「第三十九話」『俺』と怨念渦巻く祟神
既に私は『私』ではなくなっていた。踏み入れてはならない心の在り方はどこにもなく、私はひどく普通で健康的な意識を共有していた。──分かる。今の私は『俺』に……カゲルになっているのだろう。
『……!』
『俺』は走っていた。真っ暗闇な森の中を、人里の屋根の上を、困惑と恐怖を感じながら。
──できないやつができる私を邪魔するのって、それはつまり私が救えたはずの人間を見殺しにしてるのと同じだと思うの。
あれはなんだ、あの言葉の意味はなんだった?
──祟神は全員殺したし、村の人間たちもまぁ生きては……いたと思うし、何か問題あるの?
あの不満そうな顔はなんだ? 馬鹿に対して向ける蔑むような目はなんだ?
『俺』はなにか間違ったことを言っただろうか。──否、そんなことはない。あってくれなかった。
『俺』が抱いているこの悪寒は、恐怖は、未知に対する動悸は。
全て当然にして必然であり。
同時に彼女の、天道ツバキが歪んでいるという事実を指し示してしまっていた。
『……くそっ』
思えば、あの日からそうだった。
『百鬼夜行』。千を超えるほどの魑魅魍魎共が群れを成し闊歩する地獄を、たった一人で捻じ伏せ切り捨ててしまうその実力……ではない。違う、彼女の異常さを示すのはそんな生温く分かりやすいものではない。
まず「自分一人でこの災いは鎮められる」という判断を下している。その時点で彼女の倫理、常識は根本から破綻しているのだ。
如何に自らに神をも捻じ伏せるほどの実力があることを自覚しているとはいえ、視界を埋め尽くすほどの妖魔の群れを真正面から殺戮するなんて考えには絶対に至らない。
彼女の実力は異常だ。
だが彼女の中に巣食う常識は、それが霞んでしまうほどに歪んでいた。
『……違うだろ』
そこじゃない。
そこじゃないだろ、気にするべきは。
そうだ、決めたじゃないか。あの日あの瞬間から、『俺』は天道ツバキという人間だけの神になった。そして苦楽を共にし、共に戦い続ける中で愛が生まれた、彼女はそれを受け入れてくれたじゃないか。
狂った倫理がどうした。
自分より弱い人間を見下すことの、何が悪い。
愛がある。神と人、根本から違う二つの命を繋ぐ糸がある。
好きでいる理由なんて、これだけあれば十分だ。
『……ツバキ』
戻ろう、戻ってちゃんと謝ろう。
小さく息を吐き、『俺』は踵を返そうとして──。
『──おい』
黒炎。揺らめく自らの権能をその拳に纏い、振り返ると同時に撃ち放つ。
草木を薙ぎ払う爆風は凄まじく、周囲一帯に風と闇を撒き散らした。夜の闇すら生温く感じるほどの常闇が広がり、霧散し……水に溶けた絵の具のように薄く儚く伸びていく。
牽制なんて生温いものではなく、初手から殺す気で撃った。自分に殺意を向けた者を、自らは黒い太陽の神である自分と対等であると傲った不届き者への天罰として。
たとえ相手が人間であろうが妖魔だろうが、神でさえも『俺』の黒炎は消し飛ばす。まぁ、俺のことを偽物だの悪たる太陽だのと罵り憤ってきたあの餓鬼なら、話は少しだけ違うかも知れないが。──決着が着いた。その、はずだった。
『あ?』
黒く焼け焦げた土の上、そこには異物が立っていた。
人間のような貧弱な見た目をしているくせに、身に纏う妖気や瘴気は悍ましかった。かといって妖魔のように破壊衝動だけの存在だとは思えない。
『お前、人間だったよな?』
禍々しくどこまでも汚く在るそれを、『俺』は『神』として認識していた。
いいや違う、こいつは。
『……ああ』
人間でもない、妖魔でもない。
どちらかと言うと神のような存在は、答えた。
『正確には、「元」人間だがな』
今、この瞬間。
杜門久遠と呼ばれていた人間だったなにかは、既に怨念渦巻く祟神としてその場に立っていた。
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