メシア/一万本の薔薇は愛するニゲラへ








4限目の授業を終えた昼休憩の時間。

瞼は独りでに閉じていくくせ、意識だけは夢現ゆめうつつとは言い難いほどにはっきりとしていた。


肉付きの良くない自身の腕は枕にするには全くの役不足で、仕方無しに脱いだカーディガンを間に挟み、眠気が自身を夢の中へ突き落としてくれるまで、辺りに耳を傾ける。



耳に入ってきたのは、ワイシャツが擦れる音に混じった何人かの女子生徒の笑い声と、誰かが窓を閉める音に、椅子や机が擦れる音。

と、お世辞にも子守唄には向いていないような雑音だった。


しかしながら、窓際から吹く生温い風と、春の日差しと言わんばかりの光に体を照らされていればわけが違う。今の私は実質ゲームの無敵状態と変わりない。寧ろ、そんな小煩い雑音でさえも、今ならオペラやクラシック音楽のように眠気を誘発する材料にさせてしまえた。




嬉しいことに、今現在の私の眠気レベルはピークに達しており、これには幾ら鋼の精神力を備えた人間でも耐えられるものではない。もはや、ここまで来てしまえば人類に抗うすべはないのだ。端から抗う気もさらさらなかった。




私は渇望していた心地の良い眠気に身を委ね、ぬるま湯に浸かるかのような感覚とともに、意識を沈ませた。





ガン。



いや、バン。のほうが正しいかもしれない。


自身の机に振動が走った。それも、明らかに人為的に起こされたものだ。




鉛のように重く感じるまぶたを無理やり押し開け、机を叩いたのであろう人物の手を視線で捉えた。そして、その手に沿うよう上へ上へと目で辿る。

辿っていくと予想通りの顔が見え、私は頬を緩ませながら、その人物に『おはよう』と一声かけた


すると、目の前の少女もまた、同様に頬を緩ませ微笑んだ。その表情はまるで聖母のような、それでいて一つの芸術品のようだった。




「おはよぉ白髪」




少女は言った。




「おはよう凛ちゃん。今日もかわいいね。

メイクと乳液変えたんだね」


「なんで分かるのぉ?…あいも変わらずマジ気色悪いなお前、」




少女は一瞬、注意を払う用に周りを見回すと、綿花のように柔らかな笑顔を歪めた代わりに、道路で轢かれて死んだゴキブリを見るかのような表情を向けてきた。




「ありがとう」


「褒めてねぇーよー?なーんで早く死なねぇーのかなぁこのクソ犯罪者予備軍さぁー」




長いブレザーの袖を手の平と指の腹で挟んだまま、半分が隠れた手を口元にやる可愛らしい姿からは想像もできない様な数々の棘が、容赦なく飛んでくる。

一般人なら酷く傷心して崖から飛び降りるか、一周回って何かに目覚めてしまうかするものだろうが、私にとっては会話をしてもらえるだけで嬉しいから、この攻撃も効果はない。




彼女の名前は姫野凛。私の唯一の幼馴染にして現役ぶりっ子だ。


ぶりっ子。と言うと聞こえが悪いが、彼女のぶりっ子はそこいらの通常ぶりっ子とは訳が違った。彼女のぶりっ子は、基本的に常時発動。つまり、男女年齢関係なく一部例外を除いて常にぶりっ子をしているのだ。



その一部例外と言うのは言わずもがなこの私なのだが、それ以外ならば少したりともボロを出さない、最強のぶりっ子だった。更に、普段の彼女は誰にでも気さくに優しく接し、元の性格もさほどあくどいものでは無い上、自身より勝っている人間がいたとしても、それを追い越せる努力をする努力家ぶりっ子。


つまり、とんでもねぇ逸材だった。




しかしながらここまでの会話を聞いてわかる通り、私は彼女にあまり好かれていない。基本学校内で話しかけられるとしても、殆どの要件は遠巻きにパシリにれという命令だけだ。



それでは何故、私だけがそのような扱いを受けているのか。

その理由は色々とあるのだが、一番大きな要因は周りの人間の中で唯一、ぶりっ子になる前の彼女を知っているからだろう。


前述した通り、私と彼女は幼馴染であり保育園時代より前からの付き合いだ。だからもちろん、以前の彼女の事は良く知っているし、なんなら今の彼女の事も陰ながら応援しまくっている。




そんなわけで、私は自ら彼女のパシリに成り果てているわけだ。



しかし、そんな古くからのパシリだからこそ気づいたことがあった。それは、今日の彼女の表情だ。


普段の彼女は、堂々と、しっかりとした上下関係を醸し出しながら命令してくるのだが、今日に限ってはそれがない。どちらかといえば、その表情には何処か憂鬱とした雰囲気がある。



これは相当な異常事態ではなかろうかと、緩んでいた顔を戻した。彼女は自身の限界ギリギリまで活動する癖があるから、こういうのは勿体ぶらず、早いとこ本人に聞いてしまうのが吉だろう。





「えーと。そんで凛ちゃんはなんか私に用事でもあるの?わざわざ学校でこの時間帯に話しかけてきたってことは、そこそこ急用みたいだけど」




そう聞くと、彼女は眉を寄せて更に表情を軽くさせ、心底うんざりそうに喉を震わした。




「…あー…これさ、3組の赤坂の下駄箱においてきてぇ?」



「告白?」



「んなわきゃねぇだろハゲ。凛あいつに今日も合わせて計20回告られまくってるからぁ、しっかり文面にして断ればわんちゃんあるかなっていう淡い期待だよぉ」



「良くもまあ君もそんな丁寧に断るよね。いい加減暴言の一つや2つ吐いたっていいんじゃない?それかいっそ相手の顔面でも殴りゃ良いのに」



「お前ほんと論外なぁ?」





そう言って真っ黒なツインテールをふわりと揺らし、呆れと怒りを滲ませながら睨まれる。これに関しては流石にそりゃあそうかと思えた。

長年パシられ続けていれば、彼女が今までどれだけ苦労してここまでの人物像キャラクターを作り上げてきたのかは、本人の次に良くわかる。



彼女は自身の幸せのため努力を惜しまず、元の自分に黒布を被せ表舞台から降ろさせた。メイクもスキンケアも体型維持も欠かさずに日々を過ごし、人間関係も良くなるようにいつも本を読んでいる。いわば、今の彼女は彼女自身の努力の結晶そのものなのだ。

それを今更全てぶち壊しにするなんて、なかなかに精神がガンギマりしている状態でなければそうそうできないだろう。



彼女がそこまでする理由は、中学時代に一度、本人に聞いたことがあった。当人が言うには『イケメンで性格の良い玉の輿を狙うため』らしく、正直これが中一の思考回路なのかと耳を疑ったのは今でも覚えている。


だが確かに、彼女の家はそこまで裕福でない上、過去には父親の家庭内暴力やら、それが原因で母親のヒステリックの集中砲火を受けたりだとか。現在は母方の祖父母の所へ預けられているから良いものの、彼女が今の思考に固執する理由は明白だ。




まあ、何にせよ告られた張本人が告ってきた人間の下駄箱に手紙を入れるなんて状況。誰かに見られでもすれば、翌日には学校全体がその話題で持ちきりになるだろう。


架空にも思える程美しい造形をした彼女は、火のないところにすら煙を起こしてしまえるし、そんな自体になってしまえば今までの彼女努力は水の泡に帰すかもしれないのだ。



だからこそ、火事になったとしても特段ダメージが少なく、自分で消火器を叩き割って鎮火できる私に頼んだのだろう。




そこまで考えてみたが、元々彼女からの頼みを断る気など毛頭なかった私は、彼女の指に挟んでいた真っ白な洋封筒を受け取り、ギギギと椅子がこすれる音を聞きながら立ち上がった。





「まあ取り敢えず、手紙これを赤坂の下駄箱にぶっ込んでくればいいのな。てか、そんな困ってんなら最初から私に赤坂殴らせても良かったんじゃない?」



「いやそれはそれで停学か退学になるんじゃないのぉ?

まあ凛はお前が学校に来なくなったほうが嬉しいけどねぇ」



「あははっ、ありがとう」



「だからぁ褒めてねぇつってんだろクソ白髪ぁ?」




脇腹のあたりを蹴りあげられ、『とっとと行ってこいよ』と催促されながら、扉の前まで足を運ぶ。





「あ、そうだそうだ。凛ちゃんそろそろ誕生日でしょ?なんかほしい物ある?凛ちゃんの欲しいものなら私の臓器でも何でも良いし、なんかお願いとかでも良いよ」



「うーん、なら何もいらないがお願いねぇ?去年みたいに薔薇1000本とかとち狂ったプレゼントはごめんだよぉ?」





やっと戻した顔を再度顰め、何処か遠いような目をする彼女に、薔薇の数が足りなかったのだろうかと思った。確かに、彼女の家へ出向いて花束を渡した時もこんな顔をしていた気がする。





「そっか。なら今年は5000本にしよう」



「てめぇ頭腐っとんのぉ?シャープペンシル両耳にぶっ刺したほうが良いんじゃない?」



「凛ちゃんにやってもらえるなら本望だよ」





そう言って笑えば、今度は『吐き気がするから今すぐ失せろ』と言われ、教室から廊下へ蹴り飛ばされた。



通常ならここで友情やら何やらはぶち壊れていることだろうが、私達の場合は割とこれが日常会話だ。問題は全くない。とは言っても、早いところ任務を遂行させなければ少なくとも2ヶ月は存在ごと彼女に無視され続けるだろう。

実際、以前同じような事があった際に2ヶ月半居ないものとして扱われたことがある。


あれには流石の私もダメージが大きく、雨上がりで氾濫寸前の近場の河川へ身投げしかけた。結局、あの時は通りすがりの彼女からドロップキックを食らい、右の肋骨が4、5本粉砕するだけで済んでしまったが、もしまたそんな事態になってしまったら色々な面で耐えられる自信がない。




そういうわけで、兎にも角にも善は急げだ。さもなくば次はラリアットが飛んでくるかもしれない。そう思い片足を踏み込むと、ふと、足にチクチクと硬い物が刺さる感覚がして、その場で踏みとどまった。



試しに痛みがする方のポケット部分を触ってみると、元凶であろう物体がある。ただ、そんな物理的に尖った物体をポケットに入れた記憶は全くなかった。


手を突っ込んでスラックスのポケットまさぐり、ガサガサといつのだか分からないレシートごと手の平に乗せ、レシートをかき分ける。すると、例の元凶らしき硬い物の正体が明らかになった。



その小さな物体は、紫を含んだ水色の花びらと針のような形状の葉を携え、小さいながらも自身の存在を主張するかのように光っている。



痛みの正体はニゲラだった。



本物ではない、花弁やがくが端整な硝子細工でできたその造花は、淡く光を透過して、私の手に自身の色を斑に映す。




数秒その光景を見つめ、一体どこでこれを手に入れたのか頭を巡らせた。


少しの間過去の記憶を辿っていると、先週の土曜にショッピングモールへ買い物に出かけた際、たまたま気分転換で寄った雑貨屋で買った。という光景が頭に浮かんでくる。

普段なら見向きもしないアクセサリーのエリアで、このニゲラのピアスが妙に目に止まって、気がついたらレジへ足を向けていたことが鮮明に思い出せた。



確か、ニゲラの花言葉は未来と不屈の精神だ。

他にももっと花言葉があったような気もするが、その記載があった記事を見たのはもう随分前で、おまけに私は興味のないことはすっかり忘れてしまえる便利な脳味噌を持っていた。




試しに私は、そのニゲラのピアスを左耳につけ、窓に映った自分とイヤリングを見てみた。

薄く窓に映るピアスは私が頭を動かすのに合わせ、ゆらゆらと左右に揺れる。髪も肌も色素が薄いお陰で、壊滅的に似合わない。などという事態にはなっていなかったし、寧ろ色合いが自分と良く合うようにも思えた。



しばしばそのまま窓を眺めていると、教室の方向から強い視線を感じ、パッと前屈みにしていた体勢を戻して、扉の前に立つ彼女からの睨みを利かせた眼差しに手を振り、悠々した気分と階段までの道のりを歩く。



そうして、耳に微かに感じる重みに鼻歌を歌って目を細め、肩に掛かる脱色された後ろ髪を揺らしながら、階段をリズム良く降りた。いつの間にやら霧がかった眠気が消え失せ、瞼は力を入れずとも開くようになっている。




今年の彼女の誕生日には、彼女の好きなブランドのアクセサリーをあげようか。それと、薔薇もあげよう。数は一万本が良い。


まあ、一万本と言っても、全て生花のまま渡してしまえば迷惑だろうし、一万本のうちの幾つかは髪飾りや栞の装飾分を含めておくのが良さそうだ。

生花に関しては、少し経ったらドライフラワーにでも加工しておこう。そうしたらそのいくつかもインテリアにできそうなものに加工にすれば良い。




硝子に縁取られた生明るい春の光に目が痛む。


私はその光を遮るように瞼を細め、予定のチャイムが響く階段を駆け下りた。

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