第7話 flylikebirds

『シャンデリアからぶらさがる

 シャンデリアから


 明日はないようにいきる

 明日なんてないみたいに

 夜を鳥みたいに飛んで

 乾いていく涙を感じる』


 この病棟には小山さんという患者がいる。精神科に入院している人たちのなかでも、人際立っておかしい行動をするおばさんである。医者を見つけると手を挙げて、「小山でーす。」と言いながら近づき、「早く死にたいでーす。」と言って医者を困らせる人である。いきなりパニックになって私物を全てゴミ箱に投げ入れてしまう人でもある。少年は、そんな小山さんに対して親近感を持っていた。


 ある日、デイルームにおいて、美穂ちゃんと瑛子さんのいつもの三人組でくつろいでいた。テレビでは、お昼の天気予報を流している。明日は曇り時々雨、相変わらず気温は低いままだそうだ。でも、この閉ざされた空間には関係ない。


 「明日雨じゃん。今のうちに外行こうかな。」


 そう言って美穂ちゃんはフェンスに囲まれたグラウンドに行った。「私も。」と瑛子さんも付いて行った。少年も一緒に外に出ようとしたが、ある声が聞こえてきた。


 「小山でーす。」


 左右非対称な歩き方で小山さんがやってきた。小山さんはぐしゃぐしゃの長髪を後ろでまとめていた。右手を突き上げながらナースステーションに向かって声を発する。


 「小山でーす。誰かいませんかー?」


 看護師さんは誰も気づかない。いや、気づかなかったふりをしているのだろう。小山さんの訴えはどうしようもないことだらけで皆を困らせる。だから、看護師さんに軽くあしらわれる。


 小山さんは大声出すのは諦めて、少年のいるデイルームに入ってきた。お互い、「こんにちは。」と軽く挨拶をした。小山さんは共用のシンクの前に行き、覗き込んだ。「わー。」とだけ言って、自室へと戻っていった。

 

 少年は何か嫌な予感がした。なんとなく小山さんの思考回路が分かる。


 「雨降ってきたよー。」


 美穂ちゃんと瑛子さんが帰ってきた。グラウンドの地面は雨粒で班柄となっていた。何となく雨の甘い匂いがデイルームに流れ込んできたように思える。


 やはり、小山さんは戻ってきた。右手には歯ブラシ。いつもはふらふらと歩くのに、今回は一直線に進んでいた。


 シンクの前にたって、排水口のフタを外す。トラップも外した。そして、歯ブラシで磨き始めた。


 「やだー。」


 瑛子さんはすぐに気づいて声を上げた。少年も観察するのを流石にやめ、小山さんを制止しようとした。


 「小山さん、汚いですよ。歯磨きできなくなりますよ。」


 「いや、いいんです。きれいになりますから。見て、見て。」


 小山さんは、言うことを聞かない。そんなことも、少年は分かっていた。こんな奇行する小山さんと自分にはなにか似たものがあるように感じる。


 「だめだよ。小山さん。」


 そう言って瑛子さんは看護師を呼びに行く。その間も小山さんは、必死にシンクの排水口を磨き続ける。その目は、とても真剣だ。そして、看護師さんがやってきて、「またか」といった表情で、小山さんを無理やり部屋に戻した。


 そんな感じで「歯ブラシ事件」は終わった。


 「困った人だね。」


 美穂ちゃんはそう呟いた。


 小山さんは確かにおかしな人である。おそらく現実社会では、今回のような行動を何度も繰り返して、外れ者として扱われるだろう。ここの病棟に入院しているのも納得である。でも、汚れを見定め、取り除いていくその姿は決して馬鹿にできるものではない、と少年は確信していた。少年は、身体の中心からマグマのように何かが湧き出てくる気がした。多分、それは「優しさ」であった。


 翌日、少年はいつものようにデイルームに座っていた。すると、小山さんの声が聞こえてくる。あの少し脱力した「小山でーす。」が廊下に響く。声はだんだんと近づいたと思ったら、そのままナースステーションを通り過ぎてしまった。変だと思った少年は廊下に顔を出して、声の後を追う。小山さんは男子トイレを磨いていた。少年は、小山さんのもとに行った。


 「気になるんですか?汚れ。」


 「そうなんですよー。綺麗にしますからね。」


 そんなやり取りをしていたら、小山さんは看護師に見つかった。


 さすがに、連日の出来事は問題となったのか、看護師と数人の医者がナースステーションで円になり、話し合いをしている。多分、小山さんの件である。少し経って、三人の医者が出てきた。そして、小山さんの腕をとり、面接室へと続く廊下の奥へ連れていった。その先は、少年は入ったことがないが、知っている。隔離部屋である。小山さんは、抵抗なんてしなかった。その淡々とした光景は、少年の心の空洞に響いた。


 隔離部屋に入ったところで、小山さんの苦しみは取り除かれるのだろうか。多分、あの人はどこにいても汚れが気になるだろうし、多くの人は面倒に思うのだろう。少年は、自分に近しい人に会えなくなったことに寂しさを感じた。そして、少しの憤りも。


 結局、少年が退院するまで、小山さんは隔離部屋から出てこなかった。

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