第32話 願い
俺は深く息をつき、剣を下ろした。戦いが終わったという実感はあるものの、心の中にはまだ小さな喪失感が残っている。彼はただの敵ではなく、俺自身だった。過去の俺が具現化した存在。それが消えてしまった今、俺は本当に彼を乗り越えたのか、ふと自問してしまう。
神殿の中は、荒れ果てた戦場のように静まり返っている。崩れた床、ひび割れた壁、そのすべてがこの激闘の跡を物語っていた。だが、周囲の破壊とは対照的に、俺の心には不思議な静けさが広がっていた。虚無に飲み込まれた自分を超え、守るべきものを見つけた今、心の中で何かが変わり始めているのを感じる。
(これで終わりか……いや、これが始まりだ)
俺はゆっくりと周囲を見渡し、深呼吸をする。空気は冷たく、澄んでいる。まるで新たな旅立ちを告げるかのような静かな風が、俺の頬を優しく撫でていった。その風には、過去の重荷を軽くするかのような感覚があった。俺はもう過去に縛られることはない。この場所での戦いを経て、俺は新しい自分を手に入れたんだ。
「カエルさん!」
突然聞こえたリリカの声に、俺ははっとして振り返った。走り寄ってくる小さな姿が見える。彼女は笑顔を浮かべ、まるで待ちきれなかったかのように、俺に向かって手を振っている。
俺の胸が温かくなる。彼女の声は、戦いの重圧で張り詰めていた心を一瞬でほぐしてくれる。それは、無事に帰ってこれたという実感と共に、守るべきものがここにあるという確信だった。
「ゲロ……!(リリカ……!)」
俺も自然と声が出た。戦いの疲れを忘れるかのように、彼女のもとへと歩み寄る。リリカは駆け足で俺の胸に飛び込み、しっかりと抱きついてきた。
「よかった……本当によかった。無事で……!」
リリカの体は少し震えていた。それは、俺が帰ってこないのではないかと心配していた証だろう。俺は彼女の小さな体を優しく抱きしめ返した。何度も繰り返される戦いの中で、こうして守るべきものの温もりを感じると、俺はこの戦いに勝ったことが本当に意味のあることだと実感する。
(大丈夫だ、リリカ。もう終わったんだ。俺は……俺自身に勝ったんだ)
リリカは顔を上げ、俺をじっと見つめた。その瞳は涙で潤んでいるが、そこには確かな安心感と喜びがあった。
「カエルさん、強いね……ずっと信じてたよ!」
俺は少し照れくさく笑いながら、彼女の頭をそっと撫でた。リリカの言葉に込められた信頼が、俺の心をさらに強くしてくれる。
「ゲロ、ゲロ。ゲロゲロ(ありがとう、リリカ。リリカのおかげだよ」
そう言うと、彼女は嬉しそうに笑った。その笑顔は、まさに俺が守るべきもの。これからの未来を共に歩む仲間だ。俺は決意を新たにし、これからの旅が待っていることを思いながら、リリカの手を取り再び光の
不思議な輝きを放つ鏡の前に立った俺たちは、その光に包まれながら、静かに向き合った。鏡の表面は、まるで穏やかな水面のように微かに揺れていて、近づくたびに柔らかな光が波紋のように広がっていく。触れれば吸い込まれそうなほど、鏡は神秘的で、目を奪われる美しさを持っていた。
(願い叶えし者に必要な資格は純たる真の心を持つ者のみ……)
俺はリリカが読んでくれたその言葉を思い返す。純たる真の心、か。それが今の俺にあるのかどうかは正直なところわからない。しかし、ここまでの道のりで、俺は虚無に囚われていた自分を乗り越え、守るべきものを見つけた。過去の迷いから解放された今、自分の心はかつてとは違うはずだ。
「カエルさん……大丈夫だよ。きっと鏡も、カエルさんの心を認めてくれるよ」
リリカの言葉はいつも不思議なほど信頼に満ちている。俺の肩に小さな手を置き、優しい笑顔を浮かべる彼女を見ると、その言葉に対して疑う余地などなかった。俺は彼女の信頼を裏切ることはないと心に誓い、深く息を吸った。
「ゲロ、ゲロ(行こう、リリカ)」
俺たちは手を繋いだまま、ゆっくりと鏡の前に進んだ。鏡はその光をさらに強め、まるで俺たちを迎え入れるかのように輝きを増していく。近づくほどに、その光は温かく、穏やかな気配を帯びている。恐怖はなかった。むしろ、その光は希望のように感じられた。
リリカは鏡の前で立ち止まり、俺の方を見た。彼女の目には、微かな不安と期待が交錯しているようにも見えるが、それでも彼女は強く手を握ってくれた。
「鏡に触れれば、願いが叶うのかな……?」
リリカが不安げに尋ねたその言葉が、静かに俺の心に響いた。願い……か。俺はリリカの言葉を
思考が巡る中で、いくつかの可能性が頭をよぎった。神秘ダンジョンの結界を元に戻してもらうか? 確かに、それが一つの選択肢だろう。あの結界を元に戻せば妹たちはもう安全だ。
次に頭に浮かんだのは、かつて倒した魔王のことだ。あの結界も魔王が作ったものだし、魔王を復活させ、話をしてみることができたら……あの時、戦いを通じて感じたものがある。彼がただの破壊者ではなく、何か目的や思いを持っていたのではないかと、今でも心に引っかかっている。もしその真意を聞くことができたら、何か違う結末があったのではないか。
けれど、それもまた過去のことだ。魔王は倒された。それが事実であり、今さら過去を掘り起こすことが本当に意味があるのかはわからない。
俺の心はそのどちらにも傾くことなく、鏡の前で立ち止まった。考えれば考えるほど、俺にはこれといった明確な願いが浮かんでこない。よくよく考えれば、俺は今、願いという願いを持っていないことに気がついた。望むべき何かが、頭の中に見つからない。
(俺は……何を望んでいる?)
自問しながら、俺はゆっくりと鏡に手を伸ばした。指先が鏡の冷たい表面に触れると、まるでそれを待っていたかのように、鏡から放たれていた柔らかな光がゆっくりと消え始めた。その変化は、まるで生き物が息を潜めるかのように静かで、しかし確実に感じ取れる。
(予想はしてたけどな……)
俺の心には、静かな諦めと共に一つの確信が芽生えていた。「願い叶えし者に必要な資格は純たる真の心を持つ者のみ」――その資格を持つのは、おそらくこの世界でたった一人だけ。俺にはそれがわかっていた。
リリカだ。
俺は鏡をじっと見つめながら、小さく息を吐く。リリカが持っているもの、それは俺にはもう届かない純粋さだ。守るために戦い続け、いくつもの選択をしてきた俺とは違い、彼女は未だに汚れのない心を持っている。だからこそ、この鏡が認めるのは彼女しかいないだろう。
「ゲロ、ゲロ(リリカ、君が鏡に触れてみて)」
俺が鏡を指さして声をかけると、リリカが驚いた顔で俺を見つめる。彼女の澄んだ瞳に戸惑いの色が浮かんでいるが、俺は優しく微笑んで頷いた。
「え……でも、わたしが……?」
リリカは少し躊躇しているようだったが、俺は彼女の肩にそっと手を置いた。
「ゲロ、ゲロ(大丈夫、俺を信じて)」
俺の表情を見たリリカは少し頬を赤らめながらも、深呼吸をして覚悟を決めたようだ。彼女はゆっくりと鏡の前に進み出る。俺は少し緊張しながら、その光景を見守った。
リリカが小さな手を鏡に伸ばし、恐る恐るその表面に触れると、先ほど消えた光が再び静かに輝き始めた。最初は弱々しい光だったが、次第にその輝きは増し、まるで鏡が彼女を歓迎するかのように光の波紋が広がっていく。
「すごい……!」
リリカの驚きの声が響く中、鏡の中からは優しい温かさが放たれていた。彼女の純粋な心に反応して、鏡が願いを叶える準備を始めたのが、はっきりと感じ取れた。その光は、彼女を包み込むように広がり、まるで彼女の心を鏡が優しく受け入れているかのようだった。
(リリカ……)
俺はその光景を見守りながら、心の中で彼女の力強さに改めて感謝した。リリカは確かに純粋だ。しかし、それはただ無垢であるというだけではない。守るべきもの、信じるものを常に抱き続けている。その強さこそが、鏡に認められるものだったのだろう。
リリカは鏡に向かって、静かに目を閉じた。その瞬間、鏡の光がさらに強くなり、神殿全体がその光に包まれた。まるで天から降り注ぐような神聖な光が、俺たちの周りを優しく照らし出す。
「お願い……わたしの願いを叶えて。ずっと持ってたわたしだけの願い」
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