第13話 神谷雄介の回想

 今日は運動会が終わってから初めての土曜日だ。大会が近いということで、真帆は朝から部活動に出かけている。俺はというと、居間のソファに寝転がって漫画本を読んでいた。うーん、なんて優雅な午前なんだ。


 両親はきっと今日も帰って来ないのだろう。父親は単身赴任だし、母親も海外に長期出張中だ。まだ中高生の子どもたちを置いてずっと仕事というのも変な気がするが、俺にとっては両親がいない方がよっぽど気が楽なのだ。


 思えばもう真帆と付き合って一年以上経ったのか。あの頃の真帆は泣いてばかりで、どうしたもんかと頭を悩ませていたなあ。そうだ、あの時も――こんな土曜の午前だった。


***


 中学三年生になって少し経った四月のある土曜日。朝起きた俺は、いつも通り朝食を作ろうと自室を出て階下へと下りて行った。居間に入ると、そこにはソファでうずくまる真帆の姿。


「おはよう。どうした、真帆?」

「……別に、なんでもない」

「なんでもないってことはないだろ、そんな風にして」


 この時の真帆はまだ一年生。中学に入学してからずっと元気がなかったので心配していたのだが、今日は特に落ち込んでいるようだ。


「なんか悩んでるのか?」

「別に、お兄ちゃんは心配しなくていいから」

「遠慮するなって。話してみな」

「……心配するなら、優しくしないで」


 真帆はぷいっとそっぽを向いてしまった。正直、コイツの悩みがさっぱり分からないのだ。最初は中学校という新しい環境に慣れないだけかと思っていたが、そんな単純な問題でもないらしい。


「友達と何かあったのか?」

「そうじゃないけど……。なんかね」

「なんかってなんだよ」

「その……さ、仲の良い子に彼氏が出来たんだよね」


 中一で彼氏ィ!? 今どきの子はませてるんだなあ。いや、俺も中学三年生だから今どきの子だけど。それより、周りの子に彼氏が出来たってだけでどうして真帆が悩むことになるんだ。


「それで?」

「少し考えたんだよね。……お兄ちゃんだって、いつかは彼女が出来るんだなあって」

「えっ、俺?」

「うん。そしたらさ、私とは離れ離れになるのかな」


 真帆は寂しそうな表情をしていた。コイツは昔から俺によく懐いていた。妹というのは成長していくにつれて兄を煙たがるようになるものだと思っていたが、不思議と真帆は変わらないままだった。そんなコイツにとって、俺と離れてしまうということの意味は大きい。……一度そうなりかけたのだから。


「なんだよ、俺に彼女が出来たら見捨てられるとでも思ってるのか?」

「だってお兄ちゃんは優しいもん。……彼女が出来たら、その人にずっと構ってあげちゃいそうだし」

「そ、そうか?」

「私のことは忘れちゃうんだろうなあ。……それって、すっごく悲しいなあって」

「そんなことしないよ」

「本当に?」

「ああ。本当だ」


 俺は真帆の手を取り、はっきりと目を見てそう言った。俺だって家族と離れ離れになるのは懲り懲りだ。ましてやこんなに慕ってくれる真帆のことを見捨てるなんて絶対にありえない。


 しかし、ここで俺はあることを考えた。真帆に彼氏ができるって可能性はないのか? 兄という目線で見てもコイツは可愛い。もともとは活発で明るいスポーツ少女なんだから、そのうち男が寄ってきても不思議ではないだろう。


「なあ、真帆」

「なあに?」

「お前には好きな人とかいないのか?」

「えっ?」

「いや、俺に彼女がどうこうって話をしてたもんだからさ」


 そう尋ねると、真帆はきょとんとしていた。そして俺の手を握り返してきて、まるで察しの悪さを咎めるように口を開いたのだ。


「私の好きな人は――お兄ちゃんだよ」

「はっ?」

から、私はお兄ちゃんのことが好きだった。……今まで、隠してきてごめんね」


 ちょっと待てちょっと待てちょっと待て。真帆が? 俺のことを? 好き? いやいやいやいやいやいやいや。


「ほ、本気か!?」

「嘘なんてつくわけないじゃん」

「俺たちは兄妹だぞ、俺は兄でお前は妹だ」

「関係ないよ。……本当に、心から好きなんだから」


 真帆はじっとこちらを見つめていた。あまりに予想外の出来事で、俺はどうしていいのか分からなくなってしまう。たしかに他の兄妹より仲が良いことは自覚していた。けど、まさか好きだと言われるとは到底思ってもいない。


「理由を聞いてもいいか」

「あの時、お兄ちゃんは私のことを救ってくれた。ただのお兄ちゃんじゃないんだってはっきりと感じた。……お兄ちゃん、ずっと一緒にいたい」

「すまん、ちょっと考えさせてくれ」


 俺は状況を整理するために一度自室へと戻った。ベッドに横たわり、今あったことを改めて確認してみる。まず、真帆は俺と離れ離れになるのが嫌だと言った。俺に彼女が出来て、見捨てられるのが嫌だと。そこまではまだいい。


 問題はその後だ。……アイツは俺のことが好きだと言った。兄としてではなく、男として好きだという意味だ。流石にこんなことはおかしいだろう。


 たしかに真帆は可愛い。こんな子を彼女にできる奴は幸せだなあと思ったこともある。誰よりも素直で、誰よりも純粋で。恋人としてなんて理想的な女の子だろうか。


 けど、駄目なものは駄目だ。兄妹で付き合うなんてことはあり得ない。アイツが何を考えているのかさっぱり分からないが、きっぱりと断るしかないだろうな。俺は真帆を振る決意を固め、改めて居間へと向かった。


「待たせたな」

「そんなに待ってないよ」

「そうか」


 真帆はソファに腰掛けていた。俺はその横に座り、呼吸を整える。としては、妹の真帆を悲しませるようなことは言いたくない。しかし世の中には仕方ないこともあるんだ。


「単刀直入に言う。……お前の告白は受けられない」

「……そっか」


 真帆はずっと下を向いたまま、静かに答えた。真帆はそのまま何も言わず、俺たちの間に沈黙が流れる。言葉をかけようにもかけられない。……兄としてどうしたものか。


「……ッ、ひっぐ……」


 しばらくして、隣から泣き声が聞こえてきた。さりげなく横を向いてみると、真帆は下を向いたまま大粒の涙を流している。


「ま、真帆?」

「お兄ちゃん、本当に駄目なの……?」

「だ……駄目なものは駄目だ」

「どうして? 実は彼女がいるの?」

「いや、いないけど」

「私のこと、嫌いなの?」

「そんなわけないだろ」

「じゃあ、なんで……?」


 付き合えない理由はただ一つ。兄妹だからだ。それ以上でもそれ以下でもない。しかし真帆は懇願するように俺にしがみつき、大きな声で泣いていた。やはり真帆が悲しむ姿を見るのは辛い。思わず、俺の目にも涙が浮かんでしまう。


「お願い、お願いだから……!」

「だめだよ、だめだって……!」

「ねえ、お兄ちゃん……!」


 押し問答しながら、二人してわーわーと泣いていた。これは何の涙だ? 別に真帆のことが女として好きなわけじゃない。付き合いたいなんて思ったことは一度もないはずなんだ。なのに涙が止まらないのは、いったいなぜなんだ?


 散々涙を流した挙句、俺たちの目は赤く腫れてしまった。もはや涙も出尽くした頃、真帆は改めて俺に対して口を開いた。


「……私はお兄ちゃんと離れたくない。何があっても」

「それは分かる。でも別にそれは兄妹って関係のままでいいじゃないか」

「違うの。家族としての繋がりなんて簡単に消えちゃう。……お兄ちゃんだって分かってるでしょ?」


 その台詞に、俺は思わずドキリとさせられてしまった。コイツはたとえ家族であっても永遠に一緒だとは限らないということを理解しているのだ。


「……お前は俺のことを恋人という関係で繋ぎ止めたいだけじゃないのか?」

「違うの、お兄ちゃんのことは好きなの。……ごめん、でもうまく説明できない」


 俺と離れたくないという感情と、俺のことが好きだという感情がごっちゃになっているようだ。まだ中学一年生だし、自分の気持ちを理解できないのも無理からぬこと。


「どっちにせよ付き合えないんだ。悪いな」

「……ばーか」

「え?」

「お兄ちゃんのばか! 彼女もいないのになんで付き合えないの!」

「ちょ、それは」


 真帆にしては珍しく、大きな声を出していた。どうしても俺との交際を諦めきれないらしい。


「真帆、兄妹は付き合えないんだ。分かってくれ」

「そんなこと誰が決めたの」

「それは……知らないけど」

「じゃあいいじゃん!」


 真帆はぷんぷんと頬を膨らませていた。……よく考えてみると、自分でも分からなくなってきた。どうしてここまで意固地になって真帆の告白を断っているんだろう? こんなに懇願する真帆の気持ちを退けてまで、いったい何が得られるっていうんだ? ……こんなに面倒なことを考えるくらいなら、付き合ってみたほうがマシかもしれない。


「……なあ、真帆」

「なあに」

「付き合ってみるか?」

「……いいの?」


 真帆の表情が一気に明るくなった。そのまま俺に寄り掛かるようにして、身体を傾ける。


「おいおい、急になんだよ」

「えへへー、お兄ちゃんの彼女」

「仕方のない奴だなあ」


 俺は真帆の頭を撫でてやった。まあ、中学生特有の気の迷いって可能性もあるからな。何週間かしたら案外飽きてくれるかもしれん。


「これからよろしくね、お兄ちゃん!」

「はいはい。もうすっかり元気だな」

「悩みが全部解決したんだもん!」

「そりゃよかったなあ」

「ね、お兄ちゃん」

「なんだ?」

「ん……」


 不意を突くようにして、真帆が頬にキスをしてきた。妹にキスをされるのは不思議な気分だが、不思議と悪い気はしなかった。それが「妹」だからなのか「真帆」だからなのかは分からないが。


「ほら、朝飯でも食うぞ」

「えー、お兄ちゃんもちゅーしてよ!」

「そのうちな」


 俺は適当に真帆をあしらいつつ、台所へと向かった。兄妹で付き合うってのがどんなに大変なのかは知らない。けどまあ、なんとかなるだろ。真帆の悲しい顔を見るよりは、俺が頑張る方がよっぽどマシってもんだ――


***


「お兄ちゃん、ただいまー」


 真帆の帰ってきた声で、ハッと目を覚ました。どうやらいつの間にか寝てしまっていたようで、気づけばお昼になっていた。部活帰りで腹も空かしているだろうし、昼飯でも作ってやらんとな。


「おかえり、真帆」


 居間に入ってくる真帆を出迎えつつ、俺は料理の準備を始めた。さあ、今日も真帆のために頑張らないとな――

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