「第四十四話」タタリガミの妥協
土埃が風に散らされ、視界が晴れていく。
風に靡く美しく長い黒髪、白魚のように美しい肌。全体的に華奢な体躯をしているものの、実際には怪力無双と俊足を併せ持つ天性の肉体であった。──何より、だ。その身に流れる莫大な霊力は、最早人間の範疇に収まるような質ではない。
単純な出力だけで言うのであれば、彼女より表れ揺らぐその力は太陽神すらも凌ぐほどだった。
「に、げろ」
刀で鳩尾を突き刺された久遠が、口からどす黒い血の塊を吐き出す。あれだけ周囲を埋め尽くしていた妖気や穢れた神気は底をつき、新たに現れた純然たる霊力によって支配されていた。──ぐりゅっ。そんな音を立て、刀の切っ先が肉をずらして抉った。
「がぁっ、あぁっ」
「っ、久遠!」
カゲルは放心していた自分の四肢に喝を入れ、苦しむ久遠とツバキの方へと飛んだ。
(出し惜しみはしない。一撃で、一瞬で! 纏めて焼き尽くす!!)
「『天──」
拳を構え、間合いに入ったぐらいだろうか。
視界の中に残っていたのは、今にも倒れて膝を突きそうな久遠だけであった。
(消えっ)
振り返るよりも考えるよりも早く、その違和感を知覚すると同時に視界が揺れた。震えて、回った。気づけばカゲルは山ではなく空を見上げるような形で仰向けになっていた。
「え、あっ……ぐっ、あああぁぁぁっっっ!?!?!」
体中が一斉に悲鳴を上げ始めた。骨が折れている? いいや、腕が拉げている? 四肢はくっついているか? 腸は飛び出ていないか?
痛みによる発狂と僅かな理性の間で揺れ動きながら、カゲルは歯を食い縛りながら立ち上がる。まだだ、まだ死ねない。ようやくこのクソッタレな何かに踏ん切りがついたんだ!
顔を上げた瞬間、鼻っ柱に膝蹴りが迫る。
「──っ!?」
横に飛び回り、着地と同時に横薙ぎの斬撃。後方に転げ回れば再び斬撃……斜めに前に右に左に回避を繰り返し、そこには油断も隙も許されない重圧があった。
避けても避けても、カゲルの視界にチラつく『死』の予感は消えない。それどころかより明確に、はっきりと。高鳴り乱れていく脈と呼吸によって鮮明になっていく。
怖い、と。カゲルは認めざるを得なかった。
何なんだこのバケモノは、これが本当に愚かな人の子なのか? 単純な霊力の出力だけで完敗? 素早さも一撃の重みも何もかも、人どころか神が束になったって敵わない領域に両足を突っ込んでいる。
過去に存在した異物としては、余りにも今の今まで爪痕を残しすぎている。
これが、天道ツバキ。
妖魔を容易くあしらい、神を地に叩き落とし、自らこそが唯一にして別格の最強であると態度と実力を以て示す、神をも凌駕する人の極地。
「く、そ、がぁぁぁっぁあっっ!」
怒りによってようやく体が動いた。振り下ろされた斬撃を身を捩ることで避け、間合いを一気に詰める。黒炎を握りしめたカゲルの拳は、そのままガラ空きの鳩尾に吸い込まれ。
とすっ、と。
彼女が自分の髪を纏めるために使っていた簪によって、突き刺された。
「──待、って」
一瞬の動揺、それが決定的に流れを変えてしまった。
下がるのと同時に振るわれた斬撃を避けきれず、咄嗟に空いていた片方の腕で受けるしかなかった。灼けるような痛みが一閃、肘の上辺りから生温かい鮮血が零れ出る。
「っぅ、っ」
それでも攻撃は終わらない。
斬撃に怯んだカゲルへの追撃。ツバキは刀を振るった手首を返し、そのまま反対方向へと切っ先を光らせた。斬られた腕の表面がまたもや開き、生々しい傷口となった。
「くっ、ぁあぁぁあァァァ!?」
それでも攻撃は終わらない。
悔し紛れの反撃に出たカゲルの拳は遅く定まらず、容易く横に流され体勢を崩した。
隙まみれの右肩に振り下ろされる重撃は肉を抉り、骨に突き刺さったところで手首が返される……べきり、と。生々しい音を立て、カゲルの腕はだらんと垂れ下がった。
「──が」
痛みに悶え、喉の奥から叫声が放たれるその刹那。
それでも攻撃は終わらなかった。詰めすぎた間合いを最大限に活かす、莫大な霊力を握りしめたただの真っ直ぐな拳。それが無様に開いたカゲルの口の中にめり込み、そのまま殴り飛ばしたのである。
面白いぐらいに吹っ飛んでいくカゲルには、強さや神としての威厳は一切含まれていない。その様子はむしろ滑稽であり、無様であり、一方的で面白みに欠ける暴力だけがあった。
「……」
口元、口内の感覚がめちゃくちゃになっている。
歯が数本折れたとかそういう次元の話ではなかった。顎が外れて口を閉じられず、無様にぶら下がった下顎が揺れ動きながら、ダラダラと血の混じった涎を垂れ流していた。
疾さでも。
一撃の重さでも。
全てに置いて手も足も出ない。
「……」
顎をやられたからか、衝撃が脳にまで伝わってしまったようだ。カゲルの脳内はまるで嵐の海に浮かぶ小船のようで、進むべき方角を定めることすら出来ずにいた。──それでも、攻撃は終わらなかった。
迫る足音。適当に血払いをしながら近づいてくるツバキ。
(……ああ、そうか)
間合いを詰めるツバキの顔を見てカゲルは気付く。
目の前にいるのはツバキであって、ツバキではないことに。
より正確に言うのであれば、カゲルの目の前にいるのは『ツバキの魂を入れた人形』という表現が正しいだろう。死者蘇生の手順を十分に踏み、それに必要な全てをかき集めて注ぎ込んだ……恐らく人類の歴史の中で、最も上手く行った黄泉返りだろう。
生前、しかも全盛期の肉体をそっくりそのままに復元して。
神をも斬り伏せる絶技、それを可能にする出鱈目な身体能力を劣らせること無く。
ただ一つの問題のみを残し、成功している。
(ごめん、久遠。お前はどう足掻いても報われなかったみたいだ)
魂が宿っていたとしても、それは肉体の形を定めるための設計図に過ぎない。
目の前にいるツバキの人形は。喜びや悲しみ、人間が持っているであろう心と呼ばれる全てが欠落してしまっていた。
その身を殺戮に動かすのは怒りでも、憎しみでもない。
ただただ、偽りの肉体から抜け落ちていく神気や妖気を、他を食らうことで補おうとしているに過ぎない。
どれだけ仕草が、足運びが、呼吸がツバキのものであったとしても。
こいつは、ツバキなんかじゃない。
正真正銘、今度こそただの化け物だ。
「……」
カゲルを見下ろす目は、あの時と同じだった。
冷たく、無表情。
好きとか嫌いとかではなく、無関心。
興味が無いから、どうでもいい。
「……」
天から振り下ろされる白刃を見上げながら、カゲルは素直に『死にたくない』と思った。燻ったままの激情、共に苛まれ続けた戦友の最後。自分の胸ぐらを掴み、問答無用で未来へと引き摺り引っ張ってくれたアイツの顔。
(……嫌だ)
死ねない。このまま消えるなんて有り得ない。
ようやく救われたんだ、救われるって腹を括ったんだ。差し伸べられた手を掴んでおいて、中途半端に背を向けるのか? ──否、そんなことは許されない。どうせアイツのことだ、きっと意固地になって手を差し伸べ続ける……差し伸べ続けてくれる、そうしてしまうのだ。
(まだ、死ねないっ……!)
カゲルは一人の孤独を、締め付けられた胸の痛みを知っている。
だからまた自分が一人になるのは嫌だ。何よりもアイツを、天道ヒナタを一人にしたくない。──死ねない、死んではいけない。これからたんまり救われるべき自分のためにも、そんな腹一杯の幸せを馳走してくれるアイツのためにも。
「っ、ああああっ!」
振り下ろされた斬撃を、残った腕を伸ばして掴む。勢いを殺しきれず、手首辺りにまで刃がめり込む……血が滴る、鋭い痛みが熱を帯びる。──思わずその痛みに、顔が歪んだ。ああ、なんということだ。こんな、こんな馬鹿みたいな作戦がここまで綺麗に上手く行ってしまうとは!
──喰らいやがれ、クソッタレ!
「う、あ、ぃあああれぇえええぁぁぁぁぁっッッッツ!!!!」
刃が刺さったまま、腕を乱暴に振り回す。当然それは避けられる……いいや、カゲルは避けさせたのだ。
無理な回避をした結果、天道ツバキの握りしめた刀の刀身は真ん中あたりでへし折れていた。
「へへっ……!」
腕に刺さった刀身を引っこ抜き、カゲルは薄ら笑いを浮かべてみせた。
戦場において得物を叩き折られるというのは、剣士にとっては致命傷に等しい。間合いの管理も、一撃の重さも、最も長く戦える呼吸も全てが根本から崩れ去る。
極端に例えるのであればそれは、素手で戦う戦士から腕を引き千切ったようなものだった。
とはいえ、だ。
「……畜生め」
致命傷とはあくまで比喩の話。カゲルの体がこれだけ致命傷を負ってボロボロになっているにも関わらず、対するツバキは何食わぬ顔で折れた得物の先端を眺めていた。
無傷、無動揺。
状況が好転したわけではないということを、カゲルは歯噛みしながら認めるしかなかった。
死ぬ、今度こそ完璧に死ぬ。
ここまで手酷くやられているのだ、回復は絶対に間に合わない。傷口を蝕むツバキの霊力があまりにも強すぎて、俺の神気を真正面から全て殺してしまっているのだ。
「……顔色一つ変えねぇんだな」
本来ならば今頃完治しているであろう傷口を虚ろに睨みながら、俺は迫りくる殺戮人形に言葉を投げかけた。眉一つ動かさない冷ややかな表情はとてもじゃないが人間とは思えなくて、いかにもツバキらしいと鼻で笑った。
(虚しい笑いだな)
例え折れた剣であろうと、ここまでの至近距離ならば関係ない。
いいやそもそも得物がどうとかそういう話ではないのかも知れない。剣が折れれば素手で、素手が使えなくなれば足で……少なくとも俺には、目の前の怪物の肉体が傷つく瞬間を想像できない。
無敵だ、余りにも無敵すぎる。
信仰の大半を失ったとはいえ、神としては最上位の力を持つ自分でも刃が立たない。
カゲルは悟った。自分はすぐに殺され、そしてこの人形の血肉となるのだと。
最強格の神としての神気、最凶たる祟神としての邪気妖気。それら全てを取り込むべく、ずたずたに引き裂かれ食い尽くされる。
ふと、カゲルはツバキから目を逸らした。
正確にはその奥に血で描かれた禍々しい陣、その上に寝かされていたはずの少女を。──いない。そこにはもう、誰もいなかった。
「……意味は、あったな」
少しの悲しさを拒もうとして、やはり受け入れた。それ以上に湧き出てくる安心感、そして自分がここで死ぬ気で踏ん張ったことに対して見出された意味や結果が、あまりにも輝かしいもので、嬉しくてたまらなかったのだ。
もう、あの時とは違う。
守るために戦って、その結果見下され気味悪がられて捨てられたあの時とは違う。
これでいい、これでいいんだ。
折れた刀身の先端が振り下ろされ、カゲルは今度こそ瞼を閉じた。
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