第3話 マラカイトの祈り

 古来より人の理解の及ばぬ事象は〝神秘〟と呼ばれてきた。

 その始まりは諸説あるが、少なくとも紀元前の古代文明にまで遡ることができる。

 世界各地で発生した神秘は、人々の手によって神話や伝承に姿を変え根付いた。

 やがて神秘を術として扱う人々が現れ初めた。

 彼らは自らを神に仕える者、あるいは神の系譜に連なる者と定め、周囲から畏敬の念を集めていた。

 政に参加し、祭事を仕切り、人々の生活に溶け込んでいった。

 だが、時代を下るにつれ彼らは迫害の対象とされていく。

 特に大陸の西の国々でそれが顕著だった。

 迫害された要因は多岐にわたる。その当時、気候が寒冷化し不作だったこと、新たな『科学』が研究され、魔術や魔法といった神秘が分離されつつあったこと、ある一神教が魔術や魔法を悪であるとし、厳しく取り締まり始めたことなど、あらゆる要因が重なった。

 迫害は次第に苛烈さを増し、大迫害時代が訪れた。歴史に悪名高い魔女狩りである。

 魔女狩りの犠牲者の中には僅かに『本物』もいたが、九割以上がただの人間だった。

 村を追われ、街を追われ、国を追われた『本物の』魔女や魔術師たちはこれ以上、神秘に連なる者たちを絶やさぬようお互いに守り合う組織を創り上げた。

 そして数百年経った今でもその組織は連綿と続いている。

〝花園〟——神秘と関わりある者を保護し、神秘を秘匿するための組織。

 神秘に関する事案を監視、調査し、人々の目から隠蔽するのが主な活動だ。

 公には存在しない組織としているため、神秘と関わりある者しか知らない。

 そんな組織にある男が所属していた。

 名をエドワード・ローゼンタールという。

 一代でその名を神秘の世界に知らしめた天才錬金術師。

 彼はその天才的な頭脳で一体のあるモノを創り上げた。

 神秘の技術を以てして卵細胞そのものから人の手で産み出され、フラスコの中で育てられた命——人造人間ホムンクルスだ。

 エドワードが人造人間を創った理由はただ一つ。

 錬金術が現人類を凌駕する新人類の創造を可能とするか否か、その実験だった。

 結果は成功と言えるだろう。

 エドワードが創った人造人間は生まれながらにしてあらゆる知識を持ち、常人ではあり得ない程の感覚を有していた。本来なら聞こえるはずのない距離の音を聞き分ける聴覚、一度食べたものの味を調味料まで分析して記憶する味覚、一目見ただけで全てを見通す視覚、紙に印刷されたインクの感触でさえ感じ取る触覚、数キロ先の僅かな匂いを嗅ぎ分けるほどの嗅覚。

 ヒトがどれほどの時間をかけても到底辿り着けぬであろう進化の果てをエドワードはヒトの身でありながら生み出してしまった。

 神秘の保護を目的としている〝花園〟は当然黙ってはいなかった。

 エドワードに対してある命令を下した。

『人造人間本体、並びに製造方法を速やかに組織へ引き渡せ』

 明文化はされていないが、逆らえば抹消される。

〝花園〟に所属する者にとって組織からの命令は絶対であり、それに逆らう者は裏切り者だ。

 裏切り者は消す——それが互いを守るために創られた組織の第一の掟。不穏の芽は早く摘まねば自分たちが危ないからだ。その為の手段を問わない。

 当然だが、組織に従順な人間は優遇される。この場合、本体と製造方法さえ渡してしまえばエドワードは命を狙われることはないし、それどころか研究に協力さえしてもらえるだろう。

 そもそも命令などなくとも、エドワードは組織に自身の研究を提供する予定だった。

 人造人間を製造していると報告はしなかったが、隠してもいなかった。

 だから、素直に差し出せばよかった。

 ただそれだけで済んだのに。

 エドワードは〝花園〟を裏切って逃げた。

 一夜限りの逃避行だった。

 まだフラスコから出たばかりの人造人間を研究室に残し、自分は僅かな研究資料だけを持ち出して暗い夜の森を走った。

 だが、個人と組織ではどちらが有利か。

 日も明けきらぬうちに、エドワードは待ち伏せしていた〝花園〟の抹消部隊に殺された。

 持ち出された研究資料とエドワードの死体、そして研究室に残された人造人間は〝花園〟に回収された。

 研究資料と死体は〝花園〟本部の地下保管庫に収容された。

 人造人間本体は貴重なサンプルとして錬金術をはじめとするあらゆる神秘の実験に使われる予定だった。

 ところが、ある一族が人造人間を引き取りたいと名乗り出たのだ。

 当初は錬金術の粋を極めた存在である人造人間を一つの家で占有することは神秘の発展を妨げる行為ではないかとして反対された。

 しかし、生前のエドワードから依頼され直筆の委任状があること、占有ではなくあくまで保護するだけで必要であれば研究に協力する意思があること、名乗り出た家が旧い一族であったことなどから人造人間の処遇はその家に一任されることとなった。

 名乗り出た家——エーデルシュタイン家は後見人と教育係を兼ねてとある人物を人造人間の元へ派遣した。

 そして今、赤い髪の麗人が〝花園〟本部へ足を踏み入れた。

 

 


〝花園〟本部にある来客用の部屋のベッドの上で膝を抱える人影があった。

 背中から腰にかけて伸びた黒髪。理知的な双眸は柘榴の実のように深い赤。陽光に照らされて眩いばかりの白い肌。艶やかな珊瑚色の小さな唇は固く閉ざされている。

〝花園〟が用意したオフホワイトのシュミーズ・ドレスに華奢な身を包む姿は可憐と形容するのが相応しいだろう。

 外見だけで言うなら何処かの貴族の娘と名乗ってもおかしくはない。

 どこからどう見ても、美しいだけのただの少女。

 まさかこれが、天才錬金術師がその知識と技術の粋を極めて創り上げた人造人間だとは誰も思わないだろう。

 伝説上の人造人間は別名『フラスコの中の小人』と呼ばれるほど小さいことで有名であるため、完全な人の姿をし、自立した行動を可能とする個体は錬金術の歴史上初めてと言っても過言ではない。

 それもまた少女が〝花園〟に狙われた一因でもある。

 少女には名前がまだない。名付けてもらう前に生みの親であるエドワードは殺されてしまった。

 それを悲しいとは思わない。

 ただ、どうして、と思う。

 どうして、自分を創ったのか。

 どうして、自分を生み出したのか。

 どうして、自分を殺さなかったのか。

 エドワードが殺されてから何度も、何度も、反芻した。

 殺されると分かっていながら、なぜ自分を創り、生み出したのか。

 あらゆる叡智を修めた頭脳を以てしてもその答えは導き出せなかった。

 少女は答えの出ない問答を一人で繰り返しながら、膝を抱えて蹲っている。

 この部屋に連れてこられてからずっとそうしていた。

 机とベッドと花が活けられた花瓶。それだけしかない殺風景な部屋の中で少女は何もせず、ただじっとしている。

 食事もせず、眠りもしないで。

 まるで永遠にこのままなのではないかと思うほど何一つ変わらない部屋に小さな波紋が生まれた。

 扉が三回ノックされ、少女の返事を待つことなく開かれる。

 少女は視線すら動かさない。

 部屋に入ってきた人物はそれを気にも留めずに少女の傍まで近付くと優雅にお辞儀をした。

「お初にお目にかかります。宝石商リコリス・エーデルシュタインと申します」

 目の覚めるような美声だが、少女は興味なさげに返した。

「……宝石商の方が何の御用ですか」

「本日よりお嬢様の教育係と後見人を仰せつかることになりましたので、そのご挨拶に参りました」

 ふと、どんな人間が来たのか気になった少女はこの部屋に来てから初めて首を動かした。

 そこに立っていたのは絵画から抜け出してきたかのような憂いの麗人だった。

 一本一本丁寧に染め上げられたかのように鮮やかな赤い髪を後ろで丁寧に纏め、白いレースリボンで飾っている。窓から差し込む陽光を吸い込んで煌めく瞳は春の野を思わせる若草色。傷一つない滑らかそうなミルク色の肌に薔薇色の唇が映える。

 白のフリルスタンドカラーのブラウスにボルドーのスリーピースと、深いココア色のパンプスを合わせた姿は宝石商と名乗るのに相応しい上品さを醸し出している。

 無表情だが冷たい印象はなく、むしろ女の儚げな美しさを引き立たせていた。

 少女は冷たい声音で話す。

「貴女が?」

「はい」

「……エーデルシュタインって、宝石魔術の名家じゃないですか。そんなご令嬢がホムンクルスの教育係と後見人なんて、どういうつもりなんでしょうね、組織は」

 嘲笑うような口調だがリコリスは気にせず平然と話を続けた。

「お嬢様に組織の一員として相応しい教育を、と命じられております」

「道具として立派に育てろってことですか。貴女も大変ですね」

「道具として育てろとは命じられておりません」

「そう言っているのと同じことですよ。どのみち私に拒否権なんてないんでしょ、好きにしてください」

 少女は興味を失ったようにリコリスから視線を外し、蹲ってしまった。

 投げやりなその姿をリコリスは憂いを帯びた眼差しで見つめる。

「……本日はご挨拶に参っただけです。明日また伺います」

 そう言って、リコリスはトランクを持って部屋を出た。

 ドアが閉まると同時に少女は膝を深く抱えて瞳を閉じた。

 明日なんて来なければいいと、呪いながら。

 呪いは虚しく、次の日の朝、リコリスは再びやってきた。

 少女も組織が動いたとあっては無視できなくなったため、大人しくリコリスに従うことにした。

 ベッドの上に座りながらリコリスを見上げる。

「こんにちは。それで、今日は何をするんですか?」

「本日は何もしません。それよりも、お嬢様にお渡ししたいものがございます」

「渡したいもの?」

 少女はじっと、目の前のリコリスを観察した。

 紅い瞳は一目見れば大抵のことを見通せる。だが、どれだけ集中しても何の『結果』も得られなかった。

 ——防視魔術を使ってる。

 神秘を用いた透視から自身を守るための魔術だ。初歩的な魔術でそこまで難しくはないが、常に使い続けていると脳に過大な負荷が掛かるので使う時は数秒から数分、長くても二十分が限界だ。

 昨日もそうだったが、リコリスはこの部屋に来る前から防視魔術を使用している。

 ——流石、名家のお嬢様ってとこか。

 これ以上見ても意味がないと判断し、視線を外した。

「で、何ですか。渡したいものって」

「こちらです」

 リコリスがトランクから取り出したのは小さな黒い箱だった。

 宝石商と名乗っていたから、宝石か何かだろうか。

 怪訝な表情を浮かべる少女の前で箱の蓋が開いた。

 中には夏の森を思わせる緑の石が入っていた。

 想像していた宝石とは違い、眩い輝きはないものの同心円状の独特な模様と常盤木のような鮮緑が目を引く。綺麗に磨かれた表面が外界の光を反射して煌めき、どこか神秘的な雰囲気を醸し出している。

「これは……マラカイトですか?」

 全知の脳を持つ少女は一目で石の正体を見抜いた。

 リコリスは一つ頷く。

「こちらはお嬢様の生みの親、エドワード様の魂でお作りした宝石です」

 紅い瞳が大きく見開かれた。

 予想していなかった言葉に頭が追いつかないのか、口を開いては閉じてを繰り返す。

 自分の心臓が耳元で脈を打っているのではないかと思うほど煩い。思わず胸の前で両手を握り締める。

 漸く出てきた声は酷く掠れていた。

「……はかせ、の?」

「はい。エドワード様からのご依頼で、お嬢様のために」

「わたしのため……?」

「これから困難な道を歩かれるお嬢様の僅かでも支えになれたら、と」

「支え……」

 少女は静かに宝石を見つめ、やがてぽつりと呟いた。

「だったら、どうして私を捨てたんですか?」

「捨てた?」

 どういうことか分からず疑問の声を上げるリコリス。そんな彼女を嘲笑うように少女が言葉を続ける。

「そうですよ。博士は私だけを研究室に残して逃げたんです。私のことが疎ましくなったから……」

「いいえ、それは違います。エドワード様は……」

「貴女に何が分かるって言うんですか!」

 パシンッ——。

 差し出されていた手を少女が感情に任せて払い除けた。

 宝石は一瞬だけ宙を舞い、冷たい床にぶつかって転がる。

 今まで抑えて見ないようにしていた感情が堰を切って溢れ出す。

「私は捨てられたんですよ! あの人は私を創ったくせに自分の命が惜しいから置いて逃げたんだ! 私のことがいらなくなったから! 私を創ったのはあの人なのに!」

 少女の声とは思えないほど悲痛な叫びが部屋に響く。まるで血を吐き出しているかのような声音に聞いていたリコリスが表情を歪めた。

 怒りという感情を少女は知識としてしか知らなかった。だから制御する術を知らない。

 生まれて初めて抱える大きな感情は少女の身体も心も支配していく。

 手が自分の意思に反して動き、枕を掴み上げ目の前の人間に投げ付けるのをどこか他人事のように眺めている自分がいるのに止められない。

 リコリスが自分の怒りとは無関係だと理性が訴えるのに理解できない。

 ——苦しい、苦しい、苦しい!

 何かが胸を締め付けていて上手く息ができない。頭が燃えるように熱い。腹の底から黒い泥が這い出てきそうだった。

 苦しさから逃れようと少女は手当たり次第に暴れる。

 用意された食事を床に叩きつけ、椅子を転がし、備え付けの調度品をも破壊していく。

「なんでっ! なんでっ! なんでっ! いらなくなるって……こうなるって分かってたのに! どうして創ったの? なんで私を生んだの! あの人が悪いのに……あの人のせいなのに!」

 何が言いたいのか自分でも分からなくて混乱する。

 ただ胸に溢れてくる言葉を吐き出し続けなければ死んでしまうような気がした。

「いらなくなったら捨てるの? 自分で創ったくせに! 私だって、好きで生まれてきたわけじゃない! 必要とされなくなるぐらいなら、殺されてた方がマシだった! そうよ……私を殺せばよかったのに! そしたら博士は死なずに済んだのに……なんで……!」

 怒りは、長くは続けられない。

 突然消えたりもしないが、ゆっくりと小さくはなっていく。炎がいつまでも燃え続けることができないように。

 気力が底をつきたのか、少女は暴れるのをやめた。

 部屋は見るも無惨な状態だった。まるで少女の心の中を表しているかのようだ。

「なんで……なんで……私なんか」

 自身の許容量を超えた怒りは次第に別の感情へ生まれ変わっていく。

 怒りの理由によって変化する感情は様々だ。

「私、なんか……」

 少女の場合は。

「私なんか、生まなければよかったのに」

 自責による後悔が怒りを生んだ。

「私が……私のせいで、殺されたのに」

 無責任に創られたことよりも。

 見捨てられたことよりも。

「私なんか生まれてこなければよかったのに!」

 自分が大切な人を傷付けてしまったという悲しみが少女を苦しめている。

 だから傷付けてしまった分だけ、自傷して上書きしようとした。

 ただ傷を増やすだけの行為と分かっていても止められない。

 心の痛みを忘れるためにはそれ以上の痛みを得るしかないから。

「なんで……なんで……はかせぇ……」

 少女は力尽きたように床に座り込んだ。

 目の奥が焼けるように痛い。さっきから何かが目から溢れてくる。

 ——私、泣いてる……?

 涙も知識としては知っていたが、自分が泣くとは思ってもいなかった。

 驚く暇もなく涙は生産され続ける。胸の中の悲しみを全て流そうとするように。

 ふと、少女の目の前にマラカイトが転がっているのが見えた。

 鎮まりかけていた怒りがちりっと心の片隅に火を付けた。

 ——こんなもの!

 少女はマラカイトを拾うとそのまま窓の外へ放り投げようとした。

「お嬢様」

 だが、捨てようとする手を優しく包む手があった。

 振り返ると、若葉色の瞳を悲しげに揺らして自分を見つめるリコリスの姿があった。

 それが何故か、少女の怒りの火を静かに吹き消した。

 玲瓏な声が少女を落ち着かせるように語りかける。

「お嬢様の気持ちを全て理解できるとは言いません。ですが、似たような気持ちを昔、私も感じたことがあります。自分のせいで大切な方を亡くすということは……とても……」

 古い傷口を自分で開くような表情でリコリスは言葉を溢した。

「とても、『痛い』です」

「痛い?」

「自分で自分を傷付けているかのような……いいえ、それ以上に『痛いこと』です。お嬢様は今、痛いのだと思います。ならば、この石はお嬢様の痛みを少しでも和らげるために必要です」

「嘘です、私はどこも痛くありません。痛みは身体が打撲などの刺激を受けた際に神経が……」

「いいえ。たとえ身体に傷がなくとも、人は心が痛みを感じます。目には見えなくても確かに傷ついているのです」

 まだ生まれたての少女には心が感じる痛みというものを自覚できなかった。

 リコリスの言っていることが非現実的に聞こえて思わず若葉色の瞳を睨みつけてしまう。

「……わかりません、私には」

「いつか、わかる時がきます。その時、このマラカイトがお嬢様を救ってくださいます」

 そう言って、リコリスは握り締めていた少女の手を優しく開いた。

「マラカイトは古来より幼子の護符として重宝されてきました。宝石言葉は『我が子の保護』……エドワード様はお嬢様の身を案じていらっしゃいました」

 思いもよらない言葉に少女が顔を上げる。

「博士に、会ったことがあるんですか?」

「今回のご依頼を受ける際にお会いしました。まだお嬢様が生まれる前のお話です。フラスコの中にいらっしゃったお嬢様を見せていただきました。とても、とても愛しそうに育てていらっしゃいましたよ」

 不意に、リコリスが唇の端に微かな笑みを浮かべた。

 無表情しか見てこなかった少女は微かに驚きながらも、今まで笑わなかった人間が笑うほど愛されていたのだと理解した。

 だからこそ苦しかった。

「……でも、博士は私を捨てました」

 掌の宝石を握り締め、少女は薄暗い研究室に一人取り残された時のことを思い出す。

 博士はただ一言「行ってくるよ」とだけ言い残して少女を置き去りにした。

 賢い少女は分かっていた。それが別れの言葉であること、エドワードが二度と戻ってこないことを。

 自分は捨てられたのだと理解するのに時間は必要なかった。

「当然ですよね。私のせいで命を狙われたんだから。私が……博士を殺したんだ」

 少女の声は震えていた。泣くのを我慢しているのだろう。

 リコリスは小さな肩を抱き寄せ、優しく背中を撫でながら語りかける。

「お嬢様、どうしてエドワード様がお嬢様を組織へ引き渡さなかったのか、不思議には思われませんでしたか?」

「それは……研究を独占するためじゃないですか? 組織に渡せば研究が広く知れ渡って神秘としての価値が下がるから……」

 リコリスは首を横に振る。

「いいえ、エドワード様はむしろ組織に研究を明け渡すおつもりでした。拒否すれば殺されると分かっていましたから」

「だったらどうして……」

「組織からお嬢様を守るためです。お嬢様は貴重な人造人間の成功例。組織に引き渡せば実験動物として扱われることは明らかでした。エドワード様はお嬢様をそんな目に遭わせたくない一心で貴女を手放したのです」

 予想していなかった真実に少女は言葉を失う。

 戸惑う少女の前にリコリスは一通の白い封筒を差し出した。

「お嬢様、これを」

「これは?」

「エドワード様からです。生前にお預かりしておりました。もし自分が死んだらお嬢様に渡してほしいと」

「博士から……」

 赤い瞳が揺らめく。やがて決意したように手紙を受け取ると、ゆっくりと中を開いた。


 手紙にはこう書かれてあった。

 


 

『親愛なる僕のお嬢さん

 この手紙を読んでいるってことは僕は死んだんだね。まあ、そうなることは予想していたからこうしてリコリス嬢に手紙と君のことを託したのだけど。

 これは僕の懺悔だ。本当はきちんと君に伝えないといけないことなんだけど、僕は不器用で、上手く言える自信がないから、こうして手紙に残すことにしたんだ。

 君を創ったのは錬金術師としての知的好奇心からだった。

 自分の知識を試したかった。最初は本当にそれだけだった。

 だけど、君に至るまでに多くの失敗を繰り返してきた。命を生み出す難しさを思い知ったんだ。

 もう何十、何百になるか分からない失敗の果てにようやく君が生まれてくれた。

 嬉しかった。本当に嬉しかった。

 フラスコの中で成長する君を見守りながら、この子だけは絶対に成功させようと思ったんだ。

 君だけは絶対にこの世界に生んであげようって。

 君が成長するにつれ、〝花園〟から圧力が掛かるようになった。

 僕は君の未来が不安になった。

 生まれれば君は間違いなく神秘の歴史に名を残す存在になる。組織はこぞって君を手に入れようとするだろう。

 組織に捕まれば君に自由な未来はない。永遠に道具として扱われてしまう。

 最初はそれでもいいと思っていた。自分の研究が認められることは名誉なことだし、君は人間じゃないから許されるって。今思えば最低な奴だ。だけどあの頃の僕は命を軽んじていた。

 君が生まれてから、僕の考えは変わった。君に変えられてしまった。

 大きくなる君を見守っているうちに、君という存在が愛おしくなってしまった。

 親が子を愛するように、僕も君を愛した。

 そこに論理的な思考は存在しなかった。ただただ、親として君を守りたいと思った。

 だから僕はリコリス・エーデルシュタインを頼った。

 エーデルシュタイン家の保護があれば組織も手出しができない。君を育ててくれる環境としても申し分ない。

 君を逃したとあれば、僕は組織に殺されるだろう。

 僕が君を守ってあげられる唯一の方法はこれしかなかった。

 君を傷付けてしまうことは分かっていた。だけど、それでも僕は君を守りたかったんだ。

 ごめんね。どうか身勝手な僕を許さないで。

 君は僕のことが憎いかもしれないけど、これだけは忘れないでほしい。

 僕は君のことが大好きだよ。君が生まれたとき、柄にもなく泣いてしまうほど嬉しかったんだ。

 本当は傍にいて成長を見守りたかった。

 君は素敵な女性になるだろうな。見てみたかった。心残りがたくさんあるんだ。君と一緒に錬金術の研究がしたかった。色んな国を旅したかった。君のために服を買ってあげたかった。一緒に買い物に行って、毎日同じご飯を食べて、おはようとおやすみを言い合って……そうやって君が大人になっていくのを見守りたかった。

 でも、どうやらそれは叶いそうにないから、僕は君を生かすために死ぬよ。

 だからどうか、生きて、僕の可愛いお嬢さん。そして幸せになって。僕はそれだけで十分だ。それ以上は望まない。

 君を愛している。君の未来を愛している。願わくは、宝石となった僕を君の傍に置いてくれると嬉しい。

 さようなら、愛しい僕のお嬢さん。

 最後に、君の名をここに記すよ。気に入ってくれたら嬉しいな。

 

 僕の最愛の娘アウローラ・ローゼンタールへ捧ぐ』

 

 


 読み終えてから、少女は笑った。

 泣きながら、笑った。

 ——なんで。

 少女の目から涙が溢れる。

 ——なんで、愛してるなんて言えるの。

 どうして泣いているのか、自分でも分からない。

 ——私のせいなのに。私のせいで、死んだのに。

 自分ではどうしようもない感情が涙を生んでいるとしか思えなかった。

 ——私のために、死ぬ、なんて。

「馬鹿な人……」

 後悔と悲しみと怒り。そして微かな喜び。

 それらが少女の胸の中でゆっくりと溶け合っていく。

「本当に、馬鹿ですよ……」

 死者に鞭を打つようなことをしてはいけないが、恨み言の一つでも言わなければ気が済まなかった。

「博士の、ばかぁ……!」

 少女は堪え切れず泣き出した。

 

 愛しているのなら、どうして私を一人にしたの。

 

 愛しているなら傍にいてほしかった。

 最期までずっと一緒にいて、一緒に死なせてほしかった。

 あなたのためなら私、喜んで死ねた。

 あなたに殺されたって構わなかった。

 あなたと一緒なら、なんだってできたのに。

 ねえ、あなたは知らないでしょう。

 私がどれほどあなたを愛しているか。

 生まれたての雛の刷り込みみたいなものかもしれない。

 それでも私、あなたのこと愛している。

 生まれた時にあなたが見せてくれた笑顔が嬉しかった。

 生まれてきてよかったと思えた。

 あなたの笑顔に会うために生まれてきたんだとさえ思った。

 私はあなたに望まれて生まれてきたんだって。

 あなたのためにこれから生きるんだって。

 そう、思っていたのに。

 どうして、どうして、どうして。

 どうして私を置いて行ったの?

 どうして私を一人にするの?

 どうして一緒に連れて行ってくれなかったの。

 生きて、なんて酷いこと言わないで。

 私一人でなんて生きていけない。

 一人で生きながらえていたって。

 あなたがいなければ、何の意味もないのに。

 あなたがその手で創って、その手で生んだのよ。

 もう私はあなたの一部で、あなたは私の全てなのに。

 どうしてそんな簡単に捨ててしまえるの?

 私にはできない。

 今更一人で生きていけない。

 あなたがいないなら息もしていたくない。

 こんなことなら生まれてこなければよかった。

 あなたが死ぬぐらいなら、私、生まれてこられなくてよかったのに。

 今までの失敗作たちみたいに、愛されたまま死にたかった。

 そしたらあなたを殺さずに済んだ。

 あなたを愛する前に死ねたら、こんな思いをせずに済んだのに。

 どうして、どうして、どうして。

 私なんかのために死んでしまったの。

 どうして、私なんか生んだの。

 私のせいで、あなたは死んでしまった。

 なのに、どうして。

 どうしてあなたは。

 私を愛しているなんて言えるの。

「う……ううっ……」

 洪水のように溢れ出す涙を何度も手の甲で拭う。

 言葉にならない嗚咽を溢しながら、少女は手紙と宝石を握り締める。

「どうして」を何百回、何千回と繰り返した。

 その度に答えが返ってこないことに絶望した。

 朝が来て、夜を迎え、また朝が来て。

 エドワードが死んでから過ぎた時間の分だけ、少女は自分を責めた。

 生まれてこなければよかったと。

 自分が死ねばよかったのにと。

 きっとエドワードもそう願っているに違いないと思っていた。

 なのに。

「な、んで……」

 エドワードは少女を愛していた。

 手紙を残し、名前を残し、自身の魂までもを残すほどに。

 自身の命と引き換えに少女の未来を守った。

 たとえその愛が少女を傷付けてしまっても、それは確かに『愛』だった。

「なんで、愛してくれるの……?」

 人は愛に理由をつけたがる。

 理由がなければ愛されてはいけないと思い込んでいる。

 本当はそんなことはないのだが、理由があった方が安心する。

 自分には愛されるだけの理由があるのだと。

 少女もまた、愛されていたことを知って、その理由を求めた。

 その答えを少女はすでに知っているのに。

「お嬢様」

 穏やかな声が響く。少女は顔を上げて若葉色の瞳を見つめた。

「『愛している』に理由などありませんよ」

 深紅の瞳から溢れる大粒の涙を指先で拭いながらリコリスは言う。

「お嬢様がエドワード様を愛していらっしゃるのと同じように、エドワード様もお嬢様を愛していらっしゃるのです。ただ、それだけのことなのです」

「それ、だけ……?」

「ええ、それだけです。愛されることに理由など必要ないのですよ」

 優しい声音が少女の心をゆっくりと解放する。

「私……愛されてもいいんですか?」

「はい」

「博士のこと、信じてもいいですか?」

「はい」

「私、生きていても、いいですか……?」

 泣きながら許しを乞うように問う少女に、リコリスは口の端に小さな笑みを浮かべて答えた。

「はい。生きてください、エドワード様のためにも」

 その言葉に少女は声を上げて泣き出した。

 最愛の家族からの手紙と宝石を胸に抱いて。

 

 



「すみません、お見苦しいところをお見せしてしまって」

 思う存分泣いてすっきりしたのか、少女の顔はどこか晴れやかだった。

 少し照れくさそうに謝る姿はあどけない。

 リコリスは緩く首を振った。

「いいえ、お気になさらず。人は悲しい時には泣くものですから」

「……ありがとうございます」

 二人は並んでベッドに腰掛けている。

 不意に、リコリスが言葉を零した。

「お嬢様に、謝罪しなければいけないことがあります」

「何ですか?」

「最初はエドワード様とお嬢様、お二人の保護を頼まれていたのです。ですが、たとえエーデルシュタイン家であろうと、組織の命令に逆らった人間を保護することはできませんでした。ならばせめて、お嬢様だけでもと言われ、それならばとお引き受けいたしました」

 リコリスは真っ直ぐに少女の瞳を見て頭を下げた。

「エドワード様をお助けすることができなくて、申し訳ございませんでした。私は……私が、エドワード様を見殺しにしたのです」

 血が滲んでいるかのような声が告白した罪に少女はそっと目を伏せた。

「……頭を上げてください。リコリスさんのせいじゃないですよ」

「お嬢様……」

 顔を上げた先には痛まし気に笑う少女の姿があった。

「ありがとうございます、私たちを助けようとしてくれて」

「いいえ……私は……」

 何かを言おうとするリコリスの唇を少女の人差し指が止めた。

「リコリスさんは何も悪くありません。あなたは博士の願いを聞いて、私を助けてくれた。それだけのことです。だから、謝らないでください」

 笑いながらそう言われては、もう何も言えなかった。

 少女は手紙に視線を落とすと、ぽつりと呟いた。

「アウローラ……」

 手紙の最後の一文をなぞりながら呟く。

「それがお嬢様のお名前ですか?」

「そうみたいです。ローマ神話に出てくる暁の女神の名前です」

「美しいお名前ですね」

「……はい、私には勿体無いぐらい」

 少女は困ったような表情を浮かべた。

 人造人間の自分に女神の名前など少し仰々しいような気がしたのだ。

 そんな考えを打ち消すような声が隣から上がった。

「名は体を表す、という諺が東洋にあります」

「……? はい。確か、名前と実体は相応しているという意味ですよね」

 リコリスは一つ頷いた。

「お嬢様はこれから、その名に相応しい方になれば良いのです」

「相応しい……」

「そのための教育係です。お任せください。必要な礼儀作法や教養をお教えする準備は整っております」

 何故か前のめりになるリコリスに戸惑う少女。

「リ、リコリスさん? あの……」

「ですからお嬢様、どうか胸を張って名乗ってください。あなたはこれから『アウローラ・ローゼンタール』になるのです」

 深紅の瞳が大きく見開かれる。

 ただの人造人間から、名前を持った一人の人間になる。

 今まで考えもしなかったことに驚きながらも、少女の胸には小さな灯が生まれていた。

「なれますか、私でも」

「もちろんです。私もお手伝いいたします」

 少女は思い立ったようにベッドから降り、リコリスの目の前でお辞儀をしてみせた。

「私はアウローラ・ローゼンタール。錬金術師エドワード・ローゼンタールが生み出した最高傑作です」

 お世辞にも優雅とは言い難いカーテシーだったが、その表情には微かに自信が表れていた。

 リコリスは敬意を表して名乗り返した。

「宝石商リコリス・エーデルシュタインと申します。本日からアウローラ様の教育係と後見人を務めさせていただきます」

「はい、よろしくお願いします、リコリスさん。それにしても、知識として知っているだけじゃ上手くできませんね、お辞儀って」

「問題ありません。これから訓練を重ねていけば上達しますよ」

「リコリスさん、厳しそう……でも、頑張ります!」

 握り拳を作って意気込む少女にリコリスは手を差し伸べる。

「これからよろしくお願い致します、アウローラ様」

「はい!」

 自分より少し大きい手を握り返して少女——アウローラは笑った。

 それは、前に進みだした者の笑顔だった。

 

 

 翌日、アウローラはリコリスに連れられてエーデルシュタイン本邸に向かっていた。

 生まれて初めて乗る列車に瞳を輝かせながらも行儀良く座っている。

「知識としては知ってましたけど、実際に乗るとすごいですね、列車って」

「はい、私も初めて乗った時は驚きました」

「リコリスさんって驚くことあるんですか?」

 意外だと言わんばかりの表情で少女が尋ねる。

「ここ十数年で自覚した感情です。最近では驚くことも増えましたよ」

「へえ……。あ、そうだ。服、用意してくださってありがとうございます」

「いえ、大きさは大丈夫でしたか?」

「はい、ピッタリです」

 今、アウローラは〝花園〟に支給されたシュミーズ・ドレスではなくリコリスが用意した服を着ている。

 リコリスとお揃いの白いフリルスタンドカラーのブラウスにガーネットのヨークスカート。靴は黒の編み上げブーツ。髪はポニーテールにして纏めている。

 リコリスと並ぶと歳の離れた姉妹のようだ。

「とてもよくお似合いです」

「そんな……リコリスさんのセンスが良いだけですよ」

 褒められ慣れていないせいか、照れて視線を逸らしてしまう。

 車窓の向こうでは田園風景が流れている。晴れているので奥の山並みまで見通せた。

 生まれたばかりのアウローラにとって目にするものはなんでも新鮮に映った。

 食い入るように外の景色を眺めていると前に座っているリコリスに話しかけられた。

「自信過剰になるのはいけませんが、アウローラ様はもう少し自信を持たれてもよいかと。あまり卑下し過ぎるとかえって失礼になることもありますよ」

「そうなんですね……気をつけます」

 知識だけはあるものの、実際に社会で生活したことがないため、不文律や暗黙のルール、人の機微などにはまだ疎い。

 これから身につけていかなければいけないことは山のようにある。

 ——でも、頑張らなきゃ。

 エドワードがくれた名前に相応しい人間になるという目標が少女にはある。

 アウローラはスカートのポケットからエドワードがくれた手紙と宝石箱を取り出した。

 昨日から何度も読み直した手紙をもう一度開く。

 そこで、ふと、今朝から思っていたことをリコリスに尋ねてみることにした。

「あの、リコリスさん。世間では、自分を育んでくれた男性を『お父さん』と呼ぶそうなんですが……私が博士のことをそう呼ぶのは、おかしいでしょうか?」

 不安げな表情は自分の考えに自信がないからだろう。

 手紙には『最愛の娘』と書いてくれているが、自分とエドワードに血の繋がりはないし、育ててもらったのもフラスコの中にいた時だけ。

 世間的には自分とエドワードを『父娘』と呼ぶのはおかしいのではないだろうか。

 そんな思いから尋ねてみたことだったが、答えは呆気なく渡された。

「いいえ、おかしくはないかと。アウローラ様を創ったのも生んだのもエドワード様です。世間の常識に当てはめても問題はありませんよ」

「そ、そうですか……」

 思いの外あっさりと認められたのでアウローラは拍子抜けしてしまった。

 とは言え、身近な人間から認められたことで自信がでてきたのか、表情が柔らかくなっていく。

 会話が終わってしまったことが寂しくて、次の話題を振った。

「あの……そのアウローラ様ってやめてください。私、教えてもらう立場なのに……」

「では、なんとお呼びしたらよろしいでしょう?」

「ローラでいいですよ。私もリコリスさんって呼んでますし」

「かしこまりました。では、ローラさんと」

「はい、リコリスさん。あの、ありがとうございます」

「何がでしょう?」

「私を、助けてくださったことです。まだちゃんとお礼、言えてなかったから」

 そう言って、アウローラは微笑んだ。

 車窓から差し込む陽に照らされて、その笑顔は輝いて見えた。

 ここにエドワードがいたら、とリコリスはありもしない未来を夢見た。

 きっと嬉しくて泣いていたかもしれない。

 一緒に笑っていたかも。

 でもそんな未来はもう来ない。その事実に胸が痛んだ。

 それでも、目の前の少女は前を向くことを選んだ。

 たった一人の父親が与えてくれた名を持って歩くことを決めた。

 リコリスは胸の痛みを打ち消すようにただ静かにアウローラを見つめた。

 アウローラは宝石箱の中へ語りかけるように囁く。

「私、がんばるからね、お父さん」

 ──だから、見守っていて。

 何処からか「愛している」と聞こえた気がした。

 

 そして、少女の物語はここから始まる。




「リコリスさん!」

 仕事で立ち寄った街中で声をかけられ振り返ると、見知った顔があった。

「ローラさん」

 昔、リコリスが引き取った少女アウローラ。今では立派に成長して一人前の錬金術師を名乗っている。

 艶のある黒髪。深紅の瞳。少女の頃の面影はあるものの、顔立ちは大人の女性になっている。

 背は伸びて、今ではリコリスより少し高いぐらいか。

 服装もフリルスタンドカラーのブラウスにガーネットのヨークスカートと変わっていない。

 唯一変わっているところがあるとすれば、胸元にペンダントをしていることぐらいだろうか。

 深い緑色の宝石が艶やかに光っている。

 それはアウローラのたった一人の家族の魂から作られたものだ。

「お仕事ですか?」

「いえ、それは先程終わりました。今は昼食を摂ろうか迷っていたところです」

「でしたら、ご一緒しませんか? 私も今から食べようと思ってて。ちょうどこの近くに美味しいお店があるんです」

「では、お言葉に甘えて」

「はい、ぜひ!」

 屈託なく笑う姿はかつてアウローラを創った男が夢見たものだった。

 そこに人造人間と呼ばれていた頃の面影はない。

 今ここにいるのは、アウローラ・ローゼンタールという一人の人間だ。

 その名に相応しい人間になるという少女の夢が叶った姿。

 その姿を見守るように胸元のマラカイトは輝く。

 父は愛する我が子と共に。





 君が生まれた時、僕は柄にもなく泣きだしそうになった。

 珍しく晴れ渡った夕暮れの太陽に照らされて金色に染まった実験室。

 清潔なシーツと太陽の匂いに包まれた空間で、僕は息をする君を見つめていた。

 夢を見るために閉じられた瞼。

 生まれたての艶やかな黒髪。

 時折動く小さな唇。

 僕の指を掴む柔らかな手。

 何も怖いことを知らない安らかな寝息。

 その全てが、どうしようもないほど愛おしいと思った。

 今まで感じたことのない感情が尽きることのない泉のように湧き出ていた。

 息をするのも忘れて見つめていたら、君の瞼が小さく震えた。

 薄らと開いた瞳を覗き込むと、その奥に美しい花が咲いたのが見えた。

 僕が愛した花。それが君の瞳に咲いていた。

 途端に、胸の中に黒い泥が洪水のように広がった。

 それは悲しみと悔しさと怒りでできていて、止めることができなかった。

 今思えば、いっそ声を上げて泣きだしてしまえばよかったのかもしれない。

 どうしてだと叫べたらどんなに楽だっただろう。

 だけどそれをするだけの気力も言葉も、僕にはなかった。

 それでも、ただ一つ。

 黒く澱んだ泥だらけの僕の心の中でも美しい宝石のように輝くものがあった。

 君が生まれた瞬間に輝き出した光。

 間違いだらけの僕の人生の中で唯一、間違いなんかじゃないと胸を張って言えるもの。

 僕がこれからの人生全てを君に捧げようと決めたたった一つの理由。

 その輝きを抱きしめるように、小さな君を腕に抱いた。

 力を入れたら壊れてしまいそうなほどに柔い君の体を抱き締めるのは怖かった。

 だけどそれ以上に、君の温もりを手放すことができなくて。

 叶うなら、ずっとこの腕の中で守ってやりたいと。

 どうかそれを許してもらえないだろうかと。

 信じてもいない神様に祈ってしまうぐらい、手放しがたくて。

 もしも、許されるなら。

 泣いて、力いっぱい抱きしめてあげたかった。

 君の尊く美しい名前を呼んで、呼んで、呼んで。

 何度も呼んで、何度でも抱きしめてあげたかった。

 だけど、それは許されないことだ。

 傍で守る役目も、抱きしめる権利も、僕にはない。

 僕に許されたのは祈ることだけ。

 だから、君をこの腕で抱きしめるのはこれが最初で最後だ。

 君を抱きしめながら、僕はやっぱり泣き出してしまった。

 泣きながら、たくさんのものに祈った。

 信じていない神様に、窓の外で僕たちを見守る太陽に、どこまでも続く無辺の空に。

 この祈りが聞き届けられるなら、僕の命などどうなっても構わない。

 どうか、この子が生きて。生きて。生きて。生きて。たくさんの時間を生きて。

 そして誰よりも愛されて幸せになれますように。




 さようなら、愛しい僕のお嬢さん。

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宝石商リコリスの葬送 松たけ子 @ma_tsu_takeko

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