宝石商リコリスの葬送

松たけ子

第1話 エメラルドの妻

 この世には一風変わった噂をもつ宝石商がいる。

 なんでも、死んだ人間の魂を宝石に変えることができるというのだ。

 性別はもちろん、死因や年齢、国籍、人種などは一切問わない。

 ただ一つ、生前に人を殺してさえいなければどのような魂でも宝石にできるという。

 宝石商にしては珍しく店を構えておらず、ふらりと現れては宝石を渡して消える。そしてまた別の場所に現れるのだ。

 ある時は我が子を亡くした母親の元へ。

 ある時は妻に先立たれた老人の元へ。

 ある時は戦争で兄を亡くした妹の元へ。

 古びたトランクを片手に旅をしていると。

 噂を聞いて青ざめる者、法螺話だと笑い飛ばす者、好奇心で興味を持つ者。

 様々な人々の口から語られる噂は言葉を変え、場所を変えて流れるが、変わらないこともある。

 一つは、その宝石商が美しい女だということ。

 髪は地に燃えるように咲く赤い花。

 瞳は春の訪れを祝福する若葉色の宝石。

 肌は月の光を纏った滑らかな真珠。

 声は夜明けを告げる麗しい小夜啼鳥。

 この世の美という美を掻き集めて創り出されたかのような美貌は恐れ慄くほどらしい。

 もう一つは、宝石商の名前。

 その名をリコリス・エーデルシュタインという。

 

 噂は今日も町から街へと流れ、宝石商もまた人々の間を渡り歩いている。

 

 

 

 

 とある家の庭に植えられているライラックがもうじき満開を迎えようとしていた。

 独特の甘い香りが風にさらわれて、窓が開け放たれた一階の部屋へ運ばれる。

 部屋には一人の男がいた。

 右目にモノクルをつけた、少し背の曲がった老人だ。若い頃は持て囃されていただろう上品な顔立ちにこれまでの苦楽が皺となって刻まれている。艶のない白髪交じりの茶髪は枯れ葉のようで、背中からは孤独による哀愁が滲み出ていた。

 まるでこの老人だけが春に取り残され、寒い冬空の下に置いていかれたかのようだ。

 老人の名はアルフォンスという。

 シンプルなワイシャツにスラックス、その上から裾が長めのカーディガンを羽織ったラフな格好をしている。

 鼻先をかすめた香りにアルフォンスはふと、読んでいた本から顔を上げ、庭を見つめた。

 しばらく庭のライラックを眺めると、読みかけの本をローテブルに置き、おもむろに立ち上がった。椅子の横に立てかけてあった杖を取り、のろのろとした足取りで庭へ出る。

 一番近いライラックの木の傍に立ち、花を一房、手に取る。

「今年もまた、綺麗に咲いてくれたか」

 花を見つめるアルフォンスの瞳には懐かしさと喜びがあった。

 だがそれも一瞬で、次第にそれは悲しい色に染まっていく。

「エマ……」

 アルフォンスは小さく呼びかけるように、今は亡き妻の名を口にした。

 

 時は遡ること五十五年前。

 アルフォンスとエマは家同士が決めた許婚同士だった。

 地方にある小さな村で住人が全員顔見知りという狭い世界が二人の生まれ育った場所だ。

 二人の両親は地元でも名のある家で、よくある政略結婚だった。

 顔合わせの当日、アルフォンスは燻っていた。まだ十代だったアルフォンスにとって親の決めた結婚など時代錯誤も甚だしいもののように感じられ、断固として反対していたからだ。だが当主である父親に逆らうことは許されなかった。成人しているとはいえ、まだ親の庇護がなければ生きていけない歳であることはアルフォンスも十分すぎるほど理解していた。だからこそ自分の無力さが悔しかった。

 ──こんな家、絶対に出て行ってやる。

 自分の可能性を信じすぎるあまり世界の広さを未だ知らなかったアルフォンスは数時間後、この考えを捨てざるを得なくなった。

 エマという、運命の女性に出会ってしまったから。

『はじめまして、エマ・グリュンヴァルトと申します』

 亜麻色の髪をハーフアップにし、顔にはうっすらと化粧が施されている。華美ではないが、白のレースとフリルがふんだんにあしらわれたドレスワンピースはエマの気品ある雰囲気とも相まってよく似合っていた。何処かの国の姫君と言われても信じていただろう。実際、アルフォンスの目にはエマはお伽噺に出てくるお姫様のように見えていた。

 ──この人と結婚したい。

 今初めて出会ったばかりの女性にそんなことを思っている自分に驚きながらも、それが自身の本心だと理解した瞬間、アルフォンスの行動は早かった。

 なんとしてもエマに気に入られようとこの顔合わせ以降も何かと理由をつけては足繁くエマの元へ通った。時には花束やプレゼントを携えて。

 最初の頃、エマは笑顔でアルフォンスを迎え入れては甲斐甲斐しくお茶を淹れ、話し相手になってくれたが、次第に表情に陰りが見え始め、口数も少なくなっていった。

 好きな相手の元気がない姿というのは恋する青年には堪えるものがある。アルフォンスは自分がエマの気に障るようなことでもしてしまったのかと内心で怯えていた。

 アルフォンスはある日のお茶会で、思い切ってエマに尋ねてみた。

『エマ、どうしたんだ? 最近元気がないようだけど……。俺が何か、君の気に障るようなことでもしてしまっただろうか……?』

『……貴方は、お父様の……ルートヴィヒ様の言いつけで私の元にいらっしゃっているのでしょう?』

 ルートヴィヒとはアルフォンスの父親の名前だ。アルフォンスは自分の父親の名前が出てくるとは思っておらず目を瞬かせた。

『父? どういうことだい? 父が何か君に言ったのか?』

『違います。何か言われているのは貴方のほうでしょう? 私と結婚して財産を手に入れるためにこうして通っていると使用人たちが話しているのを聞きました』

『それは……』

 エマと結婚するために通っていることは間違いではないが、決して父親に言われたからでも、財産目当てでもない。むしろ父親からは「またか」と呆れられているぐらいなのに。

 そう言いたいが、アルフォンスは気恥ずかしさからつい黙ってしまった。それがよくなかった。

 エマの目にはアルフォンスが父親に言われて自分を口説きに来ている不埒な男に見えているのだろう。その証拠に今まで向けてくれていた親愛は徐々に不信の色に染まりつつあった。

『やっぱり……。私の家の土地と財産が目当てなのね』

『違う! 俺は父に言われて来ているんじゃない』

 思わず立ち上がって否定するアルフォンスに今度はエマが驚いた。

『俺は……自分の意思で、君の、もとに……』

 今まで恋を知らずに育ったアルフォンスにとって、初めて好きになった人の前で自分の胸の内を吐露することは顔どころか体中から火が噴き出しそうなほど恥ずかしかった。

 だけど、今その恥ずかしさを捨てなければもっと大切なものを取り溢してしまうことを聡明なアルフォンスは理解していた。

 ──今、言わなくて、いつ言うんだ!

『俺は、君が好きだから、君と結婚したい。父も、家も関係ない。これは俺の意思だ。どうか、それだけは信じてくれないか?』

『……』

 エマは驚いて黙ったままアルフォンスを見つめている。アルフォンスも目を逸らさない。

 永遠にも感じられる時間の末、最初に口を開いたのはエマの方だった。

『……やっと言ってくれましたね』

『え?』

『貴方ってば、顔に出るくせに言葉にはしてくださらないんだもの』

『それって……』

『使用人たちが話しているのを聞いたのは本当。でも、貴方の本心が聞きたくてつい意地悪をしてしまいました。ごめんなさい、嫌いになった?』

 申し訳なさそうに微笑むエマに、これまでの会話が全て彼女によって仕組まれていたものだと気付き、アルフォンスは一気に肩の力が抜けた。

『な、なんだ……俺はてっきり君に嫌われたのかと思って……』

『あら、嫌いな殿方とお茶をするほど軽い女じゃありませんよ』

『よかったあ……って、え⁉ 今、なんて……』

『私たち、きっとお似合いの夫婦になれますよ、アル』

 花の顔を綻ばせるエマの周りを庭に植えられている薔薇の花弁が舞う。

 それはまるで一枚の絵画のように美しく、アルフォンスの目にいつまでも焼き付いた。

 二人の恋愛はこのようにして始まった。

 結婚式は村で盛大に行われ、二人はたくさんの人々に祝福されて家族になった。

 結婚後、アルフォンスは家督を継ぎ、エマは彼を支えるために女主人として家を切り盛りしていった。まもなく二人の間には三人の子供が産まれ、全員が健やかに育った。アルフォンスが隠居を考える歳を迎えた頃には既に三人とも結婚しており、アルフォンスは何の気兼ねもなく長男に家督を譲ることができた。

 あとは余生を最愛の妻と共に穏やかに過ごすだけだった。エマが病気と診断されるまでは。

 突然の事だった。エマは買い出しに出掛けた先で倒れ、救急車で病院に搬送された。アルフォンスが駆け付けた時には集中治療室に入っていた。その後、医師の懸命な治療のおかげで一命を取り留めたものの、医師からはもう末期だと告げられた。これ以上の延命は望めないと。

 アルフォンスはなんとか治療出来ないかと医師に詰め寄ったが、エマ自身が治療を拒否した。

『いいのです、いいのですよ、あなた。もう……いいのです』

『何を言っているんだ! 諦めることは無い。金なら俺が何とかする。だから……』

 アルフォンスは懸命に訴えた。だが、エマが首を縦に振ることはなかった。

『アルフォンス、いいのです。私のことを思ってくれるなら、どうか最期の時まで、私の手を握っていてくださいな』

 エマはそう言うと、自身の手をアルフォンスの手に重ねた。

 夫婦になって五十年も経つが、こんなにも頑ななエマを初めて見たアルフォンスは、それ以上何も言えなかった。

 ただ、最愛の妻の望み通り、息絶えるその時まで手を握り続けた。

 アルフォンスにとってエマの死はまるで花が朽ちるのを見守るかのようだった。

 薔薇色の頬は白く痩せこけ、手足も枯れ枝かと見紛うほど細くなってしまった。死に近づくにつれ食べることも殆どできなくなり、一日中寝たきりの日が続いた。

 日に日に弱っていく妻を見て、アルフォンスは何度、自分が変わってやれたらよかっただろうと思ったことか。

 エマは園芸が好きで、家の庭には彼女の好きな花がたくさん植わっている。もうそれらの世話をしてやるどころか、見に行くことすら今のエマにはできない。せめともの慰めにと、アルフォンスは近くの花屋で季節の花を買い、エマの病室に飾った。その度にエマは嬉しそうに「ありがとう、アル。嬉しいわ」と笑った。その笑顔だけがアルフォンスにとってくじけそうになる心の唯一の支えだった。

 エマが死んだのは一年前。よく晴れた、暖かい春の午後だった。

 何度か苦しそうに息をした後、エマは最後の力を振り絞るかのように穏やかに笑い、ただ一言「愛しているわ」と遺して永遠の眠りについた。

 それから後のことはよく覚えていない。子供たちが代わりに手続きや準備をしてくれたような気がする。

 唯一覚えているのは葬儀の日。柩に入り、土を被せられる妻を見てアルフォンスは「寒い季節でなくてよかった」と思った。エマは寒がりで、冬が大の苦手だった。寒くなるといつもアルフォンスの手を握って「あなた、寒いですね、温かい紅茶を飲みましょう」と鼻を赤くして笑っていた。そんなエマが愛おしかった。

 柩の上にスコップで土を被せられていく度にエマとの思い出が蘇る。

 初めて同じ家に帰った日のこと、二人きりで誕生日パーティーを開いたこと、子供が産まれ二人で苦労しながら育てたこと、庭の花と子供達に囲まれて笑い合ったこと。

 どれも随分昔のことなのに、つい昨日のことのように思い出せる。

 喧嘩した日もあった。もう顔も見たくないと思った日もあった。

 だけど。

 ——愛している。

 どんなことがあっても、愛さなかった日はない。

 ——愛している。

 どれだけ皺が増えても、髪が白くなっても、もう二度と手を繋いで歩けなくても。

 ——愛しているよ。

 永遠に会えなくなっても。

 ——愛しているから。

 アルフォンスという男にとってエマは自身の愛そのものだった。

 ——一緒に連れて行ってくれ、エマ。

 土に埋まり、墓石が立てられた後もアルフォンスは静かに泣きながらエマの墓の前で立ち尽くした。

 

 

 過去の記憶からアルフォンスを呼び戻したのは、不意に鳴り響いた玄関のブザーだった。

 ——はて、今日は誰か来るとは聞いてなかったが……。

 アルフォンスは不思議に思いながらも、ゆっくりとした足取りで庭から玄関へ向かう。この家の庭は玄関の一歩手前にある脇道と続いている。

 薔薇が植えられた花壇の間から燃えるような赤い髪が覗き見えた。

「どちら様です……か……」

「突然の訪問、失礼致します。こちらはアルフォンス・リヒター様の御自宅でしょうか?」

 そこに立っていたのは息が止まるほどに美しい女だった。

 髪は地に燃えるように咲く赤い花。

 瞳は春の訪れを祝福する若葉色の宝石。

 肌は月の光を纏った滑らかな真珠。

 声は夜明けを告げる麗しい小夜啼鳥。

 世界中から美しいものだけを集めて造られたかのような美貌は畏怖すら抱かせる。

「貴女は……」

「お初にお目にかかります。宝石商のリコリス・エーデルシュタインと申します」

「宝石商?」

 アルフォンスは驚きながらも、リコリスと名乗る女を観察した。

 華奢な身体を包むのは珍しいボルドーの三つ揃え。中のワイシャツはスーツの色が映える白のフリルスタンドカラー。スカートではなくスラックスなのは動きやすさを重視してのことだろう。リコリスの長身痩躯のシルエットを上品に演出している。スーツに合うように選ばれたであろう深めのココア色のパンプスや、きっちりと纏められた髪を飾る大振りの白いレースリボンなど、細かい所にまで身なりに気を遣っているのが分かる。

 荷物は手に持っている重たそうなアンティーク調のトランクのみ。

 服装と雰囲気からして宝石商と言われても違和感はない。女性であるというのは些か珍しいが、最近では増えてきているのだろう。

 だが、アルフォンスはエマと結婚してから華美な生活を避けてきた。エマがあまり快く思っていなかったからだ。唯一の宝飾品と言えば婚約指輪と結婚指輪だけ。それももう五十年以上前の話だ。

 今更、宝石商に用などないし、余生も慎ましやかに過ごしたいアルフォンスにとって宝石は文字通り宝の持ち腐れになる。

「生憎、うちは間に合っておりますので……」

 訪問販売の類だろうと思い、断ろうと口を開いたアルフォンスにリコリスは首を横に振った。

「誤解を招いてしまっているようですね。申し訳ございません。ですが、本日は奥様のご依頼で参りました」

「妻の?」

「はい。奥様……エマ・リヒター様からの御依頼で、アルフォンス様に宝石をお届けに参りました」

 白皙の宝石商はそう言って、優雅にお辞儀をした。

 

 

 アルフォンスは突然の来訪に驚きつつもリコリスを応接室まで案内した。

「どうぞ、お座りください。今、紅茶をお淹れしますね」

「ありがとうございます。失礼致します」

 お辞儀をしてからソファに座るまでの動作でさえ優雅なリコリスに、アルフォンスは感嘆の溜息を吐きそうになった。

 あまりに完璧な所作は人間離れした美貌と相まって、つい人形ではないかと疑いたくなるほどだ。訪問してきた時もそうだが、表情に変化が見られないのも理由の一つだった。

 応接室は決して豪奢ではないものの、調度品にはそれなりに質の良いものを誂えてある。だが、リコリスの秀麗さはそれらを圧倒してなお余りある。ただソファに座っているだけでも絵になるのだ。街中を歩けば十人中十人が振り返って見惚れることだろう。

 だが、リコリスには人を寄せ付けない神秘的な雰囲気がある。容易に声をかけられない敷居の高さが彼女をより人間離れさせているようにアルフォンスには見えた。

 ——宝石商というより、何処かの貴族のご令嬢のようだ。

 宝石商をしているのが勿体無い。あの美貌なら貴族どころか王族の目に留まってもおかしくはないだろうに。

 どういった経緯で宝石商を生業にするようになったのだろうかと興味はあったが、今はそれよりも大事なことがある。

 商人とはいえ客人に対して少々失礼なことを考えてしまったことに罪悪感を抱いたアルフォンスはそそくさと台所へ向かった。

 久方ぶりに出す客人用のティーカップに紅茶を注ぎ、ワゴンに乗せて客間へ戻ると、リコリスはローテブルの上に一つの小さな黒い箱を置いていた。何の装飾も施されていないシンプルなベルベットの箱だ。

 おそらく宝石が入っているのであろうことは予想ができたが、それが何の石で、何故エマがそれを自分に遺したのかは全く見当がつかなかった。

「お待たせしました、どうぞ」

「ありがとうございます」

 繊細な金彩が施されたティーカップを二人分、ローテブルに置いて、アルフォンスもリコリスの向かいのソファに座る。

 アルフォンスは落ち着かない様子で話を切り出した。

「それで、フラウ・エーデルシュタイン。エマの……妻からの依頼というのは一体……」

「はい、こちらで御座います」

 リコリスは白い手袋を両手に嵌め、ローテブルに置かれた小さな黒い箱を持ち上げた。

 アルフォンスは右目のモノクロを掛け直しながら、箱を見つめる。

 緊張した面持ちで箱を見つめるアルフォンスの前で、リコリスの細長い指が蓋をぱっくりと開いた。

 中から現れたのは見事な緑色の宝石だった。

 深い森の木々を思わせる緑でありながら中から透き通るような輝きを放つ姿は神秘そのもの。光の当たり方で中の色の濃淡が変わる様はまるで湖の底を覗き見ているかのようだ。手のひらサイズの小さな箱に収まるほどの大きさだが、その存在感は異彩を放っていた。腕のある職人がペンダントなどの宝飾品にすればさぞ映えるだろうことは宝石に詳しくないアルフォンスでも想像できた。

 だからこそ、アルフォンスは困惑した。

 ——これを、エマが依頼したのか?

 アルフォンスの知るエマは、華美な宝飾品になど一切興味がなく、草花を愛で、慎ましやかな生活を好む女性であった。

 そのエマがアルフォンスにこの宝石を遺したというのが、アルフォンスには信じられなかった。

 ──仮にエマが遺したとして、何のために?

 遺産ならある。アルフォンスが独りで生きていくには十分過ぎるほどのものだ。

 アルフォンスの知らないところでエマがこの宝石を買っていたとして、今頃になって何故自分の元へ届けるように依頼したのか。

 分からないことが次から次へと泉のように湧き出て、アルフォンスの頭を掻き混ぜる。

 項垂れるアルフォンスの頭上に玲瓏な声が落ちた。

「旦那様、こちらは生前の奥様からご注文を承ったお品でございます。自分が死んだ後、その魂を宝石にして旦那様に渡して欲しいと」

「死んだ後……宝石、に……?」

 非現実的な話が飛び出してきて、アルフォンスは受け入れるのに時間がかかった。

 リコリスはそんなアルフォンスの様子を見た上で頷き、話を続ける。

「私は亡くなった方の魂を宝石にできるのです」

「死んだ人間の、魂を……?」

 あまりに突飛な話に思考が一瞬停止しかけたが、不意に、つい一昨日に会った友人との会話がアルフォンスの脳裏に過った。

 

『なあ、アル。この世界には死んだ人間の魂を宝石にして売る宝石商がいるらしいぞ』

『魂を宝石に? どうやって?』

『さあ? 詳しいことは俺も知らん。だが、隣村のレオンがその宝石商に会ったって言う人間から聞いたらしい』

『法螺話でも吹き込まれたんじゃないのか。人の魂を宝石にするなんて、そんな魔法みたいなことあるわけがない』

『夢がねえなあ。ま、俺もあまり信じちゃいないがね』

 

「もしかして……あの噂は本当だったのか?」

 噂のことは当事者であるリコリスも知っていたらしい。呆然と呟くアルフォンスにリコリスは頷いた。

「信じられないのも無理はないかと。本来であれば、生前に遺言書代わりにご遺族か宝石をお受け取り頂く方へお手紙を書いていただくのですが、エマ様はご容体が芳しくなかったこともあり、今回は僭越ながら私が伝言をお預かりしております」

「伝言?」

「はい。『アルフォンス、今日が何の日か思い出して』と」

「今日……?」

 エマの伝言を聞いて、アルフォンスは今日の日付を思い浮かべた後、ハッとなった。

 箱の中で神秘的に輝く宝石を見つめながら呟いた。

「今日は……私たちが結婚した日だ」

 アルフォンスの脳内で懐かしい記憶が再生される。

 純白のドレスに身を包み、赤いバージンロードを歩いてくるエマ。村の小さな教会での挙式だったが、村人たちがこれでもかと盛大に祝ってくれた。白い花で飾りつけされた村、村の女たちが腕によりをかけた料理が並ぶテーブル。楽しげな音楽と歌が響く広場でウェディングドレス姿のエマと踊った。ワルツのような上品な踊りではなかったが、それが自分たちらしいと笑うエマが美しかった。

 一生忘れることのない記憶。二人にとっての宝物。

 リコリスがそれを知っているわけがない。

 村人から話を聞くという手段もあるが、小さな村だ。こんな美人が尋ね回っていたらすぐ噂になる。何より閉鎖的な村人が余所者に軽々しく口を開くとは思えなかった。

 必然的にアルフォンスの中で、エマがリコリスに聞かせたのだと理解できた。

 だが、全く疑わしく無いわけではない。

 アルフォンスは半信半疑でリコリスに尋ねた。

「エマはどうしてそんな伝言を?」

「旦那様は結婚記念石をご存じですか?」

「結婚記念石? いいえ、初めて聞きました。なんです、それは」

「結婚記念日に指定された宝石のことです。たとえば、三年目であればクォーツ、十年目であればダイアモンドといったふうに、ご結婚されてからの年輪を宝石に当てはめたものです。旦那様と奥様は今年で五十五年目になると伺っております。五十五年目の宝石は、エメラルドです」

「エメラルド……まさか……!」

 ローテブルの上で燦然と輝く緑の宝石。アルフォンスには何の宝石かまでは分からなかったが、リコリスの言葉で気付いた。

「結婚記念石は記念日に、これからも変わらぬ愛を形に残すという意味を込めてお相手に贈るのが一般的です。奥様からのご依頼は『自分の魂をエメラルドにすること』『結婚記念日に旦那様の元へ帰すこと』でした。……必ず旦那様の元へ帰るのだと、笑顔でお話しされていました」

 帰る──その言葉は、アルフォンスにも聞き覚えのある言葉だった。

 エマが亡くなる数日前、言っていた。

『私、いつか貴方の元へ帰ります。貴方が寂しくないように。だから、待っててくださいね』

 その時は、衰えていくエマの看病に疲れた自分を慰めるために言ってくれているのだと思っていた。

 だけど、違った。あの言葉は本当だった。

 アルフォンスは信じられないものを見るような目で深緑の宝石を見つめた。

「では、この宝石は……本当に妻の、エマの魂だと?」

「はい。先にお伝えしておきますが、私は同意なく魂を宝石に変えることはできません。お客様が本当に望まれ、かつ逝去された後でしか行えません。無論、こちらの宝石も、生前の奥様からの御依頼を受けて、奥様の死後作らせていただいたものです。誓って、奥様に危害を与えるようなことは行っておりません」

 真っ直ぐにアルフォンスを見つめる若葉色の瞳は嘘を言っているようには見えなかった。

 人の魂を宝石にできるなどあまりにも非科学的かつ非現実的だが、信じたいと思ってしまっている自分がいることにアルフォンスは内心で驚いた。

「旦那様ならお分かりになるはずです。この宝石が奥様の魂であると」

「え……」

「どうぞ、お手に取ってご覧ください」

 そう言うと、リコリスは箱をアルフォンスに差し出した。

 アルフォンスは宝石とリコリスを交互に見つめたが、やがて少しの決意の後、恐る恐る宝石を手に取った。

 

 その瞬間、息が、止まった。

 

 手に取って、初めて理解できた。

 リコリスの言葉の意味を。

 アルフォンスになら分かるはずだという、その意味を。

「エ、マ……」

 まるで古い映画のフィルムを再生するように、エマの記憶が頭の中に流れ込んでくる。

 独身の頃の家族との思い出、子供達や最愛の夫と過ごした幸せな時間、闘病生活の苦しみ、死への恐怖と寂しさ。

 エマがこれまでに送ってきた人生が宝石には詰め込まれていた。

 アルフォンスが味わったことのない苦しみや喜びまで感じられるほど鮮明に。

 アルフォンスは両手で包み込むように宝石を握りしめた。

「エマ……!」

 そうだった、君はたくさんの人に愛されていたね。

 ご両親にも村の人々にも、愛されて育って、俺と家族になってくれた。

 もっといい人がいただろうに、君は俺を選んでくれた。

 嬉しかったよ。本当に、涙が出るほど嬉しかった。

 結婚式では泣いてしまったね。ああ、そうだ、君は笑って涙を拭いてくれたね。

 ウェディングドレス姿の君は世界で一番綺麗だった。何度でも思い出せるよ。

 初めて喧嘩した日もあったね。

 でも本当はすぐに謝りたかったんだ。君と話せないのは寂しかった。君に嫌われたかと思って怖かった。

 君も同じだったんだね。大丈夫、俺は君を嫌いになったりしないよ。

 子供が産まれた時も大変だった。ああ、君はこんなにも痛い思いをして産んでくれたんだね。ありがとう、どんな言葉を尽くしても伝えきれない。

 二人で頑張って育てたね。君のおかげで子供達はみんな健やかだよ。立派に育った。俺の誇りであり宝だ。

 君はいつも楽しそうに園芸をしていたね。今でも庭のライラックが綺麗に咲いてくれているよ。

 どんな時でも君は幸せそうに笑ってくれていた。そんな君の笑顔を愛していた。今でも愛している。

 なのに、どうして。

 どうして、君だったんだ。

 ああ、神様。教えてくれ。どうしてエマだったんだ。

 エマが何をしたっていうんだ。何か悪いことをしたのか。

 あんなに苦しみながら死ななければいけない人じゃなかった。

 優しくて、温かくて、愛情深くて、誰よりも幸せになるべき人だった。

 もっとたくさんの人に看取られながら、笑って貴方の元へ旅立つべき人だった。

 なのに、どうして、どうしてなんだ。

 どうして俺じゃなかったんだ。

 俺でもよかったはずだ。

 たくさん悪いことをしてきた。エマとは真逆の人間だ。苦しむなら俺であるべきだ。

 エマ、病気になって辛かっただろう。苦しかっただろう。

 不自由になってしまって、もどかしかっただろう。

 代わってやりたかった。ずっと後悔しているんだ。

 もっと君に好きなものを食べさせてあげたかった。

 好きなだけ花を愛でて、好きな場所に出掛けて。

 そんな自由を最期まで君にあげたかった。

 最期まで笑わせてあげたかった。

 あんな狭い病室で苦しみながら死なせたくなかった。

 ——ごめん、ごめんな、エマ。

 もっと傍にいたかった。

 君だけが死ぬんじゃなくて、二人で笑いながら死にたかった。

 最期まで手を繋いで、好きな花と子供達に囲まれながら。

 ——俺だけが、ここにいて。

 君を独りになんてしたくなかった。

 俺を独りにしないでほしかった。

 死ぬ時も一緒だと思っていた。

「う……うう……」

 アルフォンスの目から大粒の涙が零れ落ちた。

 落ちては溢れ、落ちては溢れ。繰り返し生産され続ける涙はアルフォンスの手を、服を、床を濡らしていく。

「ふ……う……っ」

 死なないでほしかった。

 もっと一緒に生きていてほしかった。

 そう願っても、死者は蘇らない。

 体から零れ落ちた涙と一緒で、二度とかえってこない。

 それでも、願ってしまう。

 帰ってきて、愛しい人よ、と。

「旦那様」

 慰められるように呼びかけられて、ふと顔を上げると、アルフォンスの足元近くにリコリスが跪き、白いハンカチを差し出してくれていた。

「奥様からの伝言には続きがございます。どうぞ宝石に耳を傾けてください」

「伝言……」

 そう言われ、アルフォンスは泣き疲れかけた意識のまま言葉通り宝石に耳をあてた。

『アル』

「⁉︎」

 宝石から聞こえてきた声にアルフォンスは驚いて宝石から耳を離してしまった。あまりの驚きに涙も止まる。

 聞こえてきた声は亡き妻、エマのものだ。

 アルフォンスから「どういうことだ」という視線を受けたリコリスは言う。

「奥様が最期に遺された言葉を宝石に込めました。一度しか聞くことはできませんが……」

 最後の方は申し訳なさそうに言うリコリスだったが、瞳には揺るがない誠実さがあった。

 宝石が話すなどありえないが、アルフォンスは確かに聞いた。

 自身の名前を呼ぶ、最愛の妻の声を。

 アルフォンスはもう一度、宝石に耳をあてて全神経を聴覚へ注いだ。

 やがて、宝石から小さな囁きが聞こえた。

『ただいま、アル』

 ほんの一瞬。瞬きの間の伝言だった。

 けれど、アルフォンスにとっては十分すぎるほどの言葉だった。

 涙が枯れるほど泣いて、二度と戻らぬと分かっていても待ち望んだ人の帰り。

「あ……ああ……」

 声だけでも思い出せる。帰ってきた時に見せる笑顔を。

『ただいま、アル』

 嬉しそうに帰ってくる妻の姿がアルフォンスの瞳の奥に映る。

 ああ、帰ってきてくれたんだね、愛しい人。

「おかえり、エマ」

 涙がまた一つ溢れて、アルフォンスの頬を伝って宝石を濡らす。

 アルフォンスは宝石を耳にあてたまま、嬉しそうに笑った。

 

 

「ありがとうございました、フラウ・エーデルシュタイン。貴女のおかげで、妻が帰ってきてくれた。なんとお礼を申し上げればよいか……」

 宝石の受け渡し後、リコリスからハンカチを借りて涙を拭いたアルフォンスは改めて頭を下げた。

「頭をお上げください、旦那様。私はあくまでご依頼を承っただけです」

「ですが、そのおかげで妻と再び会えたのです。本当にありがとう」

「……奥様はずっと旦那様の元へ帰りたいと仰っていました。……奥様がお帰りになられて、よかったです」

 この時、訪問してから今まで一切表情を変えなかったリコリスが初めて小さく微笑んだ。

 それは本当に些細な変化で、よく見なければ気付けないほどのものだったが、アルフォンスには蕾が綻ぶような笑みに見えた。

 きっと心の底から喜んでくれているのだろうと分かり、アルフォンスは嬉しくなった。

「フラウ・エーデルシュタイン……本当にありがとう、妻を帰してくれて」

「旦那様、どうぞ私のことはリコリスとお呼びください。そのように畏まられる立場の人間ではございません」

「では、お言葉に甘えてリコリスさんと。そうだ、ハンカチ。洗ってお返ししますから、お店の住所を教えて頂けませんか」

「申し訳ございません。私は方々を旅している身ですので店は構えておりません。ハンカチはお気になさらずに。よろしければ差し上げます」

「店を構えていらっしゃらないとは珍しいですね。では、これからまた何処かへ行かれるので?」

「はい。お客様に呼ばれる限りは」

「呼ばれる……?」

 リコリスの妙な言い方に首を傾げるアルフォンスだが、庭にやってきた一羽の鴉の鳴き声で疑問は宙に浮いて消えた。

「おや、カラスなんて珍しい……」

「申し訳ございません、旦那様。次のご依頼の地へ向かわなければなりませんので、お暇させていただいてもよろしいでしょうか?」

 そう言うと、リコリスは足元に置いていたアンティーク調のトランクを持って席を立った。

 急に立ち上がったリコリスに驚きながら、アルフォンスも慌てて席を立つ。

「では、玄関までお送りしますよ」

「お心遣い痛み入ります」

 二人は玄関を出て、屋敷の入り口の鉄扉で向かい合った。

「それでは、旦那様。宝石商リコリス・エーデルシュタインが承りましたご依頼は以上で完了となります。貴方に佳き宝石を。ご縁がありましたら、是非ご依頼ください」

「その時は、妻の宝石と一緒に私の魂も宝石にして墓に入れてくださいませんか? 妻もその方が喜んでくれるでしょう」

「かしこまりました。その時が来ましたら、またお伺いいたします。では、旦那様。ごきげんよう。紅茶、ありがとうございました」

 リコリスは言い終わると右手を頭上に上げ、指を鳴らした。

 パチンッ——

 その瞬間、強い風がごうっと吹き、近くの落ち葉や花弁を巻き込んでアルフォンスとリコリスの間を通り抜けていく。

 アルフォンスは咄嗟に顔を腕で覆った。

「っ……リコリスさん?」

 風が止み、顔から腕を離すと、そこには誰もいなかった。

 アルフォンスが辺りを見回ったが、リコリスの姿は何処にもなかった。

 まるで風にでも攫われたかのような去り方だ。

 夢か幻だったのかとも思ったが、客間のローテブルに置かれたままの深緑の宝石がリコリスの存在や先程までの時間を現実であると証明していた。

「不思議な人だったな……」

 まるで宝石が人の姿になったような美しい姿。蕾が綻ぶような柔らかな微笑み。

 会ってから一時間ほどしか話していない相手だが、何故かまた会いたいと思わせてくる不思議な宝石商。

「いつか、また会えるだろうか。ねえ、エマ」

 アルフォンスはもう一度、箱から宝石を取り出して耳にあてた。

 もう声は聞こえなかったが、あの一瞬の言葉が耳の奥で再生される。

「おかえり、エマ」

 耳から離し、大切に握りしめる。

 ふと、この宝石の名前は何だっただろうかと思い出す。

「ええと、確か……エメラルド、だったか」

 深い森を思わせる緑に、湖の底のような輝き。

「君は宝石になっても美しいね。エマ、俺も宝石になったら、どんな姿になるんだろう」

 いつかその時が来たら。そうリコリスと約束したが、きっとそう遠くない未来になるだろう。

 そこまで考えて、ふと、依頼の仕方を聞いてなかったことに気付いた。

 ——エマの時はどうしていたのだろう。

 一つの疑問が浮かんだが、なんとなく、リコリスなら約束を果たしてくれるだろうと思えた。

 アルフォンスはエメラルドになった妻を眺めながら、今度本屋に行って宝石の本を買おうと決めた。

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