第4話 stone

『俺はお前の家にずっといた

 あらゆる部屋で、辛抱強く

 俺はお前を待つ

 岩のように

 俺はここで待つ

 ひとりで

 ひとりで』


 トンビが鷹を生む。少年の両親がトンビだと仮定したら、少年は間違いなく鷹であった。

 両親はどちらも大学を卒業していない。どちらも勉強が得意ではなく、高校を卒業した後、すぐに市内の企業に就職した。そこで二人は出会い、結婚をした。しかし、どちらも勉学の重要さを理解しており、一人息子に対して熱心に教育を施した。少年は、真面目で努力家な人間に育った。両親の期待に応え、全国トップクラスの偏差値である私立の中高一貫校に合格した。少年の人生は、順調なように思えた。周囲の人々はこぞって少年を褒めたたえた。


 しかし、残念なことに、そこでの少年の成績は良いものではなかった。定期テストでの順位は平均より下であった。もちろん、少年はできるだけの努力をしたつもりだ。名門私立に通えている嬉しさがあっても、越えられない壁を感じたことは少年のプライドを大きく傷つけてしまった。「トンビが鷹を生む」より「蛙の子は蛙」だと思うようになった。大きな劣等感が少年の心に刻まれた。そして、以前よりも、勉強量はぐっと下がった。


 劣等を強く感じたことは、それが最初ではなかった。少年は、昔から運動が苦手であった。小学生の頃に勉強に勤しむことができたのもそれが理由の一つとしてあった。少年はどうしても身体を上手く操れない。距離感やタイミングをつかむことも、とても苦手であった。少年が中学一年生の時、体育の授業で50メートル走をした。 そこで、彼は転んでしまった。クラスの皆が見ている中で。その出来事は彼の脳裏に強く焼き付いている。それ以来、走っても転ぶ経験は無かったのだが、「走る」という動作に恐怖を覚えるようになった。例え、横断歩道を歩いている最中に青信号が点滅しても、少年は走ることは決してない。そのような体験は、「走る」以外の動作であっても、多かれ少なかれ存在する。少年は、運動が「苦手」というより「恐怖」なのである。彼は、根気のある努力家ではなく、諦めのいい努力家であった。


 中学校では少年は軽く馬鹿にされる対象であった。成績はいまいち良くなく、運動に関しては壊滅的であり、両親の経歴も収入も良くない。その学校は男子校だったから、特有の閉鎖的な雰囲気があり、より少年の劣等感を膨らめた。少年はその状況に耐えられず、別の高校に移ろうと思っていた。しかし、両親の反対が強く、そのことは実現しなかった。彼の劣等感はいつの間にか大きな苦しみになってしまった。また、少年は長距離通学であったため、部活もしていなかった。彼にとって学校に心地いい居場所なんてものはなかったと言い切れるだろう。


 気づいたら、自分が誇れるものなんて少年は持っていなかった。友人たちの持っている能力や特技や才能がとても羨ましかった。少年は、自分という人間がだんだんと嫌いになっていった。それでも、何とか頑張って学生生活を送っていた。


 少年の苦しさは、思春期特有のものだけではなかった。高校一年生に進級したばかりの頃、少年の家族内で大きな問題が発生した。


 ある晩、少年の家は父親の怒声で揺れた。それは、とてつもなく大きな揺れであった。原因は母親の借金であり、まだ働いたことのない少年でも驚くくらいの借金であった。その光景は、少年の頭を締め付けた。仲の良かった家庭が崩れ去る景色が、少年の柔らかい心を様々な方向から押し込むのだった。父の罵声、母の喚き、彼の苦しみ。その出来事以来、少年の居るべき所なんてこの広い地球上にあるわけないのだと思えた。


 それでも少年は耐え続けた。耐えることが当たり前だと言う人間がいるのだろうが、その人は少年の苦労を知らないだけである。少なくとも、少年は期待と苦しみの両方を心に飼いならそうと必死に生きていたのだ。彼は、その日々を辛抱した。



 それだけで済めばよかったのに、と少年は思っている。

 少年の本当の苦しみは高校一年生の夏休みに訪れた。忘れられない出来事であった。ある晩、少年は何度目かの眠れない夜を経験していた。暑さが不眠を助長していた。何度も寝返りをうち、落ち着きがなかった。それでも、翌朝には友達と遊ぶ予定を立てていたから、寝た方がいいに決まっていた。そんなときであった。突然、少年の中に「何か」が入ってきた。


―壊せ、全てを壊せ。殺してしまえ。すべてを駄目にしてしまえ。


 間違いなくその「意思」は少年の内側からのものであった。しかし、少年の考えではないと断言できた。その「意思」は、少年を突き動かそうとする。反理性的なほうへと身体が押しやられていく。少年は、自分自身に対して恐怖心を抱いた。そして、子供のように泣きながら、両親に助けを求めた。しかし、その状況を上手に言葉にできなかった。翌日に向かったのは、友人との待ち合わせ場所ではなく、心療内科であった。


 その体験は、少年にとってとてつもないショックを与えた。その出来事は忘れられず、反理性的な考えを抱いて流されそうになったことは、思い出すだけで少年を苦しめた。それから何度も、似たような体験をした。少年は、その「意思」を「化け物」と呼んだ。心の中に「化け物」が住んでいる。彼は、自分は普通の人ではない、と思うようになった。しかし、その体験も、彼の心中も、誰かに上手く伝えることはできなかった。どうせ誰も理解してはくれないし、分かりやすく表現することもできない。少年の内面世界は信じられないほど荒れていた。


 そして一年ほどして、少年は自殺を図った。これといった理由はなかった。苦しみが心いっぱいに満たされ、表面張力を少し超えてしまっただけであった。気づいたら散歩に出かけていた。公園から見える大きな海面の色が自分にお似合いだった。自殺に理由がないことは、特段不思議なことではない。強いて言うのならば、彼は象徴的な自殺をしたかっただけなのかもしれない。自分にこだわり過ぎただけなのかもしれない。


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