「第五十話」タタリガミの現実逃避

 魂の無い死者の拳が、生者の鳩尾を貫いていた。


 嘔吐のような音を立てながら垂れていくそれらは、単純な血液の赤だけではない。

 黄色や黒、人体の欠損において普通では見ない……いいや、絶対に出てはいけないものまでが零れ落ちていた。


「……ぁ」


 あまりにも小さな声を最後に、今を生きる凡人の手足がだらんと垂れる。

 糸の切れた人形のように、壊れた玩具のようにぶら下がっていた。


 かつて在った天才はそれを顔色一つ変えずに突き飛ばす。

 抉りこませた拳を引っこ抜き、邪魔だと言わんばかりに蹴り飛ばした。


 宙へと追いやられ、地面を跳ねて転がり回りながら凡人は遠ざかっていく。

 その身に詰まっていた血液やら何やらが、命の破片を道連れに飛び出ていく。──岩にその身をぶつけた後、腹に穴が空いたその体は動かなかった。


(ぁ)


 俺は拳に黒炎を握りしめていた。


 血と臓物に汚れた片腕がそれを受け止め、払い、その倍の一撃が叩き込まれる。──重い。でも、あんまり痛いとかそういうのは無かった。


 腹にめり込んだ薄汚い拳を掴み、俺は思いっきり振り回した。

 掴んだその瞬間には豪炎を、華奢な身体を振るう力に加減などしない。


(ぁぁ、ああぁ)


 振り回し、振り回し、振り回し続け。

 思いっきり、叩きつける。……振り回していたはずのそれは、両足で地面を踏みしめ着地していた。──掴んでいたはずの俺は、逆に掴み返されていた。


(ぁー、ぁあぁ)


 投げられたと言うよりは、殴り飛ばされたというのが正しいのだろう。

 俺の顎に叩き込まれた強い衝撃は、不規則に回る視界を更に複雑にしていた。


(ぁぁぁあああぁ)


 誰もいないはずなのに、さっきから叫び声が聞こえる。

 目も耳も何もかもがおかしく揺れているのに、それだけはしっかりと分かった。


「っぁああっぁぁぁああっぁあぁっぁあああああああああああああ!!!!」


 叫んでいるのは俺だ。

 叫ぶのを止められないのも、もう止めるだけの理由も意思も空っぽなのが俺だ。


 砕けた顎が軋もうと、ズレようと。

 震える喉から血が零れ出て、溺れるぐらいに吹き出したとしても。


 もう、どうでもいい。というか考えたくない。


「ぁぁぁああぁぁぁぁぁあああああぁぁっぁあぁぁぁあああっぁぁぁぁあ!?!?!?!」


 分からない。

 分かりたくない。


 ああ、放った黒炎の拳が地面を焼く。

 土だろうが石だろうが木だろうがなんだろうが、この一発で全部纏めて黒焦げだ。


 意味がない、何の意味も未来も無い!


 壊すことは容易いことだ、終わらせることは簡単だ。

 誰かが命懸けで信念を以て生み出した何かの形を、意味を、全てを否定すればいい。


 否定するのは実に容易い。

 そして、それには何の意味も無い。


 それでいい。

 俺は、これから全てを否定する。


「ぁぁぁぁぁぁぁあああああああああああああああああああ!!!!!!」


 俺にとっての太陽が無い、この世のすべてを。




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