第11話 Dの影

 俺は少女の手を取り、足を滑らせないよう慎重に森の中を進んだ。

 足元の苔がしっとりとした感触を伝え、時折小さな石が足裏に当たる。風が木々を揺らし、葉がさわさわと音を立てる。


 水の流れる音が次第に大きくなり、やがて澄んだ小川が視界に入ってきた。木々の隙間から差し込む光が水面に反射し、キラキラと輝いている。


「ゲロゲロ(ここで少し休もう)」


 俺は小川のほとりで立ち止まり、少女に声をかけた。少女の表情はまだ少し不安げだったが、俺の誘導に従い、小川の水辺に腰を下ろした。


 さて、ここからが本題だ。

 どうやって洗ってねと伝えるか。


 そうだ!


 俺は小川に飛び込みスイスイと泳ぎ、少女に声をかけた。


「一緒に泳ごうってことかな? 水浴びなんていつぶりかなー」


 少女は笑顔を浮かべ、俺の動きを真似て小川に入った。冷たい水が肌に触れ、一瞬驚いたように身震いしたが、すぐにその感覚に慣れた様子だった。


「冷たいけど、気持ちいいね、カエルさん!」


 少女に向かって頷き、水面に手をかざして顔を洗うジェスチャーを見せた。少女もその動きを見て、自分の顔を洗い始めた。泥と汗が流れ落ち、少女の顔が少しずつきれいになっていく。


 洗い終わった少女の顔は驚くほど美しかった。大きな瞳は澄んだ青色で、長い睫毛がその美しさを引き立てている。金色の髪が陽光を受けて輝き、その姿はまるで森の妖精のようだ。今までの汚れが嘘のように、その美しさが際立っている。


「これで少しはさっぱりするかな?」


 俺は再び頷き、少女の服も洗ってあげるために小枝を使って軽くこすろうとした時に腕に焼き印を見つけた。


 その瞬間、まるで全身の血が沸騰するかのように怒りが込み上げてきた。

 俺たちが壊滅させた異端者の組織のマーク、Dの一文字が少女の小さく細い腕に刻まれていた。


 その紋章はDの奴隷の証であり、過去の戦闘や冒険で何度も目にしたものだ。


 全身の筋肉が緊張し、体の内側から湧き上がる怒りに震える俺を見て、少女は少し不安そうにしている。


「カエルさん、どうしたの?」


 声は小さく、かすかに震えていた。俺は深呼吸し、気持ちを落ち着かせようと努めた。


「ゲ、ゲロ……(な、なんでもない…)」


 少女に安心させるように微笑もうとしたが、怒りを抑えきれずにいる自分が情けなかった。


 少女の目に映る俺の姿が、ただのカエルであることが救いだ。


 自分の情けなさを痛感していると、少女がそっと小さな手で俺を撫で、


「大丈夫だよ、カエルさん。わたしがいるからね」


 なぜだか分からないが、その瞬間、視界がぼやけて涙が頬を伝った。


 目の前の小さな少女は異端者の組織、Dの奴隷で間違いない。


 どんな環境で育ち、どんな扱いを受けてきたのか、元勇者でありその組織を壊滅寸前まで追いやった俺が知らないわけがない。


 そんなか弱き少女が、カエルの俺を心配してくれている。


 心の奥底に眠っていた過去の記憶と怒り、そして無力感が押し寄せる。


 この無垢な少女が見せる純粋な優しさに、心がじんわりと温かくなる。


 その涙は、過去の自分を浄化するかのように流れ落ちた。


 少女の差し伸べる小さな手が、俺の心に温もりを与える。それが、まるで希望の光のように俺を包み込んだ。


(そうか、救われるってこんな気持ちなんだな)


 頬を伝う涙を手で拭いとった。


「ゲロゲロ(ありがとう)」


 正直、俺は人間という種族を見限っていた。


 それはそうだろう。勇者だった俺は暗殺され、魔王を倒しても内乱や争いが続いているって。


 しかし、この小さな少女の純粋な優しさに触れ、もう一度だけ人間を信じてみてもいいかもしれない、そんな気持ちが芽生えた。


 この少女の存在が、俺の心の氷を溶かしてくれた。


 その恩義に報わないで何が勇者だ。


 この子には絶対に幸せになってもらいたい……いや、違う。


 この子が、彼女が幸せになれる世界を俺が作ればいいんだ。


 何をどうしたらいいのか、今の俺には見当もつかない。

 でも、やってみせる。


 その幸せな世界はきっと、アリミ、アリコ、アリミアも笑顔でいられる世界なんだから。


 さきほどまでの煮えたぎるような怒りは消し飛び、俺はいつしか笑顔になっていた。


「カエルさん、元気になって良かった」


 その時、彼女のお腹が鳴るのが聞こえた。彼女は少し恥ずかしそうに顔を赤らめて、目を逸らした。


「ゲロゲロ(何か食べられるものを探さなきゃな)」


 俺と彼女は食べ物を探すことにした。小川のほとりで俺はふと思い立ち、


「ゲロ、ゲロゲロ(ここら辺に、虫とかいい感じのエサがあるはずだ)」


 俺は地面を掘り起こし、探し始めた。彼女は興味津々で俺の動きを見つめていた。


「カエルさんって、虫とか好きなんだね」


「ゲロ、ゲロ(まぁ、今はカエルだからな)」


 俺は土の中から大きなミミズを引っ張り出し、彼女に見せた。


「ゲロ? (これなんかどうだ?)」


 彼女は一瞬驚いた表情を浮かべたが、すぐに笑い出した。


「ふふふ、カエルさん、それはちょっと……」


 俺は頭をかしげ、彼女に問いかけるような目を向けた。彼女は笑顔を浮かべながら、


「虫じゃなくて、果物とかがいいな。カエルさんにも合うものを探そう?」


 そうだ、今の俺はカエルだから思考が人間と違うんだ。

 くそ、小さな女の子にミミズを食べさせようとする勇者がいるかよ! これじゃあ、俺はただの大きなカエルじゃん!

 ってくだらないノリ突っ込みをしてる場合じゃない。


「ゲロゲロ(じゃあ果物を探そうか)」


 俺たちは森の中を歩き回り、ついに大きな木にたどり着いた。そこにはたくさんの果物がぶら下がっていた。俺は跳躍力を活かし、果物をいくつか取って地面に落とした。


 彼女はその果物を手に取り、嬉しそうに言った。


「ありがとう、カエルさん! これなら美味しく食べられるよ!」


「ゲロゲロ(そいつは良かった)」


 俺はほっとしながら、彼女と一緒に果物を食べ始めた。果物の甘い香りとみずみずしい味が口の中に広がり、二人で笑い合いながら楽しいひとときを過ごした。


 そして俺は名が無いと言っている彼女に名前をつけてあげる事にした。

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