第6話 holy cow

『この匂いから逃げられない

 奴は何日もうろついている

 彗星のごとくやってきて

 お前を誘惑する(他人ではなく)

 

 いつかお前のもとに来る

 そしてholy cowになる方法を教える』

 


 閉鎖病棟に来て、一週間ほど経った。


 「今日は二人だね。」


 広いデイルームには、若い男女が二人いるだけであった。時間はそろそろ午後四時になろうとしている。


 「瑛子さんは調子悪いのかな。」


 「そうかもね。心配。」


 二人はいつもと同じようにおしゃべりしながら、折り紙をしたり、テレビを見たりしていた。人が少ないと寂しいものだが、少年はこの時間が大事なものであることは分かっていた。


 美穂ちゃんは白くてとても細い手で赤い折り紙を半分に折っている。病的なほど痩せている。実生活で出会っていたら、「大丈夫?」と心配する人がほとんどだろう。でも、少年は、出会ってから彼女に対してネガティブな印象を抱いたことは全くない。そのことは少年にとってとても良いことだった。この病棟が彼にとって心地の良い場所であった理由の一つとして、同世代の仲良しができたことがあると言える。


 「ずっとここにいたいな。」


 少年はそう呟いた。その声は、美穂ちゃんにしっかり聞こえていた。


 「ここに?ずっと?私は嫌だな。なにもできないじゃん。」


 「確かに。前言撤回。早くここからでたい。」


 「何それ。」


 二人して笑いあった。デイルームは暖かい空気に包まれた。


 「勉くんはここから出たら何がしたいの?」


 「うーん。ケンタッキー食べたい。」


 「ケンタッキーか。」


 美穂ちゃんはいかにも、ケンタッキーは苦手です、というような顔をした。


 「好きなの。ケンタッキー?」


 「うん。意外でしょ。」


 少年は、見た目に反してジャンキーな食べ物が好きであった。特に、ケンタッキーは大好物であった。クリスマスはケンタッキーを食べて過ごすことが理想だったが、その夢が叶ったことはない。


 「あのスパイスの味と油が最高なんだよ。肉にかぶりつく感じもめっちゃいい。」


 少年が楽しそうにケンタッキーの魅力を語る。それを美穂ちゃんは、「へー。」と言いながら聞いていた。


 「あんまり好きじゃない?ケンタッキー。」


 「うん。」


 美穂ちゃんは気まずそうに頷いた。彼女は拒食症である。食べ物の話をしても共感される訳がないことを少年は悟った。


 「ごめんね。」


 「いや、全然。」


  さっきまでの時間の流れがぐにゃりと曲がる。夕方になり光が差し込まなくなった部屋の空気は黒い重さを持ち始めたように感じる。少年は、このような状況を打開することがとても苦手である。頭がかたまってしまい、何を話したらいいか分からなくなるからだ。居心地が悪くなり、強いストレスを覚える。過去に起きたトラウマのような出来事が思い起こされて、だんだんと心が押さえつけられるような感じがする。少年の心には異変が生じる。


―苦しいだろう?


 モザイク状の声が聞こえる。鈍い頭痛がして、それを我慢しようと歯を食いしばる。


―死んでしまった方がいいぞ。ツトム。おい。


 強く歯を食いしばると、視界が狭くなるようだった。耐えられる状況ではなくなってきた。


 「ごめん。」


 それだけ言って、席を立つ。美穂ちゃんも少年の異常を察したようで、心配そうに「うん。」と言った。


 ナースステーションまで急ぎ足で向かい、呼び出しボタンを押した。中にいる広崎さんと目が合った。


 「どうしたの?」


 ドアが開くと同時に質問される。


 「変なのが聞こえるんです。頭も痛いし。」


 「変なのが聞こえる?ちょっと待ってて。」


 広崎さんはすぐに戻り、パソコンを確認した。


―死んだ方がいいぞ。ツトム。


そして、広崎さんは奥からせわしなく薬を持ってきた。


 「いったん、これを飲んでね。部屋でゆっくりしていて。一時間たっても収まらなかったらまた教えて。」


 薬を貰い、その場で飲む。自分のコップを持ってきていなかったから、紙コップを用意してもらった。スムーズに対処してもらったことに、変な安心感を覚えた。今日の日勤が広崎さんで良かったと少年は思った。


 そして、自分のベッドに戻り、白い布団の中に潜った。頭を両手で抱え、いかにも苦しそうな格好だ。だんだんと身体が重くなり、眠りについた。


 「勉くん。ご飯、ここに置いておくね。」


 夜勤の看護師さんの声で目が覚めた。三十分くらい寝ていただろうか。起きて食事を済ませる。変な声はもう聞こえなくなっていた。


 就寝までの時間はデイルームではなく自室で過ごすことにした。スマホが回収される九時まで、時間の許す限り、外を眺めながら好きな音楽を聴いた。


 しかしながら、音楽に集中することはできなかった。なぜ自分はここにいるのだろうか。少年はそのことばかり考えていた。自分に存在意義はあるのだろうか。機械音声の指示に従って死んでしまった方がよかったと感じてしまう。きっと誰も理解なんかしてくれない。疑っているのではなく、確信している。自分と他人の間には、大きすぎる壁がある。そんなことを繰り返し考えていたら時間があっという間に過ぎた。気づけは消灯時間になろうとしていた。Twitterを開いて、つぶやきを投稿する。


 「やっぱり化け物。ぼく。おかしい」


 私物をナースステーションに返却し、床についた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る