第4話 「憧れのひとがただの人になること」 《主》

これは遙か昔、《主》がまだ二十歳の頃、憧れのひとがいた。その人は《主》よりも10歳ほど年上であったので、当時30歳くらいだったと思う。

同性だったが、身のこなし、話し方、真っ直ぐに人を見る眼差しも「こんな人になりたい」と思えるような人だった。

話上手、聞き上手で自分の意志をしっかり持っていて…当時の《主》に足りないもの全てを持っているところに激しく憧れた。

これは(恋心)というものではなかった。目標というか、勝手に(道標)にしていたのだ。

その人の所作や話すスピードや、とりあえず真似できそうなところを片っ端から真似ていた。当然、そんな(真似事)では到底人間として成長できるはずもなく、それがますます憧れを募らせる種となっていた。

そんな不毛な涙ぐましい努力をしていた頃、ちょっとした事件があった。

その頃、《主》はアマチュアバンドを組んでいて、何かのイベントで野外ライブに出させてもらった時のことだった。

自分たちの出番も終わり、他のバンドのライブを見て「まあまあだね」とか言って虚勢を張ってみたり、イベント会場をバンドのメンバー達とフラフラ徘徊していると、イベントを主催していたグループの中に(憧れのひと)を見つけた。挨拶に行こうとすると同時にその傍らに明らかに恋人のような雰囲気で寄り添う人が目に入った。

(寄り添う人)を《主》は知っていた。その人には配偶者も子供もあることも。

二人が所謂不倫関係にあったということを、《主》はその時初めて知った。

主催者グループの皆も二人が恋人同士であることを認識し、公認しているような雰囲気でもあった。

人それぞれの人生があり、その是非については各々当事者や(一般的には)という第三者であれ、色々な見方、考え方がある。

しかし、勝手に(道標)としての憧れを抱いていた人のその姿はあまりにも(人間)だった。

まだ若かった《主》は失望し、狼狽えた。

しかし結局は(勝手に)道標にして(勝手に)失望したのだ。全ては自分の中の問題だった訳で、急速に何かが(醒めて)いくのがわかった。

覚えたての煙草に火をつけ、ステージを見やると、ヘヴィメタルの風貌のバンドがバラードを演っていた。やけに薄っぺらい歌詞に聴こえた。

「やめてしまえ」と普通の声で言った。その声をヘヴィメタルバンドへの批判と受け取ったバンドのメンバーが「うん、歌詞がさ、つまんない」と応えた。

その日以来、小首をやや傾げて人の目をじっと見つめる仕草も、妙にゆったりとした動きも、少し伏し目がちで「ふふっ」と笑う仕草も全部やめてしまった。

こうして、二十歳の頃の《主》に足りなかったものは、未だに足りないままなのである。

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