第2話 Karma
『これが君の代償だ
これがいらないことをした代償さ
僕は自我を失っていた』
目を覚ますと少年はベッドの上にいた。強い胃部の不快感と倦怠感が体に残っていた。左腕には細いチューブが繋がっており、心電図モニターの音が定期的に聞こえる。少年は数分ほどで状況を理解した。
「まじかよ。」
小さくつぶやいた。同時に、とてつもない罪悪感と不安感が襲ってきた。少年の脳内には様々なことが飛び交っていた。自然と涙がこぼれ落ちた。
しばらくして両親がやってきた。母親は泣いていた。父親は困惑の表情を浮かべていた。
「なんでこんなことをしたの?なんで。なんで。」
母親がここまで表情を崩しているのは、少年にとって初めて見ることであった。少年の心に浮かび上がった罪悪感は、母親への気持ちが混じり、大きく膨らみはじめた。身体が罪悪感に乗っ取られてしまうように感じ、それに対抗するために涙が止まらない。両親に何と言ったらいいのか分からず、言葉を発することができなかった。というよりもむしろ、少年の脳内には一時的に言葉が消え去ってしまったようだ。
深夜の病室に母親の泣く声が響いている。少年は、身体のあちこちに存在する不快感とすべてを包み込む倦怠感に負けてしまい、また深い眠りについた。
「おはようございます。朝食ですよ。」
優しい声で起こされた。美形な看護師が、僕のベッドの前に朝食の乗っているトレイを置いた。袋に入ったパンと牛乳、そして魚肉ソーセージが三角形をなしている。
「食べ終わったら、ナースコールを押してね。」
その優しい声に、少年は頷くことしかできなかった。
パンを食べようと袋から取り出した。手が異常なほど震えていた。何とかパンをちぎって口に入れる。咀嚼をするが、口に中に異物を入れたような不快感がする。咀嚼を繰り返すたびに全てを思い出す。母親の表情と声がフラッシュバックする。そういえば母親はどこに行ったのだろう。今は、何日の何時何分なのだろうか。口の中のパンは小さくなっているのに、喉を通っていかない。牛乳で流し込もうと試みる。震える手で、荒く牛乳パックを開ける。口に牛乳を流し込み、小さくなったパンを飲み込んだ。この簡単な作業に異常なほどのエネルギーを使った。久しぶりに食事を迎え入れた胃が驚き、パニックを起こしていることを少年は感じた。多分、彼の胃腸は血の通ったピンク色ではないだろう。
十秒ほどして体の底からこみ上げてくるものがあった。そして、そのまま吐いてしまった。
―失敗だ。間抜け者。
吐しゃ物がまき散らされたトレイを少年は眺めていた。数十秒してから、ベッド上に伸びているナースコールを押した。
「どうされました?」
「吐いてしまいました。」
小さな声で答えた。それが少年の精いっぱいの声量であった。
「分かりました。すぐに向かいますね。」
看護師が優しく答えた。
看護師の手際はとてもよかった。吐しゃ物はトレイだけにかかっていなかったこともあるだろうが、あっという間に目の前は綺麗になった。残した朝食も片付けてもらった。
「もうすぐしたら、先生が来ますからね。」
そう言い残し、足早に去っていった。
少年は、一人残された。ベッドの頭側には、少年の名が印刷された札がついていた。
「佐藤勉(サトウツトム)
入院日一月九日」
部屋は個室で、心電図の音を除くときわめて静かである。右手には大きな窓があり、朝日が差し込んでいる。とてもきれいな晴れ空が見える。窓の下半分は木々の緑色が占めている。木々の隙間からは群青色が垣間見える。破滅した思考を持った少年にとってその景色は綺麗なものとは認識できなかった。今の少年の頭には、感情などが入り込む余地はない。罪悪感が途切れのない波のように押し寄せてくる。時間の流れがとても遅く感じる。まるで、重い罰を受けているようであった。
おそらく少しの時間が経過したとき、母親が病室に入ってきた。起き上がった少年を見ると、途端に泣き始めた。
「勉。なんでこんなことをしたの。」
少年は何も答えられなかった。罪悪感にまみれているというのに、「ごめんなさい」の一言も発しなかった。母親は、続けざまに様々なことを聞いてきた。それでも、少年は何も言わずに、下を向いていた。しばらくの間、沈黙が訪れた。そして、誰かが病室の扉をノックした。
「失礼します。」
そう言って入ってきたのは、若い白衣をきた男性だった。年は少年より十歳ほど上だろうか。身長は百八十センチほどあるように見える。黒いプラスチック製の縁の眼鏡をしている。
「初めまして、精神科の水岡といいます。よろしくお願いします。」
非常に丁寧な話し方だ。水岡先生は少年の目を見て、そして母親の目もしっかりと見た。
「よろしくお願いいたします。」
母親は丁寧に返答した。少年は首を縦に軽く振っただけで何も言わなかった。
「調子はどうですか?落ち着いた?」
先生は少年の目をしっかり見ながら、質問をした。少年は、
「うん。」
とだけ答えた。小さな声で。
「単刀直入に聞くけど、君は望んで薬を無茶にたくさん飲んだんだね?」
「うん。」
「そうだったんだね。」
少年はバツの悪そうに下を向く。「望んで」「無茶に」薬を飲んだのは間違いない。しかし、あの時はそうするしかなかった。「うん。」と答えたのは何に対してか分からない罪悪感にまみれていただけで、本心で答えたのではない。そんなことを考えている間に、先生はこう言いだした。
「これはお母さんには話をしたことなんだけど、君が望んでいるなら、この病院の精神科病棟に入院して治療をしたいんだ。君は自殺未遂をした。今の気持ちがとても辛いものだということは良く分かる。もう二度と繰り返さないために、入院するのはどうだろうか。」
少年は考えるふりをした。正直、入院するかどうかはどうでもよかった。脳内を何かが占めていて、考える余裕などあるわけがなかった。そして、
「うん。」
と小さく頷いた。
「じゃあ、手続きを進めるよ。じゃあ、また来るね。今度、沢山話そう。」
そう言って、先生は病室を去っていった。
「早く良くなってね、勉。お母さんもサポートするから。」
泣きそうな目をした母親が、少年に言葉をかけた。少年は、あまり状況が呑み込めていなかった。この状況が訳の分からない展開だったというよりも、自分の起こした出来事に自分自身がついていけないといった感じだった。
「うん。」
とだけ頷いた。
「じゃあ、お母さんは入院に必要なもの買ってくるね。」
そう言うと共に、新品のような箸ケースをテーブルに置いて、母親は病室を出た。
少年はそれから外をずっと眺めていた。何も考えず、ただただ窓の外の青と緑を見ていた。自分がどういう状況に置かれているのか、今一度、頭の中で整理していた。その間に、かなりの時間が経過した。
時は正午だろうか。突然、放送が流れてきた。
「患者様へお知らせします。昼食の準備ができました。ただいまより配膳します。」
朝の看護師の声に似ていた。しばらくするとノックと共に昼食が配膳された。昼食は親子丼であった。
親子丼は少年の好物であった。家の近くのほっともっとでは、いつも決まって親子丼を注文していた。しかし、今日の親子丼は美味しそうには見えなかった。食事を前にしても食べようとは一切思えなかった。仕方なく、ケースから箸を取り出し、親子丼を口へ運ぶ。確かに親子丼の味である。しかし、なぜかもう一口食べようとは思わない。流動性の高い親子丼を見て、朝の嘔吐がフラッシュバックする。少年にはそれに立ち向かえるほどの気力はなかった。食事との戦いは、早々に白旗を上げることにした。ナースコールを使用するのは気が引ける。自分で下膳することにした。廊下はとても清潔でいかにも病院といった感じであった。様々な白衣やスクラブを着た人達が歩いていた。少年は、点滴装置を引きずりながら、詰所まで食事の乗ったトレイを運んだ。居合わせた看護師が、少年の残した食事の量に驚くかと思ったが、そんなことは無かった。部屋に帰り、用を足してベッドに横になった。
ひと眠りしたら、病室をノックする音が聞こえた。ドアが開くと、背の高い眼鏡の男性が入ってきた。
「調子はどうだい。ご飯はあまり食べられなかったみたいだね。」
先生はそう言って、少年のそばまで歩いてきた。片手には書類の入ったファイルを持っている。爽やかな表情をしている。対して少年は無表情のまま黙っていた。
「明日、精神科病棟に移動するよ。その説明をしに来たんだ。」
そして書類を取り出し、少年に見せた。そして、説明を始めた。精神科病棟は自由に出入りのできない閉鎖空間であること。晴れていればグラウンドが開くということ。持ち物に制限がかかること。他にもたくさんの説明を受けた。少年はそれらの説明に表情を変えることなく黙って頷いていた。
「説明はこんな感じかな。何か質問ある?」
少年は首を横に振った。
「うん。よし。じゃあ、明日の朝に移動するからね。問診とかは部屋移動の後にしようと思っているよ。」
少年は小さく頷く。
「あと、これ。」
先生は、白衣の右ポケットから何かを取り出した。
「君のスマートフォン。夜の九時まで使っていいよ。時間が来たら看護師さんが回収にくるからね。充電器はお母さんが持ってくると思うけど、詰所管理だからね。」
そう言って、少年にスマートフォンを渡した。そして、足早に病室を去っていった。
少年はスマートフォンの画面をタップする。充電が四十パーセントくらいしかなかった。そして少年は、Twitterを開きつぶやいた。
「自殺してみたが、失敗した。わけわからん。」
Twitterは少年の日ごろの鬱憤をはらす場所であった。繋がっている人たちも、日常的にひどく悲観的なことばかりつぶやいていたから、少年のツイートはおかしいものではなかった。そのツイートにはたちまち沢山の「いいね」がついた。
そして、少年は窓の外へ意識を向けた。深く考え事をしたわけではなかったが、時間は溶けていくようだった。しばらくすると、母親が入院道具を持ってきた。洗面道具や充電器、イヤホン、紐を抜いた安物のズボンやパーカー、下着類。
「書類にいっぱいサインしてきたよ。明日からは頻繁には来られないけど、できるだけ面会にくるからね。主治医の水岡先生はとってもいい先生だよ。」
少年は黙って頷いた。そして、母親は帰った。
夕食もあまり食べずに下膳した。窓の外を眺め、日没を感じて、看護師が持ってきた薬を飲み、眠りについた。
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