3‐3

 竹騒動があった昨日の今日で活気を取り戻しつつあるとうさいセントラリオンを離れ、一路西へ。


『オレはチームに合流する』と<ばんゆういんりょく>で北北西のほうに飛んでいってしまったかけはしくんとは異なり、わたしたちは南西の林を目指すことになった。


 通称、ようせいしたやみ


 わたしがじゅくの大書庫で読んだ本にはそう書いてあった。


 妖精って呼ばれてる、トンボみたいな羽を背中に生やしたこびとが暮らしてる林だとか。


 うそじゃないよ?


 ほんとに書いてたの。


 そんなことはともかく。


「~~♪ っ~~♪」


<びゃっ>を走らせるきしさんは鼻歌を歌っている。


 彼女の後ろで<びゃっ>にまたがるわたしと違って上機嫌だ。


「ぇぅ、ゆううつ……」


「うるみん弱気すぎー。<とう>の練習いっぱいしてたじゃん」


「したけどぉ」


 何回か課外授業を受けたことはある。


 だけど脱走犯の追跡をさせられるなんて初めてだ。


<とう>は誰かをつかまえるためのじゅもんじゃないし、わたしには正直向いてないと思う。


「……かけはしくんが先に解決してくれますように」


「練習の成果を試せるでしょ? ひよと一緒に楽しもうよ」


「そんなに楽しめることかなぁ」


「もっちろん。やっとじゅく使いらしいお仕事ができるんだもん。…………ずっと、待ってた」


 きしさんの声のトーンが落ち込んだ。


「ひよ、半年くらい前にウェスティオンからセントラリオンに越してきて、セントラリオンこっちじゅくじゅくに入塾できたの」


「うぇすてぃおん?」


がんじょうウェスティオン。セントラリオンを西のほうに行ったところにある城下町だよ」


「西っていうと……このあたりから見える?」


「見えない見えない。山の上にあって、しかも霧に隠れてるんだもん」


「そっか」


 きしさんも今は故郷を離れて暮らしてるんだ。


「――む、止まれ!」


<食火鶏ひくいどり>で先頭を走っていた法務官の男性がいきなり大声を上げた。


 足並みをそろえるように<びゃっ>はずざっと足を止めた。


 わたしたちの目の前に広がっているのは、青緑色の葉っぱがどこまでも茂る木々の領域。


 ようせいしたやみだ。


「見ろ」


 法務官の男性が木々の間を指し示す。


 そこには場違いな雰囲気の竹が何本も転がっていた。


 どれも折れてるのはなんでだろう?


 折れ口のところも変に腐ってるみたいだし。


「いいかきみたち、ここようせいしたやみには本来、竹など生えていないのだ」


「当たりってこと?」


 そう答えたきしさんに法務官の男性はうなずいた。


「痕跡を残すとは間抜けなやつめ。両名、ここから先はくれぐれも竹を見逃さんように」


「は、はぃ」


「りょーかーい」


「では行くぞ」


 法務官の男性は<食火鶏ひくいどり>の手綱をぴしゃりとしならせた。


 いざ木々の奥に足を踏み入れると、そこは通称を裏切らない薄暗さだった。


 日差しはまばらで人気がない。


 妖精らしきものは何度か見かけたけど、遠くで揺れてるあれがそうかな? と思ったとたんに隠れられておしまい。


 折れた竹をたどるうちに林全体がざわざわ鳴ったり、いてもおかしくないような生き物の影すら見当たらなかったりと、わたしは寒気がする思いだった。


 しばらく木々を縫うように進んで、わたしがごくりとつばを飲もうとしたときだ。


 野生の生き物なんかじゃない。


 れっきとした人の叫び声がようせいしたやみに響いた。


 なにかを激しく打ったような遠鳴りを交えて。


「ひぃ」


「ねえねえうるみん、今の声!」


「ぅ、うん……だよね」


 さっきの叫びは不良男子の感じがした。


 記憶は確かだ。


「急ぐぞ」


 苔むした地面を見ると、折れた竹が点々とまっすぐ続いている。


 わたしたちはそれに沿って二頭の乗り物を走らせていった。


 数十秒の道のりの末にたどり着いたのは、円形にやや開けた明るい場所。


 追跡してた相手は確かにいた。


「ふたり?」


 ただし、うつ伏せに頭を踏みつけられた状態で。


 コートみたいな学ランの上着を羽織ったあの人物は誰?


 不良男子を取り押さえているようにも見えるし、法務官さんが言ってたほかの追跡部隊のメンバーだったりするのかな。


「何者だ!?」


 法務官の男性が強く問いかける。


 どうやらあの人、追跡部隊とは無関係らしい。


 謎の人物はなにも言わずにきっとにらむ形で法務官の男性に応じた。


 わたしもきしさんも緊張している。


 追跡部隊じゃないとわかった以上、あんな毒々しい相手を警戒しないなんて無理な話だ。


 黒ずんだ短い赤髪に、赤紫色にメイクした涙袋。


 さらにはむちみたいに垂れ下がった苔色の剣を右手に握っている。


 さすがの不良男子だって武器は持っていなかった。


 この点がいやに現実的で、わたしは余計に恐ろしいと感じさせられていた。


「……なにあれ……」


 あのむちっぽい剣。


 空気に混ざったとたんに消えちゃって気づきにくいけど、先っぽの細かい穴からうっすら赤い煙がもれてる。


 いったいなんだろう?


「ぶ……串刺公ブラドの旦那ぁ」


 不良男子がしぼり出すように呼び声を上げる。


串刺公ブラドだろがよ。あん?」


 対して毒々しい人は不良男子の頭をさらに踏みつけた。


 見た目に反して聞きやすいアルトな声域だけど、口調はぴったり見た目どおりだ。


「何度やらかすよ? やけに手際が悪いわヘマするわ、育てがいがねえ男よ」


「がぁ……ぅぁ……!?」


「『天使さんに負けたわけじゃねえんです』で誰が納得するかよ。チーム・終末日ウィークエンドの面汚しがよ」


 容赦なく、何度も何度も。


 あまりに踏みつけられたせいか、とうとう不良男子はぐったりとおとなしくなってしまった。


 きしさんの背中がふるえてる。


 恐怖よりも怒りのせいだろう。


「やめなよ!」ときしさんは強く訴えた。


「まったくだ」


 法務官の男性も口をそろえるように続けた。


「聞け。私はセントラリオンの法務官庁よりささがき百獣王ライオの処罰を一任されている。きさまが足蹴にしている少年のことだ」


「あん? 法務官庁?」


「おとなしくささがき百獣王ライオを引き渡せ。そうすれば部外者であるきさまの私情は問わず、振る舞いにも目をつむることを約束しよう」


 わたしの良心には引っかかる言い方だった。


 でもわたしたちはあの不良男子をつかまえるためにここにいる。


 死なせたいわけじゃない。


 きっと法務官さんはルール的な正しさより、彼の命を最優先にしたんだと思う。


「部外者じゃねえよ」


 毒々しい人にはまるで通じてなかったけど。


「ハッ、というかなんだよ百獣王ライオ? おまえセントラリオンから追っ手まで差し向けられてんのかよ」


「返答を求める! 譲歩は一切望めないものと心得よ!」


「やらかした百獣王ライオをどうこうすんのはチーム・終末日ウィークエンドよ。誰がセントラリオンの腐れ官吏にくれてやるかよ」


「やむをえんな。きさまともども連行しよう」


「……どいつもこいつも、このオレをやけにさせやがってよ」


「私が先陣を切る。天使ときしよりはめいめいじゅもんで援護せよ」


 法務官さん、急になに言って――。


「ハイヤーっ!!」


「ぇぇぇ!?」


 法務官の男性は手綱を打って<食火鶏ひくいどり>を毒々しい人めがけて突進させた。


 わたしたちの課外授業、追跡の協力って話じゃなかった!?


 いきなり援護しろって言われてもぉ……!


「ゴーゴー!」


 きしさんはすっかりノリノリだし!


「もぅゃだぁ……」


「ひよたちも行っくよー!」


「待てヒヨリ」


「や!」


「落ち着け。なにか妙だ……」


<びゃっ>がくんくん鼻を利かせだした。


 一方、法務官の男性を乗せた<食火鶏ひくいどり>は「コケー!」と毒々しい人に激しい体当たりを食らわせた。


 毒々しい人はむちみたいに垂れ下がった苔色の剣で防ごうとしていたようだけど、体格は<食火鶏ひくいどり>のほうがふた回りも大きい。


 攻防の結果もそれくらい明らかだった。


 毒々しい人は思いきり宙に跳ね上げられ、きりもみ状態で背中から地面に落下した。


「いいぞ<食火鶏ひくいどり>よ! 次は飛びかかれ!」


 しかし<食火鶏ひくいどり>が活きのいい鳴き声で応じることはなかった。


 それどころの騒ぎじゃない。


 よろよろ千鳥足になったかと思えば、今度は支えになる骨を失ったかのようにどさっと横倒しになった。


 そんな<食火鶏ひくいどり>に乗っていた法務官の男性は当然、落馬――じゃなくてらくちょう


 流れるように地面へと投げ出されてしまう。


「ゎ……ひぇ!?」


 わたしの全身がすくみ上がる。


 目に映ってしまったからだ。


 横倒しになった<食火鶏ひくいどり>がくちばしから泡を吹いているのを。


 異常なほどむせるあまり立つこともできずにのたうつ法務官の男性を。


 わたしにはもう、びくびくと苦痛にゆがんだふたつの顔を直視できそうにない。


「ぇぅぇぅぇぅぇぅぇぅ」


「匂いの正体は毒か!?」


 とっさに<びゃっ>が叫んだ。


 なおかつ誰に指示されることなく体ひとつ分ほど後ろに飛び退いた。


「どこからだ……!?」


「毒っていじめっ子の人が出してるの?」


「知るか!」


「…………も、もしかして」


 わたしは直感に任せて言った。


「さっきから低いところで漂ってる赤い煙かも」


「なに!?」


「ぇ、えっと、串刺公ブラドって人が握ってる剣みたいなのから出てるよ。薄くてすぐ消えちゃうけど」


「オレの目ではよく見えん……が、ありうるぞ」


「ちょっとびーこっ」


 きしさんが<びゃっ>の耳もとへと前かがみに言った。


「そんなじゅもんありえないでしょ。<どっ>と<長剣>のじゅもんで毒と剣を別々に出すのはできるけど、なんて無理無理」


じゅくではな」


「……あーっ!? ぞう!」


ぞうはいわばかけ算。魔熟字たしざんに勝るのは容易だ」


 かけはしくんの<ばんゆういんりょく>だってあんなにすごいのに、ぞうはそれ以上ってこと?


 不良男子が使ってたぞうは<バンブーダン>だっけ。


 あの竹を生やすじゅもんにはそんな印象受けなかったのに。


「危険と引き換えだがな」


「あのいじめっ子の人が塾生だったらひよ、許さないんだから!」


「ヒヨリ、一旦退くぞ」


「や! ほむおじが置いてきぼりじゃん!」


「オレたちだけでは助けられん」


「でもっ!!」


「見ろ。<食火鶏ひくいどり>があるべき場所へ帰っていく」


 赤い毒煙のせいだろう。


<食火鶏ひくいどり>の体がどんどん腐れていき、ついにはタンポポの綿毛のような光の粒となって薄暗い木々の奥へと流れていった。


 死んじゃった……ってこと?


「のたうつあの男も毒が回れば腐りきる。どう助ける気だ? ヒヨリ」


「考えてるとこ!」


「魂が地獄へ落ちる前に<ふっかつ>のじゅもんをかける。あの男が確実に助かる現状唯一の方法だ」


「…………<ふっかつ>なんて、ひよ使えない」


「使い手を連れてくるぞ。いいな?」


「ふぅ……ん……」


「聞いているのかヒヨリ」


きしさん大丈夫?」


「……なんか、体が、あっつい……」


「っ、きしさん!?」


 驚くことに、いきなりきしさんが<びゃっ>の背中からずり落ちそうになった。


 わたしはあわてて彼女に覆いかぶさる。


 自力で体勢を直そうとする力が感じられない。


 半そでのジャージ越しに伝わる鼓動だけが懸命に動いていた。


「クソ、毒煙を吸ったか!」


<びゃっ>の声に焦りの色が表れた。


「小柄な分、ヒヨリはやつらより毒の回りが速い。セントラリオンまでもつか怪しいぞ」


きしさん……ぁゎゎ」


<食火鶏ひくいどり>は事切れて。


 法務官の男性はもだえ苦しんでる。


 地面に倒れてる不良男子の安否だって疑わしい。


 そして追い打ちをかけるかのようなきしさんの急変だ。


 わたしにはとても耐えられない状況としか言いようが――――。


 わたし、なんともない?


 きしさんが毒煙にやられてるんだから、すぐ後ろにいるわたしだって危ないはずなのに。


「…………これって」


 こんな土壇場でわたしはふたつ、ひらめいた。


『どうせ失敗するじゃん』


 心のわたしが投げやりにささやく。


 そうかもしれない。


『なんでかかわっちゃってるんだろう』


 それもそうだ。


 わたしが引き起こしたことじゃないし、全部見なかったことにすれば負い目だって生まれない。


 ――それでも。


 わたしは自然と<びゃっ>から降りていた。


 あの横道できしさんを放っておけなかったときと同じだ。


 わたしって、ほんとにじゅくじゅくしてて煮えきらないみたい。


『こんな世界から消えてしまえたらいいのに』とか思ってたくせに。


 自分の目の前で誰かが消えてしまうのは違うって、そう思わずにいられないんだよ。


「う、うるみん……? 落ちちゃった、の?」


「わたし、なんとかできるかも」


 わたしはできるだけ落ち着いて<びゃっ>に尋ねた。


「<びゃっ>はどう? 苦しくなってたりしない?」


「多少の影響を感じる。どうこらえても五分が限界だ」


「わたしは平気だよ」


「なんだと?」


「きっと<とう>が毒そのものをすり抜けさせてるんだと思う」


「ウルミが<とう>を唱えていた覚えはないぞ?」


「勝手に効果が出てる、とか」


「バカな! まるで暴走したぞうだ」


「<とう>のじゅもん、まだ完全にはコントロールできてないから……」


「現にウルミが無事だからこその可能性、か」


<びゃっ>は険しい顔つきで正面を見すえる。


「これも可能性だが、毒煙のじゅもんを解かせればみな毒が抜ける」


「や、やってみる」


 じゅく<とう>のじゅもんが維持されるだけの魔力があるうちは、毒煙が濃いところ――円形にやや開けた明るい場所にいてもきっと大丈夫。


 今はわたしにしか踏み込めないんだ。


 ゆっくり起き上がろうとしてる毒々しい人のところまでは。


「お願い<びゃっ>、かけはしくんにこの状況を伝えて」


「カケハシリンゴだな。なぜあの男に?」


「わたしの<とう>で――」


 ううん、かけはしくんが相手ならこう伝えたほうがいいかも。



「作戦ありきか」


「それにかけはしくんのほうがセントラリオンよりずっと近いし」


 きしさんの毒の回りを思えば、セントラリオンのどこにいるかも不確かな<ふっかつ>のじゅもんの使い手を連れてくるよりは望みがある。


 わたしが失敗したときの保険をかねた作戦だ。


「この<びゃっ>、全力をつくす」


「ありがと。きしさんも頑張ってね」


「や……」


 きしさんはぐったりしたままぽつぽつ言った。


「ひよは、ひよ……きしさんじゃ、ない、もん……」


 毒のせいで熱に浮かされてる?


 それにしても痛ましい。


 いつもの元気はつらつなきしさんが帰ってきますように。


「……うん、よりちゃん」


 わたしは励ましの気持ちを込めてそう答えた。


 よりちゃんを乗せた<びゃっ>が来た道を跳んでいく。


 ゆっくり見送ることはできない。


じゅく……<とう>」


 わたしは<とう>を唱えると、赤い毒煙が漂う円形にやや開けた明るい場所へと一歩一歩、慎重に進んだ。


「オレは好きだがよ、やけっぱちの無鉄砲」


 その先には、手にした武器を日差しにかざす毒々しい人の立ち姿があった。


 むちみたいに垂れ下がった苔色の剣は今なお、先っぽの細かい穴から赤い毒煙をもらしている。


ぞう<ランケンシュイン>は手加減しねえよ? ハッ、とんだ腐れじゅもんってわけよ」


「ど、どど……」


「あん?」


「どうして、こんなことするんですかっ」


 わたしは少し目を伏せる。


 わたしの両わきには身動きひとつしてない不良男子と法務官の男性が倒れている。


 よりちゃんだけじゃない。


 彼らを助けるためにも、わたしはなけなしの勇気を振りしぼって顔を上げた。


「人を傷つけるのは悪いこと、だし……」


「居場所を追われちまったら戦うしかねえだろうがよ」


 毒々しい人はつらぬくようなまなざしをわたしに向けた。


 涙袋のメイクも相まってプレッシャーが半端じゃない。


「文句あっかよ?」


「ぁ、あなたが使ってる、その、ぞうじゅもん! かいじゅして! ……みんなの命がかかってるから……」


「止めてほしけりゃ力ずくでこいよ、女」


「ひぅ」


「<ランケンシュイン>の腐れ毒に耐えられるもんなら……よおっ!!」


 毒々しい人は横向きに構えた武器をすぐさま一文字に振り抜いた。


『みたい』じゃなくて完全にむちの動きだった。


 毒々しい人の武器はたちまち伸びて、思わず後ずさりしてしまったわたしを逃がさないとばかりに襲いかかる。


 一瞬の出来事だったけど、わたしには<とう>がかかってる。


 だから赤い毒煙をもらす剣先はわたしを傷つけることなくすり抜けていった。


百獣王ライオが言ってたのはこれかよ」


 毒々しい人はその場でくるんと回り、勢いそのままに縮んでいく武器を器用に戻した。


 感覚的にはまだ平気。


<とう>の効果を維持できてるからあの人にやられたりはしない。


 わかってる。


 このままじゃ手遅れになるって。


 わたしが見えないタイムリミットを気にしていると、みしみしと大きな音が聞こえてきた。


 直後、円形にやや開けた明るい場所に影が差す。


 木だ。


 わたしと毒々しい人の中間あたりに一本の大木が倒れようとしていた。


 明らかに根元が腐ってる。


 赤い毒煙の影響があんなところにも……。


「っ、これなら」


 毒々しい人に距離を取られるようなら、わたしが立てた作戦はうまくいかない。


 求められるのは反応しきれないところまで一気に近づくこと。


「チャンスは……今!!」


 大木がずしんと倒れた。


 舞い上がった苔の破片と青緑色の葉っぱが視界を埋めつくす。


 それらすべてを無我夢中ですり抜けて。


 わたしは、毒々しい人に手が届くところまで走りきった。


「真正面から不意打ちかよ!」


「上等よ!」と毒々しい人は迎え撃つ気満々だ。


 ここで攻撃のために<とう>を解くのは相手の思うつぼだと思う。


 もちろん、暴力に頼るつもりはなかった。


 わたしは毒々しい人が盾のように構えた左腕をつかもうとした。


 このままだとわたしの手は<とう>の効果ですり抜ける。


 でも、わたしははっきり経験している。


 じゅく<とう>のじゅもんは、ふれようとした対象もすり抜ける状態にできるということを。


 全身がすり抜ける状態なら重力の方向にひたすら落ちていくことを。


 かい


「うぉ――おわあああぁっ!?」


 わたしに左腕をつかまれた結果、毒々しい人が地中へと真っ逆さまに落ちていく。


 ついさっきまでの態度がうそみたいな叫び声だった。


「びぃゃぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」


「おまえもビビってんのかよ!?」


 わかっててもだめ!


 こんなの怖いに決まってるじゃん!


「暗くてなにも見えやしねえ……!? 女ぁ! なにしたってんだよ!?」


 いっけない!


 怖がってる場合じゃなかった!


<とう>がかかってるなら水中で息できることは確かめたんだ。


 地中だって大丈夫。


 がいうるみ、落ち着いて深呼吸……!


「……ぁ、あなたの! じゅもん! かいじゅしてっ!」


「ああん!?」


「じゃないとどんどんすり抜けて……落ちてっちゃうんだからっ!」


「ざっけんなよ!! かいの下は地獄だろがよ!! 肉も魂も無事なまんまで地獄に落ちちまうなんざ聞いたことねえよ!! オレ死ぬのかよ?? 死んじまうのかよおっ!?」


「いやならかいじゅしてよぉ!?」


「っくしょおおぉ……!!」


 ふつうのやり方で成立しなかったからこその捨て身の駆け引き。


「…………っ、かいじゅかいじゅ!」


 うまくいってよかったぁ。


 わたしの魔力がなくなるまで意地を張られてたらって思うと、ぞっとする。


「おい! かいじゅしてやっただろがよ! なんで落ちっぱなしなんだよ!?」


「だ、だってぇ」


 さて、わたしはここで白状しないといけない。


 捨て身の駆け引きでちょっとだけズルしてたことを。


「……ここでかいじゅしたら、ぃ、生き埋めにぃ……」


「ああん!? 話が違えだろがよ!?」


「そっちがその、勝手に勘違いしただけ、だし?」


「こんのやろっ!」


「いた、痛い!? 蹴ってるの!?」


「こっちは腕つかまれてんだよ! 見えなくたっておまえがそこにいることぐらいわかんだよ! この!」


「むぎゅぅ」


 ひとしきり八つ当たりして気がすんだのだろうか。


 毒々しい人が急に動きをやめた。


「…………このままオレ、地獄行きかよ」


「なんとかなるよ! た、多分」


「あん……?」


「わたし、信じてみたの。二年前のときみたいに助けてくれるって」


「なんのこったよ?」


 わからなくて当然だよ。


 あれは正真正銘、わたしと彼だけの思い出だから。


「こんなわたしなんかに味方してくれる人がいるってこと」


 助けを信じた。


 待つしかなかった。


 落ち続けた。


 何分経ったか、わからないぐらい。


 ――気づいたときには、わたしの体がふわりと浮いていた。


「おわっ!? ……すっげ、止まった……??」


「そ、それより」


 あくまで浮いてるのはわたしだけ。


 ふたつの対象を引き合わせるのがじゅく<ばんゆういんりょく>のじゅもんだから。


「わたしの手、っ、つかんでてくれると助かるん、だけど……」


 毒々しい人は今、わたしの頼りない筋肉で宙ぶらりんになってるにすぎない。


 要するに。


 わたしの腕がつってしまうのは時間の問題だった。


「もぅ無理ぃ! 早くちゅかんでよぉぉぉぉぉぉ……!?」

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