1‐2

 わたしは黒い服装の男子と手をつないだまますーっと真下に下っていった。


 人間が宙に浮けるなんてふつうじゃない。


 だから、これがじゅもん……なんだと思う。


 非現実的なことを起こす魔法と一緒くたにされがちな、フィクションのお約束のひとつ。


 そんなものが使われてるここってほんとに天国なの?


「着地に備えろ」


 足首くらいまで草が茂っている草原にふたりそろって足が着いたところで、黒い服装の男子が口を開いた。


 一方のわたしは軽くよろけていた。


 浮遊感がいきなりなくなったことに体が反応できなかったせいだ。


 というかこの人の服装、よく見たら学ランにそっくり。


 でもところどころすり切れてる。


 ダメージ加工?


 あとふつうは学ランにマントって合わせないと思う。


 変な人。


「おい」


「な、なに?」


かいじゅも知らないくせにじゅもんで遊ぶからああなるんだぞ」


「遊ぶからって、別にわたし……」


「遊びじゃなくてもみだりに唱えるな。いいな? わかったら家に帰れ」


「家?」


「何度おれをあきれさせる気なんだ。記憶喪失とかじゃないだろうな?」


「そうじゃなくて、えっと」


 わたしはどう答えるべきか、途方に暮れながら空を見上げる。


 玄関から家を出たわけじゃない。


 パパの書斎で変な本を開いただけ。


 それで紫色の激しい光に包まれて、リビングダイニングの天井が見えたと思ったときには真っ暗闇にとらわれて、いつの間にかあの青空にいた。


 なのになんでこの人は『家に帰れ』だなんて、当たり前のこと言うの?


 言わないでよ、現実みたいなこと……。


「おまえ、また泣いてるのかよ」


「……だって、ぇぅぅ……」


「あー、悪かった悪かった。家はどっちだ? 送ってやるから元気だそう、な?」


「ゎかんなぃょぉ……ずっとっ、落ちてただけ、だし……」


「だけってことはないだろ?」


「ほんとなのっ! …………多分、だけど」


 わたしが住んでる家は二階にパパの書斎がある。


 リビングダイニングがあるのは一階。


 だから、真後ろに倒れる姿勢で書斎からすり抜けたなら、わたしがリビングダイニングの天井を見るのは自然なことだ。


 ……だとしても。


 なに考えてるんだろ、わたし。


 続けて怖い目に遭ったせいで頭がおかしくなってきた?


「わたし、パパの書斎からずっと落ちてきたんだと思う」


「おまえんちの書斎、空にあるのかよ」


「そ、そうじゃなくてっ」


「それとも正直者にしか見えないってやつ?」


「うぅ……うゎぁぁぁんっ……! 落ちてきたとしか思えないんだってばぁ!」


「どうどう、ひとまず落ち着けよ。ほらハンカチ」


「すん……」


「なにがあったのか話してみろ。一から順に、ゆっくりとな」


 わたしは黒い服装の男子に言われるがままいきさつを話した。


 すると、彼はここまでの態度から一転して驚いたように目を白黒させた。


「信じらんねえ……いや、だけど……」


 黒い服装の男子はあごに指を当てる。


 しばらくそうしていたから考え事をしてたんだと思う。


「…………よし決めた。使に会わせたい人がいる」


「ぇ、あの、急にそんな、天使だなんてぇ……」


「手」


「ふへへ、なぁに?」


「つかむぞ」


 黒い服装の男子がわたしの手を握る。


 今回はいきなりじゃなかった。


 なんだかんだ人の言うことを聞いてくれる人だったみたい。


「飛ばすぞ」


「ふへへ――うぇ?」


じゅく<ばんゆういんりょく>」


 黒い服装の男子がそうつぶやいた直後。


 わたしは手をつないだ彼と一緒に、草原からはるか遠くに見える町並みのほうにいきなり体がぐんと飛んでしまった。


「えぇぇぇぇ!? ままま、また浮いてるんだけど!?」


「<ばんゆういんりょく>を唱えたからな」


「ばんゆう、いんりょく??」


「ふたつの対象を引き合わせるじゅもんだ。軽い対象が重い対象を目指して飛んでいく」


「これもじゅもんなんだ……じゃあさっきの……!」


 わたしを空中で助けてくれたときも使ってたんだ。


「万全だったらちゅうおうとうを直で対象にできたんだけどな。魔力節約のために慣性を利用しつつ移動するぞ」


「どういうこと?」


かいじゅ


「え」


 わたしはとっさに思い出す。


『「かいじゅ」を宣言するだけでいい。それでおまえのじゅもんは効果を失う』


 今この人、かいじゅって言ったよね?


 これってつまり、この人がさっき使った<ばんゆういんりょく>のじゅもんの効果がなくなっちゃうんじゃ……。


「ぉ、ぉ、おち、おちっ!?」


じゅく<ばんゆういんりょく>」


「ひぅっぷ――――!?」


 また黒い服装の男子が唱えたじゅもんによって、わたしたちはぐんと浮き上がる。


 今度は大きな影を地上に落とす、翼を生やした恐竜のような生き物のほうにまっすぐ飛びだした。


「竜の火力はあくびひとつで炭ができるといわれてる。騒いで刺激するなよ」


「ふぁ……ふぁんたじぃ……」


かいじゅ


「ぉほっ――」


じゅく<ばんゆういんりょく>」


 それからも黒い服装の男子は<ばんゆういんりょく>を解いたり唱えたりして、ジグザグにわたしを引っ張っていった。


 飛んで、落ちて、また飛んで。


 空中というキャンバスに何度も放物線を描くように。


 酔うわけじゃなかったけど、それはもうとってもひどい空中遊泳だった。


 体感的にはだいたい四、五分。


 実際はもっと時間がかかってたかもしれない。


 ただ、視界を流れていった木々や小川、風車、さらには異世界が舞台となっている冒険小説に登場するような生き物たち――。


 それらをじっくり観察できないぐらいのスピードだった。


 だいぶ長い距離を飛び続けたと思う。


 そんな大移動の終着点は、レンガ造りの町の中央にそびえる黒っぽい塔。


 上のほうに大きなアナログ時計があるけど時計塔じゃない。


じゅくじゅくちゅうおうとうほん。おれはちゅうおうとうって呼んでる』と黒い服装の男子が教えてくれた。


 その彼と一緒にわたしはちゅうおうとうのバルコニーへと着地。


 そして幅が広い廊下と階段にひたすら足をいじめられ、あれよあれよと『塾長室』の刻印がされた金の札がはめられたドアの奥へと連れていかれたのだった。


 金の札にそう記されてたし、ここは塾長室……でいいのかな。


 塾長室の中に入るとまずじゅうたんの厚みを感じた。


 カラフルでごわごわ。


 星のようでちょっと違う複雑な模様入りで部屋の床をほとんど覆い隠している。


 向かって左にはふたつ、古そうな茶色の木でできた本棚があって、右にあるのは理科の実験で使うようなビーカーや試験管がところ狭しと置かれた長いテーブル。


 こっちも木製だ。


 色は本棚よりずっと暗い。


 アルコールランプをより大きくしたような器具があるし、実験かなにかを繰り返すうちに全体的にこげたのかもしれない。


 この塾長室はどうやらちゅうおうとうの一番高い場所らしい。


 天井がまるで屋根の裏側みたいになっている。


 外から見えるちゅうおうとうとほとんど同じ色の太い木材が何本も組み合わさって、あの上をネズミが走ったとしても気づけなさそう。


 そういえばやわらかな向かい風を感じる――。


 わたしはなんとなく眺めていた天井から正面に視線を移した。


 いかにも校長先生が使ってる感じのつやつやした机が見える。


 その先には、三つ横に並んだ窓が両開きに開いていて。


「んん? おんやまあ」


 大柄だけどほんとに魔女みたいな姿をした、古いアニメ映画の再放送で見たのとそっくりなおばあさんが揺り椅子でくつろいでいた。


「塾長」


 おばあさんの横顔に向けて黒い服装の男子は言った。


「チーム・Gのかけはしです。勝手ながらご報告させてください」


 この人、かけはしくんっていうんだ。


 わたしと同じ日本人?


 改めてよく見たらふつうにそれっぽい顔してるし。


「課外授業の途中で上空におかしな落下物を見つけ、チームの総意でおれがに向かったんですが、そのおかしな落下物の正体はこちらの女性でした」


 わたしれっきとした人間なのに、おかしな落下物って。


 ……え、げいげき?


「はっきり言って彼女はかいじんじゃなくて天使だと思われます。しかし彼女からは侵攻の意志も力も感じられず、『じゅもんかいじゅできる』という基本的な知識すら持っていないようでした。さらに彼女のじゅもんについてですが、どうも誤って唱えたらしく、効果も――」


 長いなぁ、かけはしくんの話。


 でもちょっと、ううん、わりと不穏な気がする。


 迎撃とか侵攻なんて特にそう。


かけはしりんや」


 おばあさんがかけはしくんの話を途中でさえぎった。


「その子をこっちに」


「はい」


 かけはしくんがわたしにちらっと目配せする。


 ぇぅ、怖くなってきた。


「ほら行くぞ」


 かけはしくんにせかされたわたしはようやく前に進みだす。


 その間にもおばあさんは不気味なくらいゆったりぎいぎい体を前後に揺らして、わたしたちじゃなくて絵が飾られている壁のほうを見ていた。


「おまえ、名前はなんていうんだい?」


 この質問!


 古いアニメ映画で見たまんまだ!


 答えて大丈夫?


 変な展開にならない!?


「んん、おまえだよおまえ。あたしゃ優しくないからねえ。ぶしつけな子にゃ辛抱たまんなくなって、やわらかそうな肉のとこを食っちまいそうになるんだ」


「ひぇ」


「冗談だよ、冗談。いわゆるおばばギャグさね」


 おばあさんは目尻のしわを深めてくつくつ笑った。


「あの、がいうるみ、です」


がいうるみ? ――――んん、あいわかった」


 こうして近づくとやっぱりこのおばあさん、大きすぎじゃない?


 顔の骨格からもう人間らしくないし。


「初めまして、がいうるみや」


 おばあさんは揺り椅子を器用に揺らしてわたしたちと向き合った。


「あたしゃこのじゅくで塾長をやってる死にかけのばばあさ。怖がらなくたっていい」


「死にかけだなんて、そんな大げさな」


 あわててそう言ったのはかけはしくんだ。


「んん、おばばギャグさね」


「おれにはとても笑えませんって」


「ときにかけはしりんや。がいうるみにゃ害はないってことはわかった。しかしなんだい? 落っこちてきたっていうのは」


「彼女から事情を聞きはしましたが、まあ……」


 かけはしくんは困った顔つきで首筋に手を当てた。


「父親の書斎から、落ちてきたそうです」


「おまえの報告にあったすり抜けるじゅもんでかい?」


「彼女からの説明をありのままに受け入れるなら、ですが」


「ゎ、わたしうそついてないよ? ほんとに落ちてきたとしか思えないの」


「完全に信じろって言われてもな」


「せちがらぃょぉ……」


「いいや、信じられるよ」


 塾長さんはきっぱり言った。


 かけはしくんがとまどいを見せたのはすぐのことだ。


「すいません、理由をお聞きしても?」


「んん、<とう>が使えりゃ不思議じゃないんだよ。天国からすり抜けてきたってねえ」


「――――天国から、すり抜けて――」


 衝撃だった。


 わたしはオウム返しみたいにその言葉を口走っていた。


 だってわたし、パパの書斎から落ちてきたここ、この世界が天国だとばっかり思ってた。


 そうじゃないならそれでもいい。


 もっと大きな問題があるから。


「じゅ、塾長さん?」


「なんだい」


「わたしが住んでる家があるの……天国じゃなくて日本、ですけど……??」


「んん、パンと米ほどの違いもないさね」


 あるよ!?


 違いすぎだよぉ!?


 というか日本を天国扱いされるの、なんか無性に悲しくなってくる……!


 歩行者天国だって全然そんな天国でもないし!


 むしろ歩くのだいぶ怖いなーって思ってたくらいだし!


がいうるみや。おまえははるか上にある世界からかいまで、じゅく<とう>のじゅもんでやってきちまったのさ」


「ぁぅぁぅぁぅぁぅ」


「念のために聞いとくけれど、<とう>はいつどこで覚えたんだい? 誰に習った?」


「ぃぇぃぇぃぇぃぇ」


「んん、要領を得ないねえ」


「塾長」


 かけはしくんが一歩進む。


「彼女が仮にスパイとしてかいに潜入してきたとしても、このやり方はずさんすぎます」


じゅくじゅくちゅうおうとうほんきっての有望株がその場に居合わせてなけりゃ、かいすらすり抜けて地獄行きだったわけだからねえ」


「なので彼女は無害だと思います」


「あたしも同意だよ」


「彼女の扱いについては客人としての一時保護が妥当かと」


「んん、まったく模範的だ」


 塾長さんはぐりっとした目玉を一点に寄せる。


 注目の先はわたしだった。


 わたしは塾長さんと目が合ったことにびっくりして、かえって正気にさせられた。


「どっちみち、このまま帰しちゃ危なっかしいからねえ」


 だから、続く言葉の意味もすっと飲み込めてしまった。


がいうるみや。覚えちまった<とう>のじゅもんを使いこなせるようになるまで、おまえはここじゅくじゅくちゅうおうとうほんで塾通いだよ」


「えっ」


「わかったね?」


「ぃぇ、あ、ぁの、急にそんな」


「んん??」


「ひぃ」


 否応なしだった。


 じゅもんかいに塾通い――――。


 頭ではわかるのに納得がはかどらない。


 わたしが塾でお勉強?


 パパとママとは……離ればなれ??


 わたしはひざから崩れ落ちていた。


 抱えた頭をくしゃくしゃと乱しながら。


 恥も外聞も忘れたあられもない悲鳴を上げたのはすぐだった。

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