだろう。

 同じ学校の、同じ教室に居るのに。

 私、やっぱり甘えてるのかな。

 そんなんじゃないって自分では思いたいけど、でも自身がない。

 やっぱり、先生の言う通りなのかな。

 お父さんとお母さんにも申し訳ない。

 この前だって私のことで夜中に喧嘩してたし。

 もう嫌だ。しんどい。学校も、こんな自分も。

 いっそのこと死んだら楽になれるのかな。

 明日なんてこなければいいのに。』



「それでさー、聞いてよー」


 文香はハッとして顔を上げる。気がついたらもう放課後になっていて、図書委員の生徒たちが中に入ってくる。


 まずい、と文香は焦った。文香は『教室に行けない』という今の自分の状況を恥じており、他人に知られるのを恐れている節があった。


 手元にあった本を棚に戻すと、大急ぎで図書室を後にした。



【✎✎✎】


(まさか、日記帳を忘れるなんて…)


 翌日の早朝。文香はため息をつきながら、図書室へと足を運んでいた。


 完全に焦っていたから、机の上に置きっぱなしにしていたことに気が付かなかった。


 クラスメイトに鉢合わせるのを避けるため、文香はいつもより一時間早く登校した。


 当然、廊下には誰も居ない。鍵がかかっていない入口を開け、図書室に入る。


 すると、昨日文香が座っていた席に、日記帳はちゃんと置かれてあった。


 とりあえず一安心だが、念のため中も確認しようと、ページを一枚だけ捲る。


 だがそこには、文香の目を疑うような光景が広がっていた。

 

『勝手に君の日記を見てしまって、ごめん。

 でも、いてもたってもいられなかったから、君へのメッセージをここに書くよ。

 迷惑だったら気にしなくていいから。』


 急いで書いたような、お世辞にも『綺麗』とは言えない大雑把な字。


 無論、文香の字ではないし、いつも図書室に居る司書教諭の字とも違う。


 一体、誰が。文香は反射的に、周囲を見渡す。当たり前だが、早朝の図書室には誰一人として居なかった。


 普通、不信感極まりない話だろう。誰にも言えないような―――胸の奥底に秘めた真っ黒な感情を、見知らぬ他人に、それも勝手に覗き見られて。


 それでも、文香は意を決して続きを読んだ。


 文香の密かな心の叫びを知って、この人はどう感じたのだろう。何を伝えたかったのだろうか。


 それを確かめないと気が済まなかったから。

 


『確かに、君の担任の言うことは間違っていない。

 きっと彼も、何か君を苦しめてやろうと思って、君に厳しい言葉をぶつけている訳じゃ無いと思う。

 教師は生徒を「正しい」道へと導くのが仕事だからね。


 でも、そんな「正しさ」が、君の心を苦しめているのも事実なんだろうな。

 だから別に、無理して立ち向かう必要なんて無いと思う。

 明日に希望を持てなくなるくらい辛い状況なら、他の奴らと同じになる必要なんかない。

 君が『また明日も生きてみたい』って思えるような……そんな場所を見つけてみるのも、一つの手なんじゃないのか?


 それでとやかく言ってくる奴も居るかもしれないし、君の場合だと担任はそうだよな。

 でも、どこかに必ず、君を理解してくれる人間は居るはずだ。

 少なくとも、俺はそう。

 俺は君を「おかしい」なんて思わないよ。

 君は間違ってなんかない。

 だから…もう少しだけ。

 明日も、生きてみてくれないか?』



「荻野さん…?!」


 驚いたような声で名前を呼ばれ、文香は振り返る。


 司書教諭が慌てた様子で文香の方に駆け寄ってくるのが、ぼやけた視界の中で確認できた。


「ど、どうしたの。大丈夫…?」


 司書教諭は文香の顔をそっと覗く。その顔は酷く気遣わしげな表情だった。


「もしかして、また先生に何か言われた?」


「……あっ…」


『違う』と言おうとして、でも、言えない。出そうとした声は喉の奥から込み上げてくる嗚咽によって掻き消されてしまう。


 目尻が熱い。そこから零れ落ちる涙は、文香の頬をつたって流れていく。また一粒、また一粒と。


 室内の電気に反射して光る雫が、日記帳のページの上に落ちた。文字が、じわりと黒く滲む。


 私、なんで、泣いてるの?文香は心の中で、自分で自分に質問する。


 悲しいから?苦しいから?寂しいから?


 いや、どれも違う。文香にはもう、答えなんて初めから分かっていた。


 嫌われたくなくて、人が怖くて、みんなになれなくて、『明日』が見えない文香のことを。


 彼は『おかしくない』と言い切った。信じられないけれど、でも確かにそうなのだ。


 言い切って、くれたのだ。


「……ちがっ…あの…嬉しっ…」


 溢れ出して止まらない涙を一生懸命拭いながら、文香はようやく気がついた。

 

 私はずっと、こんなふうに、誰かに話を聞いて貰いたかったのかもしれない。


 否定でも、根性論でも、上から目線のアドバイスでもなく。


 こんな私を、全部まるごと受け止めてくれるような存在を、求めていた。


 ただ、『君は悪くないよ』って。そう、言って欲しかっただけなんだ――――

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