「第三十三話」『私』のたった一人の大切な友だち


『私』が目を開けると、そこは森の中だった。

 風に揺れる木々は燦々と照らされ、緑は深く色濃く生命を謳歌している。肌をうっすらと濡らしている汗、逃れる術のない暑さ、そして鼓膜から脳を震わせ続けるこの鳴き声は……ああ、夏だ。そうに違いない。


 いや、おかしいだろ。

 今の季節は冬だ。百歩譲って秋だとしても、こんなにクソ熱いこともそれを助長する蝉共の音害が冬にあるわけがない。奴らは土の中で冬眠しているはずだ、絶対にありえない。


 ……でも、そこに違和感を感じない『私』がいるのも事実だった。


 自分の身体のような感覚があり、しかし自分の意思では指一本動かすことは敵わない。

 何一つ知らないはずなのに、何もかもがひどく懐かしく思える。


 ああ。

 また、こんな感じの夢。……いいや、正確には違う。

 私が『私』として成立し、その記憶や体験を擬似的に追体験する……ような、何か。これが何なのかは分からないし、何がどうしてこうなっているのかも分からない。だが一つだけ確かなのは、この記憶が自分以外の誰かのものであり、私はそれを『私』として遡り体験して──。


『えいっ』

『ひゃあっ!?』


 ひやり、と。じっとりとした暑さを突き破るかのように、蒸れた襟と背中の間に冷たい何かが放り込まれた。背筋が凍るとは良く言ったものだ、完全に予想の外側から来た奇襲の効果は絶大で、これには流石の『私』も驚いたようだ。


『冷たぁっ!? ナニコレ氷!?』

『あはははははははっ!』


 全身に鳥肌を立たせながら右側に飛び上がり、『私』はようやく服の中に入り込んだ氷を取り出すことができた。それはどこからどう見ても間違いなく氷であり、こんなクソ熱い季節では絶対にお目にかかれないような代物なはずだった。


『あはっ、あははっ……ふーっ、ふーっ……あー面白い』


 見るとそこには、桶を握りしめたまま腹を抱えて笑っている久遠が立っていた。『私』と同い年とは思えない程の色気や妖艶さが漂う姿、しかしそれとは裏腹に崩れる表情や行動はあまりにも幼く純粋で、それが寧ろ美しい対立を生んでいて……同じ人間というより、精妙に作られた人形のような印象を抱いてしまうほどだった。──いや、待て。


 久怨だ。

 私が、カゲルが……共に明日を迎えるために倒さねばならない敵が、目の前にいた。


『また貴女か……毎回毎回、普通に話しかけられないんですか?』

『何言ってるのツバキちゃん! これは私の貴女への愛情表現なんだよ!?』

『は? 愛情?』

『ほら……好きな娘には、意地悪したくなっちゃうものでしょ……?』


『私』は内心滅茶苦茶目の前の女をぶん殴りたいと思っていたものの、このクソ暑い状況がマシになったのは事実だった。なんとなくありがたいと言えばありがたいとも思えてしまったため、怒りを握りしめた拳はとっとと解いた。


『……それで? 今度はどんな任務ですか?』

『任務?』

『……はぁ』


『私』はため息をついた。


『いつも言っているじゃないですか。任務や命令以外で私の所には来ないでくださいと』

『そんなお固いこと言わずにさぁ、もっと心を開いてくれても良いんじゃないかな?』

『まるで私達が友達であるかのような言い方ですね』

『え、違うの?』


『私』は顔には出さないものの心底うんざりしていた。この人はいつどこにいても必ずやってくるし、その度に話をしようだとかどこか一緒に行こうとか行ってくるし。

 まぁその度に美味しいものとか面白そうなものを持ってきてくれるため、そういう意味では別に悪い気はしないのだが……今回の悪戯は、少々癪に触った。


『じゃあ、今日から友達ね! 私は杜門久遠! 貴女は天道ツバキね、よろしく!』

『……』


 流石に今回ばかりははっきり言わなければならない。

 私は意を決し、表情を少し強張らせ……って、ん? なんだ、それは?


『ふふん、気になるでしょ』


『私』の顔を見てニヤつく久遠。悔しくて思わず目を逸らし、しかしやはり桶の中にあるそれが気になって……バレないように、その中身は何なのかを探った。

 そんな『私』の魂胆などお見通しだと言わんばかりに、久怨は桶の仲のそれを出してきた。──それは、大きな氷の塊だった。


『……? 涼むにはちょっと足りなくない?』

『うん? ……あーそういう考えもあったね。まぁ別にこれで涼むというのもそれはそれでいいんだけどさ、今回はそういうつもりで持ってきたわけじゃないんだよね』


 そう言って、久遠は虚空に手を伸ばす。見るとそこにはいつの間にか黒い穴のようなものがぽっかりと開いており、彼女はその薄気味悪い穴の奥に容赦なく手を突っ込んだ……何かを探すように腕を動かし、あれでもないこれでもないとブツブツ呟いている。


『おっ、これだこれだ』


 お目当ての代物を掴んだ彼女は、そのまま穴から腕を引っこ抜く。その手にはなにやら取っ手のついた箱のようなものが握られていた。私には、それがかき氷を作るための氷削機だということがなんとなく分かった。


『んん? なんですかそれ??』

『ツバキちゃん、貴女は確か甘党だったね?』

『なんで知ってるんですか??』

『いいからいいから、どうなの? 好き? 嫌い?』

『……まぁ、うん。好きだけど』

『──そ、そっか』


 なんか急に赤面したぞこいつ。きもっ。

 どうやら『私』は、あまり久遠のことを良く思っていないらしい。確かに久遠は距離感がおかしいところはあるものの、そこにあるのは善意や親愛であり、決して悪意のようなものは含まれていない。


『じゃあさ! ツバキちゃんって苺と蜂蜜、どっちが好き?』

『??? ……蜂蜜、ですかね?』

『よぅし! じゃあ、ちょっとそこで待っててね!』


 何がなんだか分からないまま、久遠は取り出した箱のような何かを平らな石の上に置く。背中で隠れてて何をしているのかは分からないものの、ガリガリと何かが削れるような音が聞こえてくる……気になるような、なんだかもうどうでも良いような。

 既に『私』は彼女の持ってきた物に関心を失い、今直ぐにでも家路についてしまおうかと思っていた。


『できた!』


 そう言って、久遠が振り返ってくる。『私』は満面の笑みの久遠と、彼女が両手に持ったまま差し出してくる物を見た。……なんだこれ、皿の上に積もった雪? 上に蜂蜜がかけられてるけど、まさかこれ食べ物なのか?


『早く食べて! 溶けちゃう!』

『ええっ!? いや、ちょっ……ああもう!』


 焦った『私』は、思わず差し出された雪のような何かを受け取ってしまった。うるうると子犬のような目で見つめてくる久遠、流石にこのまま捨てるのも忍びなく、『私』は刺さったさじで一掬い……蜜の絡まった雪を、口の中に放り込んだ。


 ──冷たさ。それは、火照った顔周りの熱を優しく奪っていく。

 ──蜂蜜の甘味。それは、少し癖のある焼けるような幸福を口いっぱいに広げていく。


『……』

『どう!? おいしい!?』


 こっちを見てくる久遠、目を星のように輝かせながら、綻んだ『私』の表情を舐め回すように至近距離で見てくる。


『……おいしい、です』

『──っ、やったぁ!』


 両手を上げて飛び上がり、その場で舞うように喜ぶ久遠。それは神に捧げる神楽のように美しく、流麗で、加えて彼女の心の動きが生き生きと全面に表れていた。

 そのまま彼女も、『私』と同じ物を手に、『私』の隣に座り込んできた。そのまま蜂蜜のかかった雪を、非常に美味しそうに口の中に運ぶ。


『美味しいねぇ』


 この久怨は幸せそうだ、と。私は素直にそう思った。

 私が対峙した時とはまるで別人だ。数百、下手すれば数千年ほどの時が経っているとはいえ……あまりにも変わりすぎている。本当に、本当にこの少女があの久怨なのか? 本当にこんな、純粋さの権化のような生き物があんな……悪意と恨みに満ちた大怨霊に成り果ててしまうのだろうか? にわかには、想像しがたい。


『……そうですね』


『私』は、甘くて美味しい雪を食べながら、ふと思った。

 多分こいつ友達いないんだろうな、と。

 こんなんだから疎まれて、嫌われて、避けられて……任務で一緒になる私ぐらいしか関われる人間がいなくて、だからこんなに必死になってしがみついてくるんだ。


『……ねぇ、ツバキちゃん』


 なんて可哀想なんだ。


『私達って、友達だよね?』


 だったら、助けてあげなければ。


 こいつの話はつまらないけど。

 こいつの悪戯は嫌で嫌で仕方ないけど。

 本当はこいつの為にわざわざ『私』の時間を削って与えるのは惜しいけど。


『……そうですねー』


 まぁ、しょうがないといえばしょうがないだろう。

 だって『私』はどうしようもなくお人好しで、こういう自らのあれを自覚ができない困った人種を見捨てられない性分なのだ。


『……そっ、かぁ』

『うーん』

『実は、ね。ツバキちゃんが初めてなんだよね、友達』

『そうですかー』


 適当に甘い雪を掬って口に運びながら、なんとなく『私』は相槌を打っていた。思った通り、こいつは人の話を聞かないから話が通じない。それなら別にそれっぽいことを言ったり反応してやらなくても、別に問題はない。──現に『彼女から見れば』会話は成立している。内容を一切理解せず、その全てを聞き流していたとしても。


『……ねぇ、明日空いてる? 隣町で花火が上がるから、その……一緒に見に行こうよ!』

『いいんじゃない? ……えっ?』

『やったぁ! じゃあ、また明日ね! 約束だよ!?』


 待って。そう言って手を伸ばした時には、もう久遠の背中は森の奥へと吸い込まれていった。


『ちょっ……待っ』

『おっ、いたいた』


 追おうとしたのも束の間、後ろから聞こえてきた馴染の有りすぎる声が、『私』の後ろ髪を物理的に勢いよく引っ張った。勿論その結果体勢を大きく崩し、そのまま後頭部から地面にすっ転ぶ。


『痛ァ!?』

『なんで俺から逃げるんだよ。ってか、早く立てば?』

『っ……あなたねぇ!?』


 仰向けの『私』を、太陽を遮るような形で覗き込む白髪の青年。──その正体は天翳日蝕神、略してカゲル。何やら黒い太陽とやらの神であり、『私』が手合わせしてもなんら過不足のない立ち回りをしてみせる実力を持っている存在。


 そして何より『私』の大切な、たった一人の友達だった。

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