第5話 fitter happier more productive
『人生が冗談でないなら
なぜ俺らは笑っているんだ
人生が冗談でないなら
なぜ俺は死んでいるんだ?』
先生に対して多くのことを話すつもりであったが、意外とすんなりと話が終わってしまった。少年は、今まで誰にも話したことない人生を、非常に簡潔に伝えた。本当はもっと詳しい話があるのだが、思い出すことはとても辛かったので、短くまとめた。それに、頭がぼやけて、思考がバラバラであった。話をしていた間、先生は丁寧に分かりやすくA4のコピー用紙にメモをしていた。
「とてもストレスが多いようだね。こうやって整理しても、かなりのストレスだよ。」
先生は、まとめたメモを少年に見せた。少年の人生がグラフとなって示されている。縦軸はストレスの度合い、横軸は時期であった。
話ができたことで少年は心に余裕ができたように感じた。多少の笑顔も垣間見える。もっと早く、誰かに話すことができていれば、楽だったかもしれない。でも、こうなったのは仕方のないことだと自分に言い聞かせた。
「その「化け物」は今でも感じる?」
「たまに。」
「なるほど。もし、感じたりしたら教えてね。」
「うん。」
「あと、薬について話をしようか。今日から新しい薬を使ってみよう。」
それから、内服薬についての説明があった。薬に関して特別な注文はなかったから、適当に相槌をうっていた。時間が来たからと言って、先生との話は終わった。
部屋に戻ってベッドに座った。イヤホンをスマートフォンに繋げてApple Musicを開く。「あなたにおすすめ」のところには、レディオヘッドの『OK Computer』が表示されていた。なぜこうも自分にお似合いの音楽が表示されるのか。でもそれは、素晴らしい提案であった。
少年は迷いなく、その青と白のアルバムを聴いた。エアーバッグについての歌で始まる。内気な曲の世界の中に少年は立っていた。自分の中からこみ上げてくる何かがあった。カーマ・ポリスがやってきて、少年に現実を突きつける。そのピアノの音は、彼の涙となり、視界を霞めた。トム・ヨークが歌い上げた世界はどれも美しく、少年の心に直接的に作用した。彼は、これ以上ないほどの涙を流した。
夕食の時間となり、食べられるだけ食べた。下膳をし、歯を磨いて、薬をもらった。また、音楽を聴き、時間をつぶす。窓の外は暗く、アスファルトが目立たなくなった。九時になり、薬をもらう。三十分ほどして口の中が苦くなる。それと共に眠りについた。
翌朝、七時半に起きて、八時に朝食を食べた。そこでの生活に面白みはなかった。機械的に日々を過ごす。シャワーを浴びて、ご飯を食べ、外を眺めて、音楽を聴く。こういったことの繰り返しであった。多少の不自由はあったが、少年にとって、ここはとても心地の良い場所であった。
四日目になって、洗濯物が非常に溜まっていることに不愉快を感じ、ランドリー室へ向かった。看護師に洗剤とテレビカードをもらい、かなりの量の服を洗濯した。そして部屋に戻ろうと廊下にでた。そこで女の人と鉢合わせした。
「こんにちは。」
目が合い、少年は挨拶をした。女の人も「こんにちは。」と笑顔で返した。数秒の沈黙があった後、女の人が話し始めた。
「君、ここにいて暇じゃない?デイルームとか来たりしないの?」
「ああ。いや。行かないですね。でも、暇ですね。」
少年は、いかにも人見知りといった受け答えをした。
「デイルームおいでよ。テレビとか一緒みようよ。」
「ああ。はい。」
半ば強引にデイルームへ行くこととなった。少年は女の人と共に、部屋とは反対の方向へ歩いた。デイルームには、少年と年の近そうな女の子が一人座っていた。
「連れてきちゃった。」
女の人はそう言って、椅子に座った。少年もその隣に座った。
「初めまして。」
少年は小さな声を発した。その言葉以外、何を話したらいいのか良く分からなかった。
「何歳ですか?」
可愛らしい声で、その痩せた女の子は質問をした。
「十七です。」
「えっ。同い年じゃん!私、美穂っていいます。山本美穂。よろしくね。」
すごくはつらつとした話し方だった。少年は自然と笑顔になった。そして自己紹介をした。続けて、女の人も口を開いた。
「私は、山口瑛子といいます。二人より二十くらい年は上です。二人とも若いね。いいな。」
「いや。瑛子さん、全然若く見えるよ。」
「ほんと?うれしいな。」
二人のやり取りを少年は眺めていた。二人はまだ出来上がっていない折り紙をテーブルに置いていた。
「する?折り紙。」
そういって、赤色の折り紙を渡された。
「ありがとう。何を折っているの?山本さん。」
「美穂。」
急に怒られて、「え。」と言ってしまった。
「美穂って呼んで。呼び捨てが嫌なら、美穂ちゃんでいいから。」
「ごめん。美穂ちゃん。」
なんだか仲良くなれそうだと、勝手に思った。瑛子さんは微笑んでいた。
「何を折っていたの?僕、鶴しか折り方知らないんだよね。」
「仕方ないな。教えてあげよう。」
美穂ちゃんは、偉そうに「ふん。」とした。瘦せこけた頬のえらが強調されていた。
白く、細すぎる手で、紙を折る。少年は、それを真似て折り紙をする。もともと細かい作業は得意で、器用な方であったから、きれいに折れた。
「すごいね。上手。」
褒められて、少年は少し嬉しかった。それから、三人で話をしながら、折り紙を折っていた。デイルームの窓の外は暗く、かなり強い雨が降っていた。
美穂ちゃんは、拒食症で入院しているようだった。体重が目標を超えないと退院できないと、主治医に言われているらしく、とても不満げだった。瑛子さんは、夫との関係が悪化し、自傷行為を繰り返したから入院したそうだ。「ほら。」と自傷痕を見せてきた。少年はどう反応すればいいのか分からなかった。そして、少年は自分のことを話した。先ほどの先生との会話よりは中身をだいぶ薄くした。いつもなら話すことに抵抗を感じるが、ここでは自然と話すことができた。
「大変だね。みんな。」
瑛子さんはそう言った。皆、頷いた。
夕食だからと、二人にバイバイし、部屋に戻った。夕食を食べ、下膳し、歯を磨いた。薬を飲んでから、デイルームに向かった。
デイルームには、二人を含め四人がテレビを見ていた。
「待ってたよ。おいで。」
美穂ちゃんに言われて、少年は横に座った。そして、皆でテレビを見た。その時間は、少年にとってかけがえのないものに感じた。家では感じられなくなったアットホームな空気感は、心地よくて非日常的なものであり、少年の求めていた場所であった。
「ようやく居場所を見つけたかも。」
少年は、ツイートをした。それは日記の代わりであった。この感情を忘れたくはなかった。
九時になり、眠前薬を飲んだ。口の中いっぱいに苦みが広がり、部屋に戻った。そして、ノートに「良い一日」と今日の日付を書き記して眠りについた。
朝が来る。朝食の三十分前に起きて、トイレに行く。朝食と薬の服用を済ませて、朝十時のラジオ体操に行くことにした。
デイルームには、老人が三人と美穂ちゃんがいた。少年と彼女は仲良く話しながらラジオ体操をした。何でもないような時間が、少年は楽しく感じた。
少年は家にいた時より笑うことが増えた。制限が多い閉鎖病棟での生活は、そこまでストレスではなかった。暇な時間がとても嬉しかった。相手の反応を気にすることなく話ができる。自分がおかしくなってもどうにかなるという安心感もある。好きな音楽もじっくりと聴くことができる。心に住む「化け物」のことなんか忘れるくらいであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます