2‐1
「…………こんな世界から消えて……」
わたしは寝ぼけまなこでそう言いかけ、小さくため息をついた。
だいたい二年。
『消えてしまえたらいいのに』と思ってた世界から、
はい、わたしのことです。
しかも現在進行形で最長記録を更新中。
パパの書斎で黒い装丁の本を開いたあの日。
あれからわたしの
反対に、わたしが元いた世界のことはまったくわからなくなってしまった。
わたしが突然いなくなってニュースになったのかどうか、とか。
パパとママがわたしを探してくれてるのかどうか、とか。
わたしの進路がいくつ残ってるのか、とか。
だってあれから二年だよ?
ほんとならわたしもう中学三年生で、来年は高校生なんだから。
……ちょっと、このことは考えないでおこうかな。
そうだ、気がめいることは
あの大柄でまさに魔女みたいなおばあさんに
それがほんとに大変なの!
というかいきなり魔力はどうこう、
日本の義務教育に魔力なんてないし!
お風呂のお湯みたいに熱いとかぬるいとか、はっきり感じられればよかったのに。
それなら
でも塾通い自体はそんなにつらくなかったりする。
講師のほとんど、それと塾生のみんながわたしを特別扱いするから。
天国から来た天使――それがわたしなんだって。
生まれも育ちも日本なのに、どうして
違わないことも案外多いし。
変な自信。
「おばさん、おはよ」
わたしは階段の踊り場から見えたお団子ヘアの後ろ姿にあいさつする。
細い丸太と温かみがある色を積んだレンガの壁を調和させた一階にある、木目が際立つ一本足のテーブルを拭いていたのだろう。
振り向いたおばさんの手には、四つに折ったタオル地のふきんが握られていた。
丸めがねをかけたすらっとしてるあの人が
彼女が進んできれいにしてくれた屋根裏部屋を使わせてもらってるからこそ、わたしは日々、安心して寝起きができている。
印象はなんだか大人っぽくないけど、とっても世話好きで気配り上手な人だ。
たとえるなら寮母さんかな?
「おはよううるみちゃん。昨日はいつもより夜更かししてたの?」
「ううん」
「春だからぐっすりしすぎちゃった?」
「春じゃなくてもよく眠るほうだよ」
「じゃあ成長期なのね」
「最近のうるみちゃんたらますますお姉さんになってなぁい? 二年前にうちに来たときより背は五センチくらい伸びたし、大人の魅力が出てきた気もするわ」
「ふひ……っじゃなくて」
わたしはパジャマのそでをまくりながら一階へと下りる。
「おばさん、顔洗ったら朝ごはん食べるね」
「はぁい」
「――
おばさんとのやりとりのように、これもいつものこと。
まずは洗面所のドアまで進み、<
上半身がすり抜けたら次は下半身。
<
そのあとはまた<
両手と同じくすり抜けないようにした左足を床板へと置く。
この流れで右足も洗面所まで持っていけたら、長く使われてそうな木の踏み台でつま先立ちになって、<
それで朝の練習は終わり。
わたしはこんな具合に二年間、
元いた世界に帰るため……でいいのかな。
そんなことよりおなか減った。
生きてるんだから仕方ない。
「
わたしは鏡に映った自分の顔をまじまじ眺めたあと、小さい頃から使ってたタイプの蛇口もひねった。
さて、ここまでに見聞きしてきた物や言葉。
わたしが元いた世界にあるそれらがいったい、どうして
答えは『
まず、
それが天国からいろんな情報を降り注がせて、
その情報は誰でもキャッチできるわけじゃない。
特別な人たちだけだ。
具体的に誰なのかはわからない。
だって本に書いてなかったし。
その本によると、そういう特別な人たちがそうじゃない人にもわかる形に変えた上で、いろんな情報を発信してるとのこと。
わたしにはピンとこなかったけど、こなくてもいいと思ってる。
こうして食べ慣れたトーストをかじったり、トマトサラダにフォークを刺せるから。
とにかくホームシックが避けられることのほうが大事だよ。
あと日本語がふつうに通じるところも?
「
「うるみちゃんはどっちがいぃい?」
おばさんがキッチンのほうから話しかけてきた。
「ミルクに入れるココアとハチミツ」
「
わたしはおばさんからの返事を聞きつつ、ふんわりとしたサクサクを一枚、平らげる。
それから酸味ひかえめなドレッシングが底にたまった木のボウルへと改めて手を伸ばそうとしたところで、おばさんが湯気を立たせているマグカップ片手にキッチンからやってきた。
「はぁい、お待ちどおさま」
「ありがとおばさん」
わたしはテーブルに差し出されたココアにさっそく口をつけた。
うん、甘い香りがして今日もまろやかおいしい。
ココアの主な原材料はカカオで、わたしが元いた世界だと原産地は確か……南アメリカ、だったはず。
カカオの木、
南部?
それとも東部?
「ね、うるみちゃん」
おばさんがテーブルに着いた。
わたしとぴったり向かい合う位置だ。
「さっきの質問、実はもうひとつあるの」
「どっちがいいかって聞いてたあれのことね」
「……聞いてもいぃい?」
「うん」
あ、トマトサラダが残ってるの忘れるところだった。
「
そう尋ねてきたおばさんの表情は複雑だった。
どこか申しわけなさそうで。
期待しているかのようで。
「ん~」
わたしは悩むようなそぶりで朝食を食べ終えてから答えた。
「……どっちとも言えない感じ」
質問に出てきた天国はわたしがイメージできる天国とは違う。
だからちゃんと答える気になれなかった。
「でもこのおうちは居心地いいよ。おばさんがいるから」
わたしがそう言うと、おばさんの顔がぱっと明るくなった。
「やぁん、嬉しいわ」と両手をほおに当てちゃって、まるで恋する乙女だ。
「うるみちゃんさえよければずっとお世話してあげてもいいんだからぁ」
「ごちそうさま」
「おばさん
「……上で着替えてくるね」
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