2‐1

「…………こんな世界から消えて……」


 わたしは寝ぼけまなこでそう言いかけ、小さくため息をついた。


 だいたい二年。


『消えてしまえたらいいのに』と思ってた世界から、がいうるみが消えたままになってる年月だ。


 はい、わたしのことです。


 しかも現在進行形で最長記録を更新中。


 かいに落ちて以来ずっとかけはしくんちのお世話になりっぱなし、です……。


 パパの書斎で黒い装丁の本を開いたあの日。


 あれからわたしのかい暮らし、そして塾通いが始まった。


 反対に、わたしが元いた世界のことはまったくわからなくなってしまった。


 わたしが突然いなくなってニュースになったのかどうか、とか。


 パパとママがわたしを探してくれてるのかどうか、とか。


 わたしの進路がいくつ残ってるのか、とか。


 だってあれから二年だよ?


 ほんとならわたしもう中学三年生で、来年は高校生なんだから。


 ……ちょっと、このことは考えないでおこうかな。


 中学校あっちの勉強はやりようがないし、受験対策のほうなんて絶望的だし。


 そうだ、気がめいることは魔界こっちにもあったんだ。


 じゅくじゅくちゅうおうとうほんの塾長さん。


 あの大柄でまさに魔女みたいなおばあさんにじゅくじゅくちゅうおうとうほんへの塾通いをさせられることになっちゃって、わたしはしぶしぶじゅもんを学んでいった。


 それがほんとに大変なの!


 というかいきなり魔力はどうこう、じゅもんにはこうこう、なんて言われて理解できるわけないじゃん!


 日本の義務教育に魔力なんてないし!


 お風呂のお湯みたいに熱いとかぬるいとか、はっきり感じられればよかったのに。


 それならじゅくのほうの勉強ぐらいにはついていけてたかも。


 でも塾通い自体はそんなにつらくなかったりする。


 講師のほとんど、それと塾生のみんながわたしを特別扱いするから。


 天国から来た天使――それがわたしなんだって。


 かけはしくんも最初に会ったときに言ってたっけ。


 生まれも育ちも日本なのに、どうしてかいの人はわたしを天使ってことにしたがるんだったかな?


 じゅくの大書庫にある本で読んだはずだけど……ま、いっか。


 かいでの現実がわたしにとって非現実的なことばっかりで、最近はもうそういう違いを気にしなくなってきちゃった。


 違わないことも案外多いし。


 変な自信。




「おばさん、おはよ」


 わたしは階段の踊り場から見えたお団子ヘアの後ろ姿にあいさつする。


 細い丸太と温かみがある色を積んだレンガの壁を調和させた一階にある、木目が際立つ一本足のテーブルを拭いていたのだろう。


 振り向いたおばさんの手には、四つに折ったが握られていた。


 をかけたすらっとしてるあの人がかけはしくんのお母さん。


 彼女が進んできれいにしてくれた屋根裏部屋を使わせてもらってるからこそ、わたしは日々、安心して寝起きができている。


 印象はなんだか大人っぽくないけど、とっても世話好きで気配り上手な人だ。


 たとえるなら寮母さんかな?


「おはよううるみちゃん。昨日はいつもより夜更かししてたの?」


「ううん」


だからぐっすりしすぎちゃった?」


「春じゃなくてもよく眠るほうだよ」


「じゃあ成長期なのね」


 かけはしくんのお母さんは桃色のほおをゆるめて言った。


「最近のうるみちゃんたらますますお姉さんになってなぁい? 二年前にうちに来たときより背はくらい伸びたし、大人の魅力が出てきた気もするわ」


「ふひ……っじゃなくて」


 わたしはパジャマのそでをまくりながら一階へと下りる。


「おばさん、顔洗ったら朝ごはん食べるね」


「はぁい」


「――じゅく<とう>」


 おばさんとのやりとりのように、これもいつものこと。


 まずは洗面所のドアまで進み、<とう>の効果で自分の体の上半身を洗面所へとすり抜けさせる。


 上半身がすり抜けたら次は下半身。


<とう>をコントロールして、いったんすり抜けないようにした両手をにかけ、左足から<とう>でドアをすり抜ける。


 そのあとはまた<とう>をコントロール。


 両手と同じくすり抜けないようにした左足を床板へと置く。


 この流れで右足も洗面所まで持っていけたら、長く使われてそうな木の踏み台でつま先立ちになって、<とう>させた右手で洗面所上の棚を開けずに中からタオルを取り出す――。


 それで朝の練習は終わり。


 わたしはこんな具合に二年間、じゅく<とう>のじゅもんを取り入れたかい暮らしを続けている。


 元いた世界に帰るため……でいいのかな。


 そんなことよりおなか減った。


 生きてるんだから仕方ない。


かいじゅ。……成長期だからってそんなに変わる……?」


 わたしは鏡に映った自分の顔をまじまじ眺めたあと、使もひねった。




 さて、ここまでに見聞きしてきた物や言葉。


 わたしが元いた世界にあるそれらがいったい、どうしてかいにもあるんでしょう?


 答えは『かいは天国の鏡映しとなる定めだから』なんだって。


 まず、かいには特別なじゅもんがかかってる。


 それが天国からいろんな情報を降り注がせて、かい全体に伝わってる。


 その情報は誰でもキャッチできるわけじゃない。


 特別な人たちだけだ。


 具体的に誰なのかはわからない。


 だって本に書いてなかったし。


 その本によると、そういう特別な人たちがそうじゃない人にもわかる形に変えた上で、いろんな情報を発信してるとのこと。


 わたしにはピンとこなかったけど、こなくてもいいと思ってる。


 こうして食べ慣れたトーストをかじったり、トマトサラダにフォークを刺せるから。


 とにかくホームシックが避けられることのほうが大事だよ。


 あと日本語がふつうに通じるところも?


トーストほーふほま」


「うるみちゃんはどっちがいぃい?」


 おばさんがキッチンのほうから話しかけてきた。


「ミルクに入れるココアとハチミツ」


ココアほほあ


 わたしはおばさんからの返事を聞きつつ、ふんわりとしたサクサクを一枚、平らげる。


 それから酸味ひかえめなドレッシングが底にたまった木のボウルへと改めて手を伸ばそうとしたところで、おばさんが湯気を立たせているマグカップ片手にキッチンからやってきた。


「はぁい、お待ちどおさま」


「ありがとおばさん」


 わたしはテーブルに差し出されたココアにさっそく口をつけた。


 うん、甘い香りがして今日もまろやかおいしい。


 ココアの主な原材料はカカオで、わたしが元いた世界だと原産地は確か……南アメリカ、だったはず。


 カカオの木、かいのどこに生えてるんだろう。


 南部?


 それとも東部?


 じゅくの大書庫で調べてみよっと。


「ね、うるみちゃん」


 おばさんがテーブルに着いた。


 わたしとぴったり向かい合う位置だ。


「さっきの質問、実はもうひとつあるの」


「どっちがいいかって聞いてたあれのことね」


「……聞いてもいぃい?」


「うん」


 あ、トマトサラダが残ってるの忘れるところだった。


かいと天国、うるみちゃんはどっちが好き?」


 そう尋ねてきたおばさんの表情は複雑だった。


 どこか申しわけなさそうで。


 期待しているかのようで。


「ん~」


 わたしは悩むようなそぶりで朝食を食べ終えてから答えた。


「……どっちとも言えない感じ」


 質問に出てきた天国はわたしがイメージできる天国とは違う。


 だからちゃんと答える気になれなかった。


「でもこのおうちは居心地いいよ。おばさんがいるから」


 わたしがそう言うと、おばさんの顔がぱっと明るくなった。


「やぁん、嬉しいわ」と両手をほおに当てちゃって、まるで恋する乙女だ。


「うるみちゃんさえよければずっとお世話してあげてもいいんだからぁ」


「ごちそうさま」


「おばさんりんちゃんだって大好きだけど娘もいたら毎日がもぉっと楽しくなるかなぁなんて思っててぇ」


「……上で着替えてくるね」

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