「第三十八話」祟神の祝福
土の上に血で描かれた陣、その中心に寝かしつけられた二つの人の形。
片方は心の臓が脈打つ生者。
胸のあたりを上下させながら、安らかに気を失っている。
もう片方は歪なる人形。
祟神の骸や怨念によって形成されたそれは、並の呪物や祟りをも凌ぐほどの禍々しさを秘めていた。
「……いい天気じゃないか」
呪いと激情に焼かれながら、久怨はふと涙を滴らせる。
視線の向こう側は空、どこまでも遠く澄んでいる蒼空。
人も、神すらも存在しなかった時代からそこに広がり、全てを視続けてきた星の一部。
「私とお前がツバキを花火に誘った時も、鬱陶しいぐらいに晴れていた」
「……」
無防備に背を向けながら、久怨は背後の黒い太陽神に対して語りかけた。
向けられた殺意など気にする素振りもなく、まるで親しい友人に向けるような……そんな距離感で発せられる声だった。
「私の約束は当然のように放置され、ツバキはお前との約束を守った」
無論、この穢れに満ちた一人と一柱の関係はそんなものではない。
敵、禍根、互いに殺すべき対象に過ぎず、両者にあるものと言えば、今の醜態を晒す理由が双方とも同じ人間に抱いた憎しみだということだけなのだから。
「そう、思っていたのだがな」
久怨はそれら全てをひっくり返すかのごとく、振り返る。
見据えた白髪の神の表情は、正面から見た魚のように虚ろだった。
「……そうか、お前も」
言い留まり、その続きが紡がれることはなかった。
侮蔑や嘲笑とかそういうくだらない態度や素振りを見せること無く、ただただ瞼をそっと閉じながら……鏡を見るような目で滅入っていた。
「カゲル、私達は被害者だ。あの女に心を乱され、穢され……そして祟神として生きながらえてしまっている」
最早久怨の中に、カゲルに対する敵意は無い。
寧ろ逆だ、これは同情からなる仲間意識だった。
同じ狂気の存在に身も心も殺され、今もなお心を蝕まれ続ける同士に対しての……海のように深く広い理解と同情。
「それでも私達は愛してしまっている、憎み続けている。ツバキを、善悪を超えた倫理を持って生まれてしまった怪物を。──だから」
穢れた女は手を差し伸べる。
同じく穢れた、穢された祟神の方へ。
「一緒に会いに行こう。私は、そのために悪に成った」
カゲルはその慈愛に満ちた表情を見て、この女が自分を騙したり貶め入れようとしているということは絶対に無いと確信した。
心からの言葉、嘘偽りの無い裸の心……妬む対象かと思いきや、自分と同じ傷を舐め合える哀れな被害者に向けられるその目には、若干の喜びも見え隠れしていた。
彼女がやろうとしているのは、人の理も神の理も遥かに超えてしまっている。
造作もない、できないわけではない……だが積み上げてきたその倫理、理の安定と安寧を守るために暗黙の了解の下一度たりとも成されなかったそれが、今まさに行われようとしている。
それも、誰であっても止められないような堅牢さを持って。
きっと頷けば、それは成される。
そして彼女は、天道ツバキは再びこの世に顕現するだろう。
どんな形であれ肉体があり、叩き起こされた魂の籠もった存在が。
「……ありがとう、杜門久遠。優しくて愚かで、一途に死んで生き続ける人の子」
だから、選んだ。
「大丈夫、俺はもう救われてる。決めたんだ、ちゃんと救われるって。……差し伸べられた救いを、諦めて掴むって」
迷っていた、数十秒前まで。
この口が、声帯が、魂が震えだすその直前まで。
だが天翳日蝕神は……カゲルは、選んだ。
救われることを、前を向くことを。──そして、自分と同じだった優しく愚かなこの少女を、何としてでも解き放つと。
「……そうか」
直後、彼女の背後から無数の『穴』が開く。
底無し沼のような、奈落のような濃厚な闇を深々と称える虚空。──それらは其処より顕れた。蟻地獄から這い上がる蟻のごとく。
「残念だ、本当に残念だ」
蟷螂、牛首の異形、蛇のような龍。
手足の生えた大顎、一角の醜い人形、筋骨隆々の巨体。
歪にさせられた祟神も、歪そのものである妖魔も区別なく出てくる。
「……本当に残念だ、だが──」
おめでとう。
吐き捨てるような祝福をかき消すかのように、視界を埋め尽くすほどの祟神が差し向けられた。
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