「第三十六話」落ちぶれ巫女と頭突き

 周囲を取り囲む空気が重いと感じたのは、これで何度目だろうか。


 立ち並ぶ木々の隙間から吹いてくる風は緩やかで、しかし決して穏やかな物などではない。

 その鈍さ、遅さはまるで迫りくる足音のようで、するりと体の表面をなで去っていく度に寒気と鳥肌が止められない。


 間違いない。

 久怨は、この先にいる。


「手、震えてんぞ」


 そう言ってカゲルは、手の甲をコツンと私に当ててきた。

 触れた箇所からじんわりと熱が広がっていき、自分の手が信じられないぐらいに震えていることに気づく。


 いや、手だけではない。 

 足は立っていられないほどにガクつき、顎はガチガチと歯を鳴らしている……誤魔化していた感情の流れが、少しずつ溢れてきているのだろう。


「……別に、お前がわざわざ命張ることじゃねぇと思うけどな」


 そう言って、カゲルは私より一歩前に出た。


「待っててくれよ。そしたら、心置きなく暴れられるから」


 吐き捨てて進むその背中が、魔境へと足を踏み入れていくその後ろ姿があまりにも様になっていて、腹を括って覚悟を決めきっていて、私は……つい、彼の襟を掴んで引っ張ってしまった。


「どわっ!? ……あっ、ぶねぇな! 何すん──」


 頭突きだ、これは頭突きだ。

 おでこが当たる前に、ちょっと鼻とその下が触れ合っただけなのだ。

 私はそのまま口の中に入り込んできた生意気な唇を、思いっきり齧ってやる。

 二度とそんなふざけたことが言えないように、前歯を思いっきり突き立ててやるのだ。


 一切動かなくなったカゲル。いい気味だ、顔が真っ赤になってやがる。


「……ふん」


 私はそっぽを向いて、顔にそよそよと風を送った。

 呆然と立ち尽くしているであろうカゲルの顔を嘲笑ってやりたいが、まぁ私も鬼ではないし……とりあえず、考えを巡らせるぐらいの時間は与えてやろうではないか。


「──は?」

「っ、何よそのなんとも言えない反応ォ!?」


 冷静に振る舞っていた筈なのに、あっちのほうが慌てふためくはずなのに。

 いつの間にか私の方が顔を真っ赤にしていて、カゲルは驚いてこそいたものの理性と平静を保っていた。

 その済ました顔が、私のとっておきを食らっておきながら大した変化をしないその顔が、私にはなんだかものすごく癪に障った。


「……だから」

「え、なんて?」

「……はぁ」


 駄目だ、もう無理だ。──この野郎、ふざけんなよ。


「死ぬ時は、一緒だから」


 どうしてこう、こいつは直接言葉にしてやらないと伝わらないのだろう。

 馬鹿みたいに強いくせに、私よりも何百年何千年も生きているくせに、神様のくせに。


「……いいや、違うね」

「?」

「死ぬまで、一緒だ」


 頬を少しだけ緩め、察しの悪い馬鹿野郎は何食わぬ顔でそう言った。

 常人であれば赤面必須、いいやそもそも詩人ぐらいしか絶対に言わないような臭い台詞を。


「……」

「何だよその顔、俺なんか変なこと言ったか?」

「……あんたさぁ」


 恥ずかしいとかそういうの無いんだろうなぁ、こいつ。

 この顔は本気で困惑している。

 多分、何を言ってもピンと来ないのだろう。


 このまま会話を続けても私の顔面が真っ赤になるだけだ。


「ああもうなんでもないっ!! ほら、さっさと行くよ!」

「おっ、震え止まってんじゃん」

「うっさい! 終わったらアンタマジで覚えときなさいよ!?」

「ははっ、そうだな。全部終わったら、俺も……」

「何よ」

「ん、なんでもねぇよ。──来るぜ、抜きな」


 軽やかな声色が、重く圧し掛かるような警告へと変わる。

 それを捉えた私の肩、腕、指先の動きは迅速だった……腰に差した鞘へと伸びた左腕、そして右腕は柄を抜き放つ。

 深い黒を称える刀身、切っ先が、僅かな震えや揺れもなく眼前の敵を捉えていた。


「わざわざお前の方からお出ましとはな、腐っても杜門家のお嬢様だってか? 礼儀だけはきちっとしてるみてぇだな」


 悲しみ、苦しみ、憎しみ、恨み、妬み、怒り。

 それら全てを総じて、祟り。

 その権現たる存在が、人の皮を被ったまま歩いてくる。


「思ったよりも、早かったな」


 久怨、いいや。


「杜門、久遠……!」


 つり上がっていく口角は、まるで糸で引っ張られているかのように奇妙だった。


「会いたかったぞ、ツバキ!」


 その眼はこちらを見てはいるが、決して私を見ているわけではない……初めから自分という存在が否定されているような怒りを感じた。


「違うぞ、久怨」


 一歩前に、間合いを詰めようとして。


「こいつはヒナタだ。ツバキじゃなくて、天道ヒナタなんだ」

「……カゲル」


 恐れるな、と。

 そう言ってくれた気がした。


 私は彼の背中ではなく隣に立ち、目の前にいる厄災を睨みつける。


「……ああ、そうか」


 久怨はひどく納得した様子だった。

 即座に襲いかかってきた前回とは打って変わり、冷静に側頭部を擦りながら思考を巡らせている……不気味だ、余りにも気味が悪い。


 自分の知らないところでなにか、恐ろしいことが始まっているような気がした。


「訂正しよう、黒い太陽の神よ。確かにその小娘はツバキではない……」


 侵された笑みが、目の前に飛んできた。


「──だが、血は繋がっている」


 考えるよりも前に、身体が行動を起こす。


「ふっ」


 短く息を吐き捨て、身体全体を斜め下に捻る。

 向かってきた拳は空振り、私は懐に潜り込む形で肘を入れ込む。だが、手応えはない。


(受け止め……っ!?)

「ツバキなら今のd

「『天喰』ッ!」


 黒炎を纏った飛び蹴りが真横から突き刺さる。勢い余って木々を薙ぎ倒し、そこら中に呪いの残滓をばら撒いていくのが見えた。

 何にせよ助かった。


「あり──

 ──がとう。そう言い終わる前に、私の身体はカゲルに担がれていた。


「ちょっ、えっ!? カゲル!?」

「逃げるぞ!」


 私が質問を投げかける前にカゲルは森を駆け抜ける。木々をすり抜け、川を飛び越え……それを追うように揺れと邪気が迫ってくる。

 いや、そんなことよりも。


「下ろしてよカゲル! これじゃあ……戦えないよっ……!」

「駄目だ!」

「どうして!?」

「アイツの狙いはお前だったんだ!」


 はぁ!? 訳が分からないまま走るのをやめないカゲル。

 私が狙われている? なんで?


(……あれ)


 そういえば、と。

 私は素朴で、しかしまず知っておかなければならない何かがあることを思い出した。


「……ねぇ、カゲル」

「喋んな、舌噛むぞ!」

「久怨って、何がしたいの?」


 一瞬、カゲルの歩幅が乱れた。

 黙ったまま走り続けるカゲル。私は敢えて無言のまま、自らを抱える神に圧を掛けた……私には知る権利がある、と。


「……ツバキだ」

「ツバキ?」

「アイツは祟神と、ツバキの血を引いてるお前の魂を使って死者蘇生をしようとしてるんだ! なんてこった、俺がもう少し早く気づいていれば……!」

「ちょ、ちょっと待って!? 私の魂を使って死者蘇生? 何言ってるか分かんないよ!」

「とにかくお前だけは戦っちゃ駄目なんだ! 久怨のことだ、相打ち前提でお前の魂を獲りに来る!」


 駄目だ、カゲルは嘘をついていない。

 きっとこの馬鹿げた話は徹頭徹尾真実であり、それが成されれば恐ろしい事が起きるのは確実……何よりカゲルのこの戦慄した様は、それが絶対に起きてはならない禁忌であることを告げていた。


「とりあえず一旦逃げる。どんな形であれ、今この状態でツバキが敵に回ったらぜんb

「意外だな。てっきりお前なら、私の計画に喜んで協力してくれると思ったのだが」

「っ!?」


 目視するより前に、カゲルは拳を突き出した。


「甘いな」


 しかし動揺した拳の軌道は容易く読まれ、穢に穢れた渾身の一撃を叩き込まれた。


「が”ッ」


 吹き飛ぶカゲル、抱えられていた私はそのまま空中に放り出され、無意識的にだるま落としを連想するような感覚だった。──背後から、白く華奢な腕が迫る。


「っ!」


 刃を振るう、ほとんど我武者羅に振るう。

 振り返りざまに身を捩って振るった切っ先は頬を掠めるが、それでも彼女は笑っていた。

 恐ろしく、ひどく楽しそうに。──足元に、違和感。見るとそこには、祟神の腕らしきものが地面から生えていた。


(しまっ……)

「ようやく、だ」


 それは殴るでも蹴るでもなく、優しく柔らかに抱きしめてきた。

 けれどそこに安心感や母性のようなものは一切感じ取れなかった……そこにあるのは本能が咽び泣くほどの恐怖、危機感。


 そして多くの命を踏み台にしても構わないという歪んだ欲望だけだ。


「お前のお陰で、私はツバキに会える」

(いき、が)


 邪気が、妖気が。

 頭の中を、思考の隅から隅を穢していくそれらは、身動きの取れない自分にはどうしようもなかった。──たすけて。小さくそう呟くこともできないほど、私の五感は侵されてしまっていた。


「────!」


 誰かが叫んでいる。

 ああ、遠くなっていく。とてもとても深いところに、『私』が沈んでいく。

 けれど、抗えない。


 藻掻き疲れた私は力尽き、そのまま深い意識の底へと引きずり込まれていった。




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