じゅくじゅくメンタル魔熟字使いは粛々たらざる塾通い
水白 建人
1‐1
代わりの誰かを笑うだけだから。
「…………こんな世界から消えてしまえたらいいのに」
わたしは朝が弱い。
目覚めた気分はたいてい曇りだ。
「二度寝……ううん、やめとこ」
枕もとのスマホをいじると、時刻が午前九時を迎えようとしているとわかった。
なんの通知もきていなかったスマホの画面を消して、わたしはフローリングに敷いた布団から這うように出た。
カーテンの隙間から日差しがもれている。
ほこりがちらちら宙を舞い、行き着く先はフローリングに積んだ本の山々。
本棚を買うべきお金で新しい本を買っているせいだ。
わたしはパジャマを着たまま自分の部屋を出た。
途中で曲がる階段を下りた先は静かで薄暗い。
今日はパパもママも仕事のようだ。
わたしは壁にあるスイッチを軽く押しつつ、カーテンが閉まっているリビングダイニングに進む。
リビングダイニングのクロースで飾ってあるテーブルを見ると、雑にラップをかけた朝食が置かれていた。
「
わたしはラップをつまんで丸めて、テーブルの端に転がしてから冷蔵庫へと回れ右をする。
食パンはトーストにしよう。
コンポタはレンジで温め直そう。
それとココアが飲みたいな。
牛乳はまだ残ってたっけ?
「よっ。……りんごジュースでいいや」
ひとりでだらだらとすませる朝食は慣れたものだった。
学校への遅刻だってそう。
だからわたしは使った食器などの片付けもそこそこにシャワーを浴びて、伸びきった髪を片側に寄せる格好の三つ編みにしたあと、急ぐことなく自分の部屋に上がってセーラー服へと着替えた。
さて、タブレットが入れっぱなしのかばんに午後の授業で使う教科書を入れていると、わたしは勉強机に気を取られた。
「パパの書斎から持ってきた本、戻しとかないと」
勉強机の上に置いておいたそれはこっそり借りたものだ。
細かいことは気にしないパパだけど、ママは違う。
これがバレたら書斎にカギをかけるようパパに言うかもしれない。
「えぅ……考えただけでつらい」
怒られるのもいやだし、忘れないうちにっと。
パパの書斎も二階にある。
わたしはかばんではなくこっそり借りた本を小脇に抱え、年々、建てつけが悪くなってきているパパの書斎のドアを開けた。
遊園地にも負けない魅力的な空間が広がっていた。
パパの書斎はまず壁側をぐるりと本棚が置かれている。
真ん中あたりにも漢字の『日』を描くように背中合わせに並べた本棚が二組あって、書斎入り口から見える通り道は実際、狭い。
ぱっと見は十字路になっているけど、少し進むと左右の通り道はすぐ曲がり角にさしかかる。
どちらを進んでも奥にある書斎机にたどり着くから、探検のしがいはないと思う。
それよりも本!
本の宝庫なんだよね!
わたしの一二年分のおこづかいを全部使ったとしても半分だってそろえきれないくらい、もうたっくさん本があるの。
パパ大好き!
わたしが読んだことない本をいっぱい持ってるから!
「……ふ、ふへっ」
わたしはぱちんと照明をつける。
「どうせ遅刻するし、ちょっとくらいなら……」
読書はいいこと。
心がはずむたしなみだし学校でもよく推奨される。
だからわたしはうぐいす張りのように鳴る入り口の床板を踏み越えて、こっそり借りた本をもとの本棚に戻した。
この気持ちはやましくなんかないと思い込んで。
「~~♪ ~~~~♪」
きっちり縦に、ときどき斜めに並んだ背表紙たちをハミングしながらなぞっていく。
頭の中の漢字はまばら。
外国語もからきし。
背表紙に記されたタイトルを眺める限りではどんな内容か、わたしにはわからないことのほうが多い。
そこでわたしは気まぐれに本棚から本を取って、ぱらぱらめくる。
難しくて読めなさそうならさっとリリース。
読めてもぴんとこなかったらこれもリリース。
はずれを引いたっていいの。
本の中からあふれてくるこの鼻をくすぐる香ばしさも好きだから。
「~~……? なんだろう、これ」
わたしは何冊目かもわからない未知の本を手に取った。
言葉では言い表せない興味をそそられた。
ふつうなら記されているタイトルが背表紙になかったからだ。
その本の黒い装丁はガラスのようにつやめいている。
だけどビニールの手ざわりとはまったく違う。
ざらっとしている。
わたしはその黒い装丁の本を何度か裏返して、表紙と裏表紙に刻まれた丸や三角、線に筆記体の文字っぽい模様が手ざわりの正体だと気づいた。
「変な本。ノートだったりするのかな」
もしそうならどこにもタイトルが記されてない理由に説明がつけられそう。
たとえばパパの秘密ノート……黒歴史本とか?
「むふふ、こういう出会いがあるから楽しいんだよね~」
わたしはさっそく黒い装丁の本を開いた。
そのときだった。
わたしがめくってないにもかかわらず、ひとりでに黒い装丁の本のページがめくれ始めた。
「ひぇあっ!?」
ほんとにびっくりした。
虫がはさまってたのかと思って黒い装丁の本をつい投げてしまった。
わたしの驚きは収まらない。
黒い装丁の本はどうしてか本棚にぶつかることなく浮いている。
しかも紫色の淡い光まで放つありさまだ。
ばらばら、ばらばら、ばらばらばらばら。
ページがめくれる速さがすごい勢いで増していく。
「ぇぅぉゎゎゎゎゎゎゎゎぁ……!?」
これはいったいどんな本なのか。
あまりに速くめくられてて、しかも紫色の淡い光まで放ってるから確かめたくてもまともに読めない。
「……っ、っと……」
だが、怖すぎてむしろ黒い装丁の本から目が離せなかったのが幸いした。
どうにか一瞬だけ、ページのほんの一部分をとらえることができた。
書かれていたのは横書きの日本語となにかの図形。
それ以上のことは読み取れなかった。
今から浮いている黒い装丁の本をがっとつかんで無理やり確かめようとしても、きっと間に合わないと思う。
黒い装丁の本がさらに光を強めて、わたしのからだにまとわりついてきたからだ。
わたしは両目を腕で覆う。
怖さとまぶしさが消えてくれるのを願った。
それから数秒後にわたしは真後ろへと倒れてしまった。
転んだんじゃない。
だって足がすくんで動かせなかったから。
それでも姿勢が崩れたのは事実。
わたしは反射的にバランスを取ろうと両手を開いた。
その拍子にあらわになった両目で見たのは――――リビングダイニングの天井だった。
『呆然』ってこういうことなんだって実感させられた。
パパの書斎で真後ろに倒れたなら、わたしの視界にはパパの書斎の丸い照明が照らす天井が見えるはずだ。
なのにその天井は薄暗かった。
リビングダイニングだ。
自分の部屋に戻る前に照明を消しておいたから絶対そう。
だからって、信じられるわけないじゃん。
リビングダイニングの天井がみるみる遠ざかっていくなんて。
「――――わたし、落ちて――」
次の瞬間、わたしの視界は真っ暗闇になった。
真後ろに倒れた姿勢のまま立ち直れない。
夢でも見てるのかな。
わたしは自分のほおを指でつついてみた。
「……さわれる」
ぞっとした。
これ、現実ってこと?
耳の中でごおごおと風がながれてるようなこの音も。
スカートのすそがばさばさ暴れてるのも。
真っ逆さまに、落ち続けてるせい?
「っ――――――――!!」
わたしは言葉にならない悲鳴を上げてしまった。
とたんに涙があふれ出す。
真っ暗闇でなにも見えないけれど、それは下にはこぼれない。
わたしが見上げているほうに向かってこぼれていくのを感じた。
ここはどこ?
夢じゃなかったらなんなの?
どこまで落ちればいいの?
もしかして……死んじゃったの!?
わたし今、地獄に向かってるってこと!?
「――っ、――!! ――――……!?」
助けを呼んだ。
届いた気がしなかった。
落ち続けた。
何分経ったか、わからないぐらい。
『こんな世界から消えてしまえたらいいのに』
そう思ってたけど、思ってたけども!
…………思ってたのと違う。
わたしは力なくまぶたをふさいでいた。
「――――――っ?」
すると真っ暗闇をつらぬくほどの刺激に襲われた。
光だ。
思わずわたしはうっすら目を開けた。
「――――てんごく?」
見渡す限りの青空だった。
雲ひとつない晴れ模様。
はるか遠くには太陽が輝いて――。
「うそっ、動いてる。オオカミみたい」
それはわたしが知ってる太陽とは違って見えた。
そもそも太陽ってふつうに目で見られるんだっけ?
「変な光景。はあ……わたしまだ落ちてるし」
わたしは投げやりに体をひねる。
オオカミのような太陽の真下に広がっているあれは草原だろうか。
細々と見えるあの青色が川だとすると、点々と固まって見えるのは町かもしれない。
まるで飛行機よりももっと高いところから地球を見ているかの気分だ。
「そういえば人って死んだら幽霊になる、よね。ふよふよ浮いて……体も半透明に……」
わたしは恐る恐る両の手のひらを目の前に持っていった。
いつもの肌だ。
おまけに体はいつまで経っても浮こうとしない。
「……待って、待ってよ待ってよぉ……」
ここが天国かどうかなんてどうでもよくなってきた。
もしこのまま落ち続けてたら、わたしははるか遠くに見えるあの草原と激突してしまう。
想像したくもない結末が頭をよぎった。
「びぃぃぃぃぃぃぃぃゃぁぁぁぁぁぁ……!?」
死ぬの!?
死なないの!?
わたしまた死んじゃうなんていやだよ!?
「助けて!! 幽霊でも天使でも誰でもいいからぁっ!!」
両手をばたつかせても自由落下する体は止められない。
空中でただひとりきり。
わたしは本気で死を覚悟させられていた。
こういうときに生き物はみんな神経質になるんだって、なにかの本で読んだことがある。
答え合わせは偶然に。
「ぁぅぁぅぁぅ…………ぇ、え?」
不意にわたしの涙目がおかしな物体をとらえた。
見たままに表現すると粒。
けれどだんだん大きくなっていき、まもなくわたしはそれが人間だと気づいた。
わたしよりちょっぴり大人びて見える、黒い服装の男子だ。
なにもおかしくない?
ううん、だってどう見てもわたしのほうに向かってきてる。
下から上に。
羽織ったマントがなびかないくらいの猛スピードで。
「べぶぶっ、ぶつかりゅ、ぶつかっちゃ――――!?」
まっすぐ突進してくる黒い服装の男子を避けるのは無理だ。
わたしはただの人間だから。
「ひぅ」
一瞬、息が止まった。
ぎゅっと目を閉じていた。
「………………痛く、ない?」
そっと前を見直すも、すぐそこまで迫っていた黒い服装の男子の姿はどこにもなかった。
「――――ろ! おい!」
なにやら後ろから声が聞こえる。
この低めな感じ、もしかして!
「このアホ。ぼさっとするな」
振り向くわたしにそう言ってきたのは、まさに先ほどの黒い服装の男子だった。
「ひと……人だぁ……!」
「第一声がそれかよ」
「あれ? きみ浮いてる?」
「おまえもだぞ」
「ふぇ――ぁ!? 落ちてない!? なぁにこれぇ!?」
「ったく、なんだこの女」
黒い服装の男子は青っぽい黒髪をかきあげる。
「騒いでないで
「かい、じゅ?」
「そのすり抜ける効果を解けって言ってるんだ」
「…………??」
「おい、なんだよその顔。まさかおまえ……」
黒い服装の男子はふわりとわたしの横まで近づき、しばらく見つめてから首を横に振った。
「あきれた……ガチガチの素人が
「あの、えっと、じゅもん、ってファンタジー小説とかに出てくる……」
「赤点」
「なにが?」
「おまえの発言だ。ファンタジーはたいてい機械が主役だろ」
それはSFとかのジャンルじゃないかな……。
「『
「わたし
「さっさとしろ」
黒い服装の男子が不機嫌そうにわたしを見てくる。
わたしは無意識にびくんとなってしまった。
……とりあえず、逆らわないほうがよさそう。
「か、
この人は『すり抜ける効果を解け』って言ってた。
じゃあわたしがそういう、物をすり抜けちゃう状態だったってこと?
「これでいいの――わゎっ!?」
「よしつかめた」
「ぃ、いきなり手、握らないでよ」
「また落ちたいなら離すぞ」
「握ってて、くだしゃぃ……」
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