暗い森 

とうふとねぎの味噌汁

第1話

「ここは、どこだ」

 肌を刺すような寒さの森の中を、ふらふらと進む。まだ日が完全に昇る前の、朝のような暗さ。道が整備されているわけではない。木と落ち葉と濃い霧だけが存在している。歩いても落ち葉を踏み締める音しかしない。景色も変わらない。靄のせいで、前が見えない。 迷路みたいな薄暗い中を永遠に進むのは、気が滅入る。木を観察しても、模様が完全に顔にしか見えず、気味が悪くなって辞めた。幸いなことに、足は疲れない。精神的な疲労だけが溜まっていく。自分の場所もわからず、目的地さえ知らない。することがないので、ひとまず歩く。気が狂わないように、自分の好きなものでも思い浮かべようとしたが、何も出てこない。ぱり、ぱりと枯葉の崩れる音だけが耳に響く。葉っぱを拾って観察したが、なんの変哲もない普通の葉っぱだった。

 何日間足を動かし続けたのだろうか。時間もわからない。これがいつまで続くのか。あれだけ歩いても何も変化しない。同じところをぐるぐる回っているのかと思い、木に印を刻んだり足跡をつけたりしたが、同じものは目にしなかった。木が意志を持って、わざと自分を出さないようにしているのではないか、と馬鹿げた考えまで持ってしまう。蓄積されたストレスが限界に達していた。死んだ方がマシかもしれない。体のどこも疲れない、お腹も減らない、眠くもない。きっともう自分は人間じゃない。それについては、悲しくもない。自分が何者であるかも、思い出せないままだから。

 いま、挫けずにずっと歩いていられるのは、今止まったら二度と歩けなくなってしまうという強迫観念みたいなものが、頭の底にこびりついているからだ。生きたいわけではない。ずっと歩いていたらいつかはこの森を抜けられるなんて、甘い妄想も疾うに消えた。自分が何かも、どうでもいい。別に知らなくたって、こうしてちゃんと体は動いているし、息もしている。それで十分だ。ここから意識がなくなるまでに、抜け出すこと。これが最優先だ。この森の中で一生を終えたくはない。こんなボロボロになった自分の努力が、無駄になるのは避けたい。最近は、この気味悪さもなんだか心地良くなってきた。頭が麻痺しているのだろう。いや、もうとっくに頭は壊れているが。自分の名前さえわからない脳みそなど要らない。

 まあ、でも。きっとギリギリ正気を保てているのは、心が空っぽだからだ。自分のことが一切わからないからだ。きっとまともだったら壊れている。おかしいから、生きていられている。悪いことばかりではない。

 足を動かしながら考える。ここは、やはりやったことがないことをするのが良いだろう。今までやっても変わらなかったことは、ダメだ。もっと変なことをしよう。

 手を伸ばす。木に生えている、綺麗そうな葉っぱをちぎった。虫がいないかもちゃんと確認した。口に入れてみる。まずい。植物を食べているという、青臭い味がする。硬くて噛みきれない。後を引く苦味が最悪だ。吐き出したくなるが、我慢して飲み込んだ。排泄も必要ないから、お腹を下す心配もない。また歩く。何も変わらない。

 考えながら、進み続ける。周りは何をしても変わらない。後味を流すように唾を飲み込む。とっくのとうに味はしなくなったというのに、変な癖がついていた。つばが変なところに入って、むせてしまう。咳き込む中で、はっとする。この森に存在する中で、一番おかしいところはなんだ。この森自体、物理法則を無視したところだらけで、気がつかなかった。変なのは、自分もではないか。見た目は多分、人間だろう。手でペタペタ体を触る。しわしわの、肌。自分の手も細く、弱くなっていた。自分も完全に生物の理から外れている。おかしい自分を変えれば何か起きるかもしれない。

 木の枝を折って、腕に傷をつけた。痛みはあまりなかった。痛みというよりは、違和感といった方が正しい。肌に白い痕がつく。もっとわかりやすい方が良いだろう。枝の先で、強めに引っ掻く。腕から数滴の血が垂れた。血は、赤いままだった。傷がついたという感覚はあったが、怪我をしたことによる怖さや、痛みは感じなかった。血が垂れているまま、歩き続ける。寒さに耐えるためか、分厚めのコートを羽織っていたので、腕のところだけ捲っておいた。

 しばらく動き続ける。血は止まっていたが、傷は消えていなかった。心から歓喜した。感情が薄れていたが、それでも自覚するくらい、この気づきに対する喜びは強いものだった。

 次はもう少し大きめの怪我をしてみようと思うことは、喜びに溢れている自分にとって簡単なことだった。足は動かなくなったら困る。やはり手だ。あまり使わない方の手を切り落としてみよう。木の枝で切り落とすことは無理だ。刃物が欲しい。だが、そんなものはない。仕方がないので、手の真ん中を鋭利な枝で突き刺してみることにした。前より遠慮もなくなった。思い切りよく手の甲目掛けて枝を振り下ろす。綺麗に真ん中を通過した。血は前よりも出た。痛みもない。手がなんかおかしいという感覚だけがある。きっと、ここで死ぬことはないだろうという、確信とも言える予感がした。血はたくさん垂れているが、死に対する恐怖が薄れていた。ここから抜け出す唯一の方法、それは、死なのではないかと思い始めていた。自分は冷静さを欠いていた。ここから解放されたい。そのためには、死んでもいい。

「簡単な、ことだったんだ……」

 自分の天才さに、思わず声が出た。何十年も出していなかった自分の声は、ずいぶんしわがれていた。

 木の皮を剥がす。木の強さに爪が負けて、血が出ても気にしなかった。時間は沢山ある。剥がした木を自分の歯で削って尖らせた。自分の歯が欠けても、気にしなかった。ようやく平べったい木の刃物が出来上がった。当然、刃物と呼んでいいのかわからないくらいガタガタな刃だったが、何もない状態で作ったにしては上出来だ。

 笑顔でなんの躊躇もなく、首に刃を当てた。穴が空いても手は動く。両手で簡素な木の先っちょを首に押し込んだ。肉の裂ける音を聞いても、新鮮な楽器のようにしか聞こえなかった。視界が動く。地面に着く前に、目を閉じる。

 枯葉の破れる、ぱりっという音がした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

暗い森  とうふとねぎの味噌汁 @inutopennginn

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る