第31話 海の見える町
その後、事務所に戻って、業務の続きをした。
帰ってきた私の顔はかなりやつれていたらしく、誰も話しかけてはこなかった。
ただ、遠くの席で作業している社員たちは。ここ数日のこともあって、私のことをヒソヒソと噂しているようだった。
だが、私はもう頭は恐怖や罪悪感で飽和状態となり、逆に淡々と作業を進めることができたと思う。この時はどんな憶測を立てられようが、それに対して何か思うことはなかった。
そんなことより、「山本 姫犬」に出会った。そして、彼は私の手紙が偽物であることに気づいている。このことが私を恐怖でいっぱいにした。
事態が、自分の想像する以上に危機的である。私が知らないうちに、「姫犬」は水面下でそこまで理解するに至っていたのだ。
私「くそ‥。」
私は、大崎市長と一緒に「妖怪衆」を目撃した時から、彼らを野蛮だと決めつけ、少し侮っていたのかもしれない。
いや、低俗な集団である「妖怪衆」の中でも、「山本 姫犬」は別格の知性を備えているのか。
いずれにしても、まさか「妖怪」のくせに、スマートフォンを持っているとは‥。誰がそんなことを想像できるだろう。
だから、星海のことをインターネット検索することもできたし、彼が「妖怪衆」を批判するような情報が無かったことで、私の手紙が偽の情報だと気づいたのだろう。
すでに星海を襲っていることから、それに気づくのは遅れたようだが‥。
そして、今度は彼らを欺いた私をターゲットにしているようにも見える。なぜかさっきは見逃されたが、次に会った時は何をされるか分かったものではない。
河川に少女を投げ捨てたように、私を酷い目に合わせようとしているのは容易に想像できる。最悪の場合、私が命を落とすことになるかもしれない。
そんなことを考えているうちに、どんどん時間は過ぎた。気がつけば、時刻は21時。社員が皆帰宅して、私と上司の二人だけになっていた。
ここでようやく、上司が話しかけてきた。
上司「お‥おう、帰ってきてから作業はずいぶん捗っているようだな。ところで、今にも倒れそうな顔しているが、大丈夫か?」
私は黙って頷く。
上司「‥さすがに帰るぞ。」
私「まだ‥、仕事は残っているじゃないですか。」
仕事から解放されれば、また余計なことを色々考えてしまう。そう思った私は眠くなるまで、ただこの仕事を続けていたかった。
上司「でも、仕事は明日に回そう。お前も疲れ切っているしな。」
私「俺は休みをもらってたんで、人一倍仕事して穴を埋めます。だから、後少しだけ残って作業してもいいですか。」
上司は困った顔をする。私は普段から仕事熱心な方ではないため、このようなことを言い出すとは思っていなかっただろう。
上司「お前らしくないな。‥さっさと帰ろう。」
その後も何度か説得されたが、頑なに私は席を離れようとしない。とうとう上司は折れて、先に帰宅してしまった。
上司「じゃあ、忘れずに電気を消して帰ってくれよ。それで、遅くても1時には出てくれ。この建物はその時間を過ぎると、侵入者を感知してブザーがなる仕組みになっているからな。」
私「‥わかりました。」
上司はそう言って事務所を出て行った。
そして、私は自分のデスクの真上にある照明だけを残し、全ての明かりを消した。薄暗い部屋に、ポツリと光に照らされた私の作業場が浮かび上がる。
しばらくは、キーボードを打つカタカタという音が静かな部屋に響いた。誰もいない場所での作業は新鮮で、どんどん書類を仕上げてゆく。私が休んでいた間に溜まった仕事も、あと数時間で片づきそうだ。
私「さて、あとは‥。」
私は、残りの作業量を確認しようと、デスクに置かれていた顧客リストをパラパラとめくった。これは、ディーラーから送られてくる、車を購入した人の一覧であり、名前や住所の記載がある。
あと、60件ぐらいか。
そう思っていると、一人の顧客の名前に目がとまった。
「瀧宮
瀧宮。その名前に私は反応してしまった。
私は瀧宮の下の名前を知らない。彼女はそれをSNSなどで明かしていないからだ。まさか彼女の本名か‥。そう思って、一緒に添付されている書類を見た。車庫証明の申請には、場合によっては住民票の提出が必要となる。確認すると、その「瀧宮 綾」という人物の住民票もしっかり差し込まれていた。
しかし、‥やっぱり別人だった。
記載された生年月日から計算すると、この人物の年齢は48歳である。
まぁ、それはそうだろう。彼女は今、「タイヤ公園」に住んでいる家出少女だ。だから、車を購入するなんて経済的に不可能だ。
それにしても、だいぶ年齢が離れている。「タイヤ公園」にいる瀧宮から見れば、この人は母親にあたるほどの年齢だ。
私「なんだよ‥。期待させやがって‥。」
私はコーヒーを注ぐため、真っ暗な廊下を歩いて給湯室へ向かう。その途中で、あることを思いつき、立ち止まった。
‥待てよ。母親。
まさか、この「瀧宮 綾」という人物は、瀧宮の母親にあたる人物ではないか。大体、瀧宮なんて名前は珍しい。私は長年この県で生きてきて、そんな名前の人物に遭遇したのは、「タイヤ公園」の瀧宮ただ一人である。
彼女の家族である可能性は、十分にあるはずだ。
私は急いで作業デスクへ戻り、住民票から彼女の住所を見た。
仮に、この人物が瀧宮の母であれば、この住所は、かつて瀧宮が住んでいた場所である。そう考えると、胸が熱くなってきた。
すぐに、ここへ行きたいという衝動に駆られる。
私は追い詰められて頭がおかしくなっていたこともあり、彼女の生まれた街へ行き、彼女の生い立ちを感じたいなどと思った。
私早速私は住民票の住所をスマートフォンの地図アプリに入力する。
顧客の個人情報を私的なものに利用するなど、絶対の悪だが、間接的に星海を殺した私は、もはやこの程度の悪行を何とも思わなくなっていた。
検索結果によれば、ここから結構近い場所で、10分もあれば到着しそうだ。
私は事務所を出ると、今度は車を、その「瀧宮が住んでいたかもしれない街」へ走らせた。
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