第3話 Martian
『ああ、いつか彼も気づくのだろうか
自分が最も売れているショーに出ていることに
火星人はいるのか?』
酷い空腹で目が覚めた。外はまだ暗さが残っている。ベッド横の椅子の上に、スマートフォンと無線式のイヤホンが置かれていた。少年はそれらを手に取り、時刻を確認した。時刻は七時になろうとしていた。朝食までまだ一時間ほどある。洗面台へ行って、コップに水を溜め、急いで飲み干す。空腹がある程度満たされて、落ち着く。ベッドに戻り、スマートフォンを開く。イヤホンを接続し、耳にはめる。Apple Musicを開いた。少年はApple Musicをサービス開始直後から利用している古参であった。まだサブスクリプションが日本国内に広まっておらず、海外のアーティストばかり配信されていた頃からヘビーユーザーであった少年は、いつしか洋楽ロックを好んで聞くようになった。周囲の友達と音楽の好みが斜め百度ほど違うことは分かっていたが、周りに流されることは嫌だった。画面に、おすすめのアルバムが表示されていた。
「Hunky Dory―デヴィッド・ボウイ」
あまりボウイの作品を聴かないが、このアルバムには少年のお気に入りの曲があった。
「Life On Mars?」
この曲を選択し、聴覚に集中を向けた。少女の孤独を切なく詩的に歌いあげるボウイの姿が容易に想像できる。少年の脳内では、化粧したボウイがスタンドマイクを右手で支えてライブをしている。ボウイの目線は間違いなく少年に向けられている。ボウイが声高らかに歌っている。
「Is there life on Mars?」
なんというか、変な歌詞である。少年はその歌が好きであったが、歌詞の内容よりも切ない歌の雰囲気が好みであった。しかし今となっては曲中の少女と少年の心模様が共鳴した。ボウイの歌声と共に少年の心は揺れる。少女のように、彼は今すぐにでも火星に行ってみたいと思った。しかし、現実はそうとはいかない。理想が遠すぎて余計に苦しく感じる。火星人はいないのだろうか?
それからアルバム一つ分くらいの数の曲を聴いていた。少年は様々な曲に思いをはせ、自分の思考を整理した。無論、それは容易なことではなかったが。
放送が流れ、朝食が運ばれてきた。昨日と同様、三品の簡素な食事である。少年はパンをひと口大にちぎり、牛乳で流し込んだ。四回ほどその動作を繰り返す。そして、気持ち悪さを感じて、手を止めた。無理をするつもりはなかったから、下膳することにした。朝早くだというのに廊下には多くの医療従事者が歩いていた。少年は多少の負い目を感じつつ、詰所までトレイを運んだ。部屋に戻り、ベッドに座って景色を眺めた。朝にしては暗い空色だった。十五分ほど経って雨が降り始めた。
看護師が来て、朝食後の薬を飲んだ。ついでに検温をした。おしゃべりな看護師だった。学校のことや友達のことなど色んなことを聞かれたが、少年はいかにも嫌そうな顔で対応した。
「もう少ししたら、お部屋を移動するからね。私物を全部ベッドの上に置いてくれると助かるな。」
そう言って、看護師は帰っていった。静寂が訪れる。そんな時間も束の間、さっきとは違う看護師が部屋に入ってきた。
「こんにちは。えっと、佐藤勉くんだよね。はじめまして、担当看護師の広崎です。よろしくね。」
笑顔が似合う女性の看護師だった。年は少年と十ほど離れているだろうか。左胸には顔写真付きのネームプレートがつけてあった。髪を後ろで結んでいるからだろうか、写真と印象が全然違う。そんなことを考えているせいで、挨拶を忘れていた。
「お部屋移動するよ。荷物を全部ベッドに載せてくれる?」
少年は言われた通り荷物をまとめた。
「まとめました。」
「よし、行こうか。」
広崎さんは、慣れた手つきでベッドの下のペダルを操作する。重そうなベッドはゆっくり動き出し、病室を出る。少年は、広崎さんの後ろをピタリとついていった。病院内は迷路のようだった。右に左にベッドが器用に曲がる。そして、エレベーターの乗場に着いた。広崎さんは、下階行きのボタンを押して、少年に話しかけてきた。
「勉くんは今高校二年生だっけ。」
「はい。」
「いいな。若いね。」
差しさわりのない会話をしていると、エレベーターの扉が開き、ベッドごと下の階まで降りる。
「いまから、B棟の二階に行くよ。」
「はい。」
扉が開いて、エレベーターの外に出る。右手に進むと大きな扉があった。扉の右には窓があり、左側には「ナースステーション」と書かれたガラス張りの詰所があった。
「ちょっと待っててね。」
広崎さんは小走りで扉の横まで行き、胸のネームプレートをかざした。鍵の開いた音がした。広崎さんは扉を開け、かなり急いでベッドを中に入れる。少年もつられて、急いで中に入った。
目の前には廊下と、その奥に広いスペースがあった。スペースの両側には向かい合うようにテレビが壁についていた。椅子とテーブルがいくつかあり、そこに座っている人たちが少年の方を見ていた。初老の男性が一人、他の四、五人は女性だ。
ベッドは廊下を左手に進む。少年はそれについていく。二人は「271」と書いてある病室の中へ入っていった。広崎さんは、入って右奥のスペースに慣れた手つきでベッドを固定した。部屋は少年のものも含めて二台しかベッドはなく、とても寂しい空気だった。
「今日からここが勉くんの部屋だよ。荷物、片付けておいてね。」
「はい。ありがとうございます。」
広崎さんは、詰所へと戻っていった。
少年は、てきぱきと荷物を棚に収納し、ベッド横の椅子に座った。四人部屋の中でも、窓側のスペースだった。見える景色は、さっきまでの部屋のものとずいぶん違う。見えるのは黒いアスファルトと白いガードレールがほとんどで、少しだけ緑が見える。そこでも少年は、窓の外をじっと見つめていた。自分は何をしているのか。なぜここにいるのか。自分のした行為はただの野生動物と同じである。
「勉くん、病棟の説明をしていい?」
気付いたら、横に広崎さんがいた。少年は固い表情で、「分かりました。」と答えた。そして、病棟の廊下を歩きながら、説明が始まった。だいたいは昨日の先生の説明の通りであった。テレビがあるのはデイルームといい、患者が自由に過ごすことができるということ。デイルームの横にはグラウンドがあり、地面が濡れていなければ解放されていること。洗濯にはお金がかかること。平日は移動販売が昼に来ること。他にも様々なことを聞いた。広崎さんの説明は丁寧で分かりやすかった。
説明が終わり、昼食の時間になった。放送が流れ、食事がベッドの横の書見台に配膳される。少年は、ゆっくりと食べられるだけ食べて、下膳した。
しばらくして、看護師にシャワーの順番が回ってきたことを伝えられた。少年は、用意をしてシャワールームへと向かっていった。シャワールームは広く、二人ずつ使用できるようになっている。久しぶりのシャワーであった。シャワーを終えると、部屋に戻り、好きな音楽を聴く。そして、外を眺めて思考を整理しようと試みる。思考は良く澄んでいるのに、モザイクがかけられている。繋がっている世界は多様なのに、彼の脳は数本の線だけで構成されている。
一時間後くらいに先生が来た。
「勉くん、今、時間大丈夫?」
爽やかに聞かれ、少年は「うん。」と答えた。
先生は少年を連れて、「面接室2」の部屋に入った。
「この病棟には慣れた?」
「はい。とても。」
「そうか、結構適応するのが早いね。普通、制限の多さに窮屈する人ばかりなんだけど、君は珍しいね。」
「僕も、びっくりしています。なぜか、心地いい感じがします。安心というか、リラックスできているというか。」
「そうか、居心地がいいのなら良かった。何か困ったことがあったら教えてね。じゃあ、さっそくなんだけど、君にききたいことがあるんだ。今回の出来事は自分の意思で起こしたことなのかな?」
「はい。」
少し間を置いてから返事をした。
「初めて?」
「いいえ。いままで何回か死んでしまおうと思ったことがありましたけど、実行に移したのは、今回が初めてです。」
「じゃあ、計画的ではなかったんだね。」
「いや、いつでもできる環境ではありました。今回は、できる勇気があったんです。」
少年は答えを用意していたかのように話す。
「きっかけみたいなのはある?」
「きっかけらしいものはないです。ただ漫然とやりました。もう人生で苦しみたくなかったというか、なんていうか、、、。」
先生の目が段々真剣になっていく。少年は、一問一答に集中する。
「絶望したの?」
「うん。絶望。」
「そうか、大変だったんだね。今までの人生を話してもらっていいかな。一度、歩んできた道をたどることは重要だからね。」
少年は一度、大きく呼吸をする。そして、ゆっくりと慎重に話しを始めた。
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