第8話 水龍神

 新たな決意を胸に、俺はダンジョンの階層を目指して進んだ。道中、空腹感に襲われるたびに岩を噛み砕いてごまかしたが、美食ヴァルハラフェストのせいで満たされることはなかった。


 やがて、前方に微かな光が見えた。


「出口か...?」


 冷たい風が顔に当たり、外の気配が感じられる。洞窟の出口が近づくにつれ、光が不規則に脈動し、生き物のように見える。


(もう少しだ)


 アリミアの言葉を思い出し、俺は慎重に進んだ。やがて出口の光がはっきりと見え、洞窟の暗闇から抜け出した。


 目の前に広がるのは、まるで別世界のような風景だった。黄金色に輝く草原、巨大な湖、そびえ立つ山々。湖のほとりには色とりどりの花が咲き乱れ、その香りが風に乗って漂ってくる。


「これでダンジョンって本当かよ……まるでもう一つの世界に来たみたいだ」


 ここで立ち止まってはいられない。もう空腹感に殺されそうだ、ここには普通の自然な動物たちもいるみたいだし助かった。

 あの湖に跳ねる魚の影が見えた、ということはそれを食べる鳥も、魚が食べる虫だっているわけだ。


 俺は大急ぎでスキルの大跳躍ハイジャンプで湖へと向かった。


 湖のほとりに降り立った俺は、すぐに魚を見つけ、長い舌を伸ばして素早く捕食した。

 魚の肉は滑らかで柔らかく、噛むと簡単にほぐれる。


 淡泊な風味とほんのりとした甘みが口の中に広がり、湖の清らかな水を感じさせる。生食に対する抵抗はもうなく、むしろその新鮮な味わいを楽しむことができ、少しだけ空腹が収まった。


 一匹食べ終わったところで、どこからか声が聞こえた。


「ケロキングよ、我が聖域に何用か? 汝は下層の守護者であろう。それに汝のスキルが暴走してしまってはこの聖域内の生き物が絶滅してしまう恐れがある。その魚を食べ終わったのなら速やかに下層へ帰るのだ」


 俺は周囲を見渡しながら声の主を探した。声は低く、深みがあり、威厳に満ちていた。湖の中央から大きな波紋が広がり、その中心に巨大な影が浮かび上がった。


「それが聞けぬのなら、戦闘向けではない汝を相手にするのは心苦しいが、少々痛い目にあってもらう事になるぞ」


 湖面が揺れ、波紋がさらに大きく広がる。

 影の輪郭が次第に明確になり、その正体が徐々に浮かび上がってくる。影は水中からゆっくりと姿を現し、巨大な竜の形をしていた。

 その鱗は鋼のように輝き、目は燃えるように赤く輝き、額には見覚えのある傷がついている。


「なんだ、水龍神リヴァイアサンじゃないか。お前もこの神秘アルカナダンジョンにいたのか」


「むむ? 汝とはそこまで仲が良かった訳ではないが……随分と馴れ馴れしい口ぶりだなケロキングよ」


 水龍神リヴァイアサンの目が一瞬、驚きと疑念に揺れた。その姿勢からは敵意を感じるものの、完全に敵対的ではない微妙な感情が読み取れる。


「俺だよ俺、その額に傷をつけた勇者だ。忘れたとは言わせないぞ、何にもしてない俺たちを酔っ払ったお前が攻撃してきたんじゃないか」


「ゆ、ゆ、勇者……だと? 信じられぬがこの傷についても知っているという事は、本当にあの勇者だとでも言うのか」


 水龍神リヴァイアサンの驚きは明らかだった。水龍神リヴァイアサンの巨大な目がさらに大きく見開かれ、その表情には混乱と戸惑いが浮かんでいた。


「戦いの最中、俺の額への攻撃で酔いがさめたお前は何か意味の分からない言葉を言いながら逃げていったじゃないか。なんて言ってたっけなぁ。たしか――」


「あ、あなたが勇者、いえ、勇者様であることは分かりました……もうそれ以上はなにも言わないで、思い出さないでください……」


 水龍神リヴァイアサンは頭を垂れ、その巨大な体が湖の波紋に溶け込むように震えた。普段の威厳が消え去り、かつての恥ずかしい記憶に怯えるような様子が露わになった。


「ふふ、そんなに嫌だったのか? ならこれ以上からかうのうはよしておくよ。今はなにより情報が欲しいから」


 俺が今一番欲しい情報はこのダンジョンの異変についてだ。


 アリミアの話を聞く限りではこの異変は俺のせいだと言っても過言じゃないと思う。このダンジョンが安全でないのなら、妹たち、そしてアリミアも安全ではないという事になる。


 そんな事、俺は絶対に許せない。

 アリコ、アリミ、アリミアに危険が及ばないようにするのが、今の俺の最優先事項だ。


「情報……ですか? 勇者様に何をお伝えしたらよろしいのでしょうか……?」


「この神秘アルカナダンジョンには魔王が何か防御結界みたいなものを使っていただろう? それが今は暴走状態だと聞いている。その暴走を止めるにはどうしたらいい? 俺はこの神秘アルカナダンジョンを守りたいんだ、頼む、知恵を貸してくれ」


 水龍神リヴァイアサンは思案にふけるように目を細めた。その巨大な体がわずかに揺れ、湖面に小さな波紋が広がる。水龍神リヴァイアサンの静かな息遣いが周囲の空気を震わせるようだ。


「血みどろ勇者がモンスターの巣窟でもある神秘アルカナダンジョンを守ると? それは本当なのですか……?」


「おい、今なんて言った?」


 俺の鋭い目が水龍神リヴァイアサンを射抜く。水龍神リヴァイアサンの巨大な体が微かに震え、その瞳には一瞬の恐怖が走った。


「し、失礼致しました勇者様! その……悪気があった訳ではなく……」


 水龍神リヴァイアサンは深く頭を垂れ、鱗のこすれる音が湖面に響く。その姿勢には普段の威厳が失われ、かすかな緊張が漂っていた。


 俺は一瞬の沈黙を経て、低く言い放った。


「俺はその呼び名……とても嫌いなんだ。まぁいいよ、次言ったら……経験値にしちゃうぞ?」


 俺の言葉に水龍神リヴァイアサンの目がさらに大きく見開かれ、その瞳には恐怖と敬意が混じり合っていた。水龍神リヴァイアサンの口元がわずかに震え、その態度からは本気で恐れている様子が伺えた。


「勇者様、そのようなことは二度と申しません。どうかお許しください。そして、貴方様の質問に全て全身全霊でお答え致します」


 俺は知りたい情報を水龍神リヴァイアサンから聞くことにした。


 まずは防御結界についてだ。


 とんでもない魔力量で作られた防御結界を元に戻すには、人間界にある三つの秘宝が必要だと水龍神リヴァイアサンは言った。


「人間界にある三つの秘宝……? それは具体的にどこにあるんだ?」


 俺は焦りを感じながら尋ねた。三つの秘宝? そんなの勇者だった俺も知らないんだけど。


 リヴァイアサンは静かに頷き、その巨大な体が微かに揺れる。湖面に広がる波紋が、彼の言葉の重みを強調するかのようだった。


「第一の秘宝は光のルミナスミラー。この鏡は光の神殿に守護されているおり、神殿は人間界の北の果て、永遠の氷原の中心に位置しています」


 光のルミナスミラー……北の果ての氷原にあるとされる神殿か。過酷な環境だが、行くしかないか。

 そんな人の寄り付かない所ならもしかしたら……いるかも知れないな。俺たちが潰した組織の残党が。


「第二の秘宝は命のライフスプリング。この泉は大森林の奥深く、生命の樹の根元にあり、樹の守護者たちが泉を守っているとの事」


 命のライフスプリング……。守護者たちがいるということは、一筋縄ではいかないだろうな。


 それに大森林……確か、こうだったな。

 人の踏み入ること許されず、その深淵に足を踏み入れれば、生きる意味を失うエルデンウッド……。


 その言葉を思い出すと、背筋が冷たくなる。

 エルデンウッドと呼ばれるその場所は、古の魔力が満ち溢れ、時間と記憶がねじ曲がる異界。

 森の奥深くに進むほど、現実感が薄れ、魂が迷い、心が道を失うという。鳥たちの歌声が次第に囁き声に変わり、木々のざわめきが幻覚を引き起こす場所だ。


 この不気味な森林を越え、生命の樹に辿り着くには、相当の覚悟が必要だ。

 しかし、それを乗り越えなければ命のライフスプリングには辿り着けない。


 正直、転生前の俺でも単独での突破は厳しいかもしれない秘境だ。


「そして第三の秘宝は風の宝珠エアリアルオーブ。これは天空の城に隠されており、城は常に風に乗って移動しているため、その所在を見つけるのは容易ではないでしょう」


 風の宝珠エアリアルオーブ……天空の城か。それを見つけるには運も知識も必要になるだろうな。

 確か西の大陸の女王が風の巫女だったか? 話を聞きに行くのも一つの手かも知れないけど……今の俺は蛙だし、モンスターだしなぁ。


「この三つの秘宝を集め、それぞれを結界の中枢部に捧げることで、暴走した防御結界を元に戻すことができます……ですが、これは個人的な意見なのですが……」


 ここに来て急に水龍神リヴァイアサンが言葉を濁した。


「どうしたんだ? 個人的な意見でも構わない、続けてくれ」


「防御結界を元に戻す……それは非常に嬉しい事でそれを引き受けてくれるのが勇者様というのは本当に心強いのですが……」


 さらに言葉を濁す水龍神リヴァイアサンに少し怒りを覚えたが、俺は話を静かに聞いていた。


「外にでるのはお勧めしません。外は地獄です、もはや外はあなた様が知っている世界ではありませんし、もうこの神秘アルカナダンジョンが我々にとっての最後の楽園と言っても過言ではありません。ここで朽ちるのを待つ、そういった選択肢もありかと存じます」


「ちょっと待てよ! 外が地獄ってどういうことなんだ」


 俺は水龍神リヴァイアサンに詰め寄った。

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