第ニ章 眠りに落ちた梟

 奏多かなたという青年には、幼馴染がいた。

 家が近かったこともあって、物心ついた頃には隣にいた。遊ぶときも勉強するときも、気づけばいつも一緒にいた。


 その子の名は、理穂りほといった。

 幼い頃から、とても聡明な女の子だった。しっかり者で忘れ物もなく、他人想いで正義感が強い。誰にでも明るく社交的に接し、クラスでも常に多くの友人たちに囲まれていた。

 間違いなく彼女は、誰もが認める「憧れの女の子」だった。

 かたや奏多は、不器用で鈍臭く、引っ込み思案で人と話すのも苦手だった。勉強も運動も苦手、これといった趣味や特技もない。

 当然友達もできず、クラス替えや席替えがある度に、寂しさを隠すように机に突っ伏していた。


 だが、理穂はそんな奏多を避けることもなく、他の友人以上に――時には執拗なまでに積極的に関わろうとした。

 ある朝は、一人で学校へ歩く奏多に駆け寄り、教室に着くまで話しかけ続けた。

 次の日の休み時間には、図書室に行こうとする奏多を先回りして、何を読むのかずっと後ろで訊き続けた。

 また別の日の放課後には、奏多の家へ押しかけ、宿題が出ていた算数を教えたりもした。

 当の奏多も、理穂の圧倒的のエネルギーに困惑はしていたが、ほぼ唯一の友人でもあった彼女には本音で接することができていた。


 いつもそんな調子だったが、それも理穂の一時的な気まぐれではなかった。

 そこには確かに、小さい頃から同じ時間を過ごしてきた友との強い絆があったのだろう。その時間の分だけ、理穂が奏多のことを深く理解していたように、奏多も理穂のことを誰よりも理解していた。

 だから奏多にとって、理穂は特別な存在だった。友達であり、幼馴染であり、親友であり、他の誰よりも大切な人であった。


 その理穂は今、街はずれで雑貨屋を営んでいる。

 


 ***



 奏多はケーキの入った紙袋を手に、駅前の大通りを歩いていた。


「保冷剤、もう少し入れてもらえばよかったかな……」


 奏多は紙袋を不安げな顔で持ち上げる。

 今は三月——気温は十五度。買ってからまだ数十分しか経っていないのだから、悪くなっていないかなど、とんだ杞憂である。


 奏多は大学卒業後、都内の出版社に勤めてもう六年になる。相変わらず上司には怒られてばかりの職場だが、同僚とはそれなりに仲良くやっていて、彼も今の環境を気に入っていた。彼らの支えもあって、人並みに仕事もできるようになり、今はもう先輩として、新人の指導を任されたりもしている。


 そんな忙しない日々のなかで、奏多は月に一度、休暇を取って何本も電車を乗り継ぎ、数時間かけてこの駅に降り立つのだった。

 目的はもちろん、理穂に会うことだ。駅から少し歩いたところに、彼女の雑貨店がある。

 しかも今日は、彼女の誕生日なのだ。

 いつものように、大通りの脇の細い路地へと入っていく。



 理穂とは中学まで同じ学校に通っていたが、高校からは別々のところに進学した。必死に勉強して、理穂には内緒で彼女の志望校を受験したりもしたが、県内でも有数の進学校だったその学校には、到底手が届かなかった。

 とはいえ、生活している実家は近いままである。高校の頃までは通学のときにばったり出会ったり、夜に近所のコンビニで声をかけられたりと、不定期ながら交流は続いていた。SNSでのやりとりも、お互いに――もとい、ほとんど理穂の方から、週に一回くらいのペースで続いていた。


 大学に進学してからは、それぞれ実家を出て一人暮らしをしていたため、会って話す機会もなくなってしまった。忙しくなったのか、理穂から連絡が来ることも次第に減っていった。

 気になって、奏多の方から連絡をしようともした。しかし、きっと高いところで頑張っているだろう彼女のことを考えると、送信ボタンを押すことができなかった。十数年経ってもなお、しっかり者で賢い理穂と比較してしまって、どうしても彼から一歩踏み出す勇気が持てなかったのだ。

 そのようにして、各々がどこで何をしているのかを知らないまま、二人の関係は途切れていった。


「あのとき、自分から繋がろうとしていたら……何か違ったのかもしれないな」


 見慣れた道を、てくてくと歩く。



 街中の喧騒が背後に遠ざかっていく。人通りがなく静かで、聞こえるものといったら、自分の歩く靴音と、建物の間を抜ける風が耳元で囁く声くらいだった。

 奏多は歩きながら、再びぼんやりと回想にふけった。


 その出来事は、彼が数年間、理穂のもとを訪ね続けている理由でもあった。

 

 ***


 忘れもしない、三年前の九月十四日——ひどく蒸し暑い日だった。

 それは夕方のこと、奏多は帰宅する途中で、会社の最寄り駅のホームにいた。そこら中から、鬱陶しいほど蝉の大合唱が響いていた。


 突然、理穂から電話がかかってきたのだ。

 スマホの画面に現れた理穂の名前に、心臓が跳ね上がった。蝉の声が、急に静かになる。

 ――――どうして急に、電話なんて。


 およそ四年ぶりに聞く、理穂の声。

 緊張で落としそうになるスマホを強く握り直す。


 しかし、開口一番に放たれた理穂の言葉に、彼はただ茫然ぼうぜんと立ち尽くした。



 奏多、あのね。


『————私、ひとりぼっちになっちゃった』



 その声に、学生時代の頃の明るさは感じられなかった。穏やかだが、まるで感情を欠いたかのような平らな声色で、彼女は言葉を続けた。



 ――――その日、理穂は交通事故で家族を亡くしていた。

 

 東京に来る途中の家族が乗った車に、大型トラックが突っ込んだという。

 乗っていた両親と妹――三人とも即死だったそうだ。病院に搬送される前に、救急車のなかで死亡が確認された。彼女は警察からの連絡を受け、初めて自分が独りになったことを知った。

 最期の声を知ることもなく、理穂は一日に家族全員を失ってしまったのだ。


『ごめんね、すっごく久しぶりだよね。全然お話できてなかったね』


 理穂はそれ以上詳しいことを話さなかった。話を逸らすように、いきなり旧友との世間話を始めた。


『もうすっごく忙しくてさー。理学部だったんだけど、インターンとか大学院とか、いろいろ大変で』


 独りになったという事実を、まだ受け入れられないのだろうか。不自然に虚ろで淡々とした口調が、鋭いナイフのように奏多の心をえぐる。

 駅の騒音なんて、もう彼には一切聞こえなかった。ただ理穂の声だけが耳元で続く。


『去年から製薬会社の開発部に入ったんだよ、すごいでしょ。試験大変だったなぁ』


 理穂は、事故があったなんて知らないかのように自分語りをしていた。反応を求めることもなく、まるで独り言のように。


 今彼女が何をしているのか、ずっと知りたかった。どこにいるのか、誰と、どんなことを考えているのか――ずっと気になって仕方なかった。

 なのに、内容はまったく頭に入ってこない。空っぽな彼女の声が、頭の中に反響して鳴り続ける。


『今はね、杉並に住んでるの。奏多も東京にいるんでしょ?少し前に、お母さんから、聞いたんだよね――――』


 そう言ったところで、理穂は黙り込んだ。


 ……永遠に続くかのような、痛くて苦しい沈黙だった。



 やがて、絞り出すように震えた声が、スマホ越しに響いた。



『…………ねぇ奏多、ひとりになっちゃったよ、私』



 泣き出しそうになるのを必死に我慢して、無理やり笑顔を作ったような、そんな言い方。

 心配をかけまいと明るく気丈に振る舞う、理穂がときどき見せる、強がりの声。



「————今そっちに行く。すぐに迎えに行くから」



 奏多は夢中で、反対のホームの電車に飛び乗った。


 僕を頼ってくれて、ありがとう。

 僕に話してくれて、ありがとう。


 そんな勝手な感謝の想いは、口に出す勇気もなく、心の奥底へと沈んでいった。


 ***


 愛する家族を失う……その絶望は、理穂の心を限界まで追い詰めたのだろう。



 ――――事故から数週間後、唐突に彼女は、事故で家族を失ったことを忘れてしまった。



 両親や妹のことはおぼえているが、なぜいなくなったのかだけが、まったく思い出せなくなっていた。

 周囲が事故のことを説明しても、そのときの様子を思い出すことはなかった。まるで教科書に書いてある歴史の話を聞いたときのように、ただそういう事実として、他人事のように受け入れている様子だった。

 その数週間が悪い夢だったみたいに、彼女は学生の頃と同じ明るさを取り戻していた。


 それからさらに数ヶ月後、彼女は自分が会社に勤めていることを忘れてしまった。

 無断欠勤が続き、上司からの連絡を受けて、訳もわからないままに、口頭で退職する旨を告げた。その上司も事故のことを知っていたから、むやみやたらに問い詰めることはしなかった。

 このときも、上司や同僚のことは憶えていたが、彼らが仕事仲間であったことや、どんな仕事だったかといった、仕事をしていた時間の記憶だけが抜け落ちていた。


 いわゆる認知症——とはまた違うらしい。医師の推測では、外的なショックから自分の心を守るために、脳が記憶に鍵をかけている、一種の記憶喪失にあたるという。

 だが、失われる記憶に関連性がないことや、脳を検査しても一切異常は見られなかったことから、投薬などによる根本的な治療は難しいとされた。カウンセリングも行われたが、不定期な記憶喪失が治ることはなかった。



「残念ですが、現時点では、一度失われた記憶が元に戻る可能性は低いでしょう」


 関係者として、理穂の親戚から説明を聞くよう頼まれていた奏多に、臨床心理士の先生が冷静に告げる。


「理穂さんのお身体は健康そのものです。今の症状を見る限り、直接的に命に関わる事態に発展するケースは、まず無いとお考えいただいて構いません」


 言いながらも、先生は眉間にしわを寄せ、PCの画面に目を移す。


「……ですが、記憶の喪失が食事・睡眠・排泄や、あるいは言語能力などに影響を及ぼすことになれば、いずれは介護を要する可能性もございます」

「か、介護……ですか」


 戸惑う奏多に再び向き直ると、先生は頷いて続けた。


「ただ、これまでに欠落した記憶は、理穂さん自身の体験した、いわゆる『思い出』のみです。これが、無意識下の身体活動や言語活動、ルーティーン的な日常生活にどこまで侵食するかは……現時点では何とも言えません」


 そう言って申し訳なさそうに首を振る先生に、奏多は黙って目を伏せた。


 一度忘れたことは、もう戻ってこない。

 忘れてしまった間の出来事は、彼女にとって無かったものになる。

 大事な家族が死んだ理由も、憧れの会社で努力した時間も、もう彼女のなかには存在しない。



 そして一年後、彼女は、自身が治療を受けていたことすらも忘れてしまった。



 医者や専門家らは、このまま対面での診療を続けていると、かえって彼女を傷つける可能性があるとして、陰からの長期的な経過観察へとかじを切った。何かあったときにはすぐに駆けつけられるよう、警察と連携して見守ることとなった。

 事実上の治療打ち切りの方針に、奏多だけは最後まで反対していた。心理士の先生に何度も抗議をして、なんとか諦めないでくれと頼み込んだ。しかし先生も苦渋の決断だったようで、根拠もない感情論では、決定事項を変えることはできなかった。


 理穂が今の雑貨店を始めたのも、その頃のことだった。

 彼女は地元に戻り、実家の一室をリフォームして店舗をつくった。販売する商品は、彼女の大学時代の友人でハンドメイド作家をしている人に声をかけ、そこから少しずつ伝手つてを広げていった。

 その後も、繁盛するとまではいかずとも、元々多彩で器用だった彼女は、特に大きなトラブルもなく経営を続けていた。本人も非常に楽しそうにしており、はたから見ても、会社などに比べて自由度の高い環境が、今の彼女にとって、これ以上なく適しているように思われた。


 しかし、奏多だけは理穂のことが心配で堪らなかった。

 理穂がすごい人だということは、奏多自身が一番よく知っていたし、今だってそれは変わらない。でも、あんなことがあったというのに、何度も記憶を失っているというのに、たった一人で店を経営するだなんて。


 僕はもう二度と、理穂が傷つくところは見たくないんだ。


 ……だが、自分に何ができるというのだろう。自分よりも遥かに優れた理穂のために、知識も勇気もない自分がしてやれることなんて、あるのだろうか。

 頭を抱える彼の脳裏をよぎったのは、診療の打ち切りが決まった日、臨床心理士の先生が彼に言った言葉だった。



「理穂さんと、たくさんお話ししてあげてください。お互いをよくご存じのあなたと話すことは、理穂さんにとって心安らぐ時間になるでしょう」


「————これは、あなたにしかできないことですから」



 それから奏多は月に一度、東京から何時間もかけて地元に戻り、理穂の店を訪ねることにした。

 それは大切な理穂を守るためであると同時に、彼がもう二度と、理穂とのつながりを失わないようにするためでもあった。 



 ***



 先月は仕事が忙しくて、どうしても休暇が取れなかった。だから理穂と会うのは二ヶ月ぶりであった。

 ケーキの箱がまだ冷たいことを確かめると、奏多は店の看板の前で立ち止まり、大きくひとつ深呼吸をする。


 雑貨店のガラス扉は開かれたままになっていた。

 店内には、見慣れた理穂の姿があった。一つに結んだ美しい琥珀色の髪が、吹き込んだ春風に触れて揺れている。まだ、奏多の存在には気付いていないようだ。


 こんにちは。久しぶり。

 お誕生日おめでとう。元気だった?

 何と声をかけるか考えていた、そのときだった。


 ふと、理穂の手元に視線が向く。その手には何か売り物らしきものが握られていた。彼女はちょうどそれを、店内奥のカウンター裏に下げようとしているようだった。

 なんだろう。何気なく、覗き込むように首を伸ばす。


 その細い指の隙間からちらりと見えたものに、奏多は目を疑った。



 フクロウ……木彫りのフクロウ。



「あっ、それ……!」



 思わず声が漏れる。

 間違いない、そのフクロウは————。



「はい!いらっしゃいませ!」



 理穂の声が、店内に響いた。

 いつもより、やけに明るい声だった。



 <続>

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