「第三十五話」落ちぶれ巫女と胸を刺す嫉妬
浮上する、私の意識は浮上する。
深く暗い夢に似た記憶の底から、今私が生きている現実へと。
ひどいものを見てしまった。
夢のくせにはっきりと思い返すことができるだけに、脳裏にはそれに対する衝撃と、脳が焼けるような嫌悪感がはっきりと残っている。
あの時の私の視点は第三者でもあり、『私』という主観に限りなく近い位置でもあった。
故に、私は私としての意思や感情の揺れ動きを保ったまま、『私』……いいや、あの記憶の持ち主である彼女としての五感や思考を全て共有していた。
私としては共感できないような考えも、『私』として共有した意識の中では共感するしかできなかった。
気持ち悪い。
仕方が無いとはいえあんな酷い考えに対して頷ける部分が、自分の中に少しでもあるという現状がたまらなく気持ち悪い。
あれは、まず自己の解釈の範疇でしか常識を作れていなかった。
愛情は無関心に、好意は悪意に。
善意から成立する親切など何もなく、そこには必ず対価や代償がなければならない。
他人から無償で向けられる温かなはずの感情は、彼女にとっては例外なく『自らに向けられた悪意』として認識される。
実際に何を言われたか、されたかなんてどうでもいい……問題はその人物や行動に対し、彼女がどういった印象を抱いたのかが問題なのだ。
故に、彼女はカゲルを心の底から『親友』として認識していた。
絆で結ばれることを否定し、互いの命綱に刃を押し当てたような……そんな、そうせざるを得ないような関係、即ち利害一致による契約こそが、彼女にとっての『信頼関係』だった。
狂っている。
そんな安直な言葉では言い表せないほど、彼女は正気だった。
理性を持ち、自我を保ち、個人を形成する倫理観の中で生きていた。
「……」
霧がかかったような視界が揃っていき、その中でしっかりと像が結ばれた。
小さく火花を弾けながら揺らぐ焚き火、それの放つ眩い光とせめぎ合う夜の闇。
ちょうどその境目を取り仕切るかのように、彼は胡座をかいて座り込んでいた。
「カゲル」
「おっ、起きたか」
そう言って彼はその場で立ち上がり、私の方へと歩いてくる。まだなんとなく微睡んでいる私は、ごしごしと目を擦りながら起き上がった。
「ごめん、寝ちゃってた?」
「思ってたよりお早いお目覚めだったけどな。一時辰よりちょっと少ないぐらいか?」
そう言って、カゲルは何かを顔の前に差し出してきた。
受け取るとそれは笹で包まれており、中を開けるとほんのりと鼻腔をくすぐる甘い香りと共に、柏の葉で包んだ可愛らしい餅が入っていた。
「腹減ったろ? 俺は自分の分食ったから、お前の分」
「うん、ありがと」
小さくお礼を言ってから、餅を齧る。
柔らかくもっちりとした食感が歯に伝わり、中に入っているあんこの甘さが舌の上で踊る。美味しい、本当に美味しい。
菓子好きのフウカが持ってくるものも美味しかったが、これは別格に美味しい。
「美味しい! ……でもあれ? カゲルってお金持ってたっけ?」
「ん? ああ、アマテラスんとこでかっぱらってきたんだ」
「……ありがとね」
最早声を荒げる気も起きなかった。
こいつのことだから多分神棚からパクってきたんだろうなぁとか、今すぐにでも罰が当たりそうだなぁとか……色々考えることが多すぎて、私は考えるのをやめて餅を完食することにした。
畜生、美味い。
そりゃそうだ、神様に捧げるものだから美味いに決まっている。
「うし、じゃあ腹ごしらえもしたとこだし行くか」
カゲルは私に背を向ける。
焚き火の方へと向かっていき、水を張った桶の取っ手を掴む。
「……ねぇ」
「ん?」
「ツバキって、どんな人だったの?」
叩きつけられた水が灼ける音がした。
光は瞬く間に縮まり消えていき、闇の中で揺らぐ白い煙と、まだ熱を帯びている燃えカスだけが残っている。──カゲルはそんな残ったモノ達を見つめながら。
「……視たんだな」
「うん、視た。久怨もいたよ、今とは全然違った。すっごく素直そうな人だった」
「……そうか」
ただただ、そうなんだなと頷いていた。
「まぁ、お前には関係の無い話なんだがな」
それで感情が揺れることはなく、なにか特別なことを想ったりすることもあるわけではない。
ただ彼は納得し、その上で何も言わなかった。それか、何も言いたくなかったのかもしれない。
「どうだった、アイツは」
故に、カゲルは逆に問うてくる。
最早アレが何なのか論じる必要など無い、俺はもう全て知っているから。……そんな風に、私には見えた。
「正直、最低だった」
「だろうな」
「認めるんだね」
「事実だからな」
てっきり怒り狂いながら殺しにでも来るのかと思っていたがそうではないらしい。
そうであって欲しかったと願う自分もいる、そしてその願いは叶わず……私はこの目で、今も尚彼の心の中で燻り続ける何かを視ていた。
「友達だったんだ」
そう、彼が言っていることは正しかった。
天道ツバキと天翳日蝕神は契約関係に有りながら、その中で確かに友人としての関係を構築し保っていた。──それの関係が『親愛』によるものから、『恋愛』として昇華されることはなかった。
「気づいてなかったか、見て見ぬふりをされたのかは分かんねぇ。ただ……」
言いかけて、カゲルは言葉を紡ぐのをやめた。
「よく聞け、ヒナタ」
圧。それは懐かしく、それでいて互いの距離を感じさせる恐ろしいモノ。
神と人、男と女、正気と狂気、数千年を生きたかわずか十数年か……埋めることも誤魔化すこともできやしないような圧倒的な差を、改めて思い知らされた。
「お前が『視た』のはもう何百年も昔の話だ。知ったとしても知るだけなんだ、そういう事実があったってことを」
──だから。振り返り、白髪の神は言う。
「同情は捨てろ。久遠は、人間としてのあいつはもういない。居ない者は救えない……どうやっても、救えないんだ」
話は終わりだと言わんばかりに、カゲルは更に水を焚き火だった何かにかける。
勢いよく煙が立ち昇り、消えて、また昇っていく。
(カゲルは、優しいなぁ)
そりゃあ勿論、久遠だって被害者だ。
相手との距離の詰め方に若干の難はあったが、それでも印象の悪い人間ではなかった。少なくとも、あんな扱いを受けるような非はどこにもなかった。
それをしてもいいと、当然の結果だと心の底から思っているツバキには、同じ人間とは思えない不気味さを感じる。
でもそれは、カゲルも同じだということを忘れてはいけない。
彼は久怨を救えないと言った。
自分たちを殺そうとした存在に対して、『救う』という考えが当たり前のように口から出てきたのだ。
多分それは同じ苦しみを今も味わい続ける同士への同情なのだ。
同じ人間に対して同じ感情を抱き、その想いを全身全霊を以て伝えて……それを冗談として無下にされたことへの、理解であり同情。
同じ立場、同じ悲しみ、同じ憎しみを胸に燻らせながら。
今も尚嘆き恨み囚われ続けている同士の境遇を、心底憐れんでいる。
仮に久怨という存在が、最早魂ではなくツバキへの執着によって成立し突き動かされているのであれば、それを開放する方法はただ一つに限られる。
そして皮肉にも今回、それを直接行えるのは同じ過去に囚われ続けているカゲルだけなのである。
(じゃあ、久遠がいなくなったあと……誰があなたを救ってあげられるの?)
彼は優しい。
彼が自分で思っているよりも何倍も、何十倍も優しいから。
だから多分そういうことをちゃんと分かった上で、彼女を救おうとしているのだろう。
「……」
それでも、だ。
それでも私は、考えてしまうのだ。
彼が久怨を殺……いいやその手で救った後、彼が浮かべるであろうなんとも言えない表情を。自らが救った同士の安らかな亡骸を見つめながら、彼が見せる感情を。
「……関係ない、か」
全くその通りで、それ以上でもそれ以下でもない。
彼が求めている救いとは、それ即ち彼の想いが成就することである。
故にそれは永遠に叶わない、なぜならその想いの矛先は天道ツバキただ一人……そして彼女は数百年以上前の時代を生きた人間であり、既に人として受けた命を使い切って土に帰った人間だけなのだ。
天道ツバキにしか、彼が愛した存在にしか彼の魂を救うことはできない。
蚊帳の外にいる私が、彼の求める救いの代わりになることはできない。
(ああ、これは)
どうすればいい? 否、どうすることもできない。
「……いいなぁ」
遠ざかっていく背中が、振り返ってくれることはない。
だから私は追いかける。
せめて少しでも、彼の近くにいたかったから。
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