「第二十八話」落ちぶれ巫女の答え

 血が滴っている。

 刃によって抉り開かれた傷口から、真っ赤な鮮血が零れ出ていた。

 

 それらは地面にひたひたと雫を垂らし、染み込み、やがて乾いて黒ずんでいく。

 先程まで命と密接に関わり、その循環を担っていたはずのそれは、その輪から弾き出されたことによりその輝きを失ったのだ。


 命が。

 肉体と魂を繋ぎ止める糸が、ほつれ解けていく。


「……久しぶりだな」


 突き刺さった刃を伝い、落ちていく鮮血の流れを静観しながら、この国の最高神は目を細めた。

 見据えているのは親父。──いいや、正確には。


「我が禍根にして、この国の災禍。黒き太陽の神、天翳日蝕神よ」

「おいおい、ひどい言われ様だな」


 正確には、その背後に立つ白い神を睨みつけていた。

 華奢にも筋骨隆々にも見えるその腕は空にて静止しており、振り下ろされた処刑人の刃をその身で受け止めていた。


「こっちはわざわざ、人助けのために来たんだぜ?」

「……ぁ」


 親父は、死んでない。

 彼がその身を呈して、刃を受け止めてくれたから。

 

 痛みも苦しみも顧みず、躊躇いなくその身を犠牲にしてくれたから……親父は、一滴の血も流すこと無く息をしている。

 

 だから、生きている。

 その事実が、私を包み込むような安心感を与えてくれた。


「……貴様」

「親父さんの恨み言なら後で聞く。……ってか、そろそろお前も退けよ」


 処刑人の男はそう言われ、今も尚血を吹き出し続けるカゲルの腕を凝視した。

 暫くは殺意や敵意を向けていたが、やがて彼は刃を引き抜き……そのまま下がっていった。


 片手の血を振り払いながら、カゲルは俯く親父の方を叩いた。

 親父は小さく嗚咽を漏らしながら、他人の血で染まった地面を見つめていた。

 

 どこからともなく、装束姿の男が二人やってくる。

 彼らは親父に肩を回し、優しく……とにかく丁重に、どこかへ連れて行った。


「さて、と」


 そう言って、カゲルは私の方を見る。

 そのまま何の遠慮も警戒もなく、それが当然だと言いたげに土足で踏み込んでくる。──不味い、このままでは。


「──やめろ、手を出すな」


 アマテラスの低い声。

 次の瞬間、カゲルめがけて走り込もうとしていた昨晩の男が立ち止まる。

 

 疾い、疾すぎる……その足を止めるまで、振るう刃も足運びも、風が動く様子でさえ全く感じ取ることができなかった。


「だってよ。おら、分かったらとっとと失せろ」

「……祟神風情が」

「言ってろ、人間畜生が」


 接吻でもするのかと思うほど詰められた間合いでの睨みに対し、カゲルは容赦なくツバを吐きつけた。


「……」


 震える男の表情筋、しかし彼が感情の赴くままに剣を振るうことはない。 

 彼は分かっているのだ、目の前にいる神は、その気になれば自分が知覚するよりも前に決着を七回程着けることができるということを。


 実力があるからこそ、分かるのだろう。

 この男は強いが、それでもこのカゲルという異質にして異常なまでの強さを誇る神には、到底及ばないのだ。


 やるせない殺意と怒りを押し殺し、渋々去っていく男の背中を、カゲルは嘲笑う。そのうえできちんと手を振って見送り、満足げに腕を組んだ。


「血の気があっていい巫だな。お前の護衛として侍らせとくより、前線に出したほうがいいと思うぜ?」

「同意見だが、彼本人がそれを拒否していてね。──誰よりも貴方様のお近くで剣を振るうべく、努めて参りました。なんて……まぁなんとも愚直に一途で可愛らしい坊やだと思わないか?」


 それは対話ではなく対峙だった。

 龍と虎、天と地、海と山、光と闇……この場合において、二柱の神と神はお互いの誇る威厳と力を存分に誇示し、互いに互いを威圧し合っていた。

 両者一歩たりとも引かず退かず、自らこそが強者であり正義であるという真実を宿していた。


 一触即発とは、まさにこのことだった。

 もしかしたら次の瞬間には戦いが、この周辺……いいやこの国の大半を更地にする程の殺し合いが始まるかも知れない。

 そうなってしまえばまず私は死ぬ、親父も死ぬ、ライカもフウカも死ぬ……みんな、死んでしまう。


「……」

「……まぁ、だよな」


 えっ? 間抜けな声を出した私のことなど気にもかけず、カゲルはため息をついて後頭部をボリボリと掻いた。

 その目線は既にアマテラスに向けられてはおらず、未だにアマテラスはカゲルを睨みつけている。


 書物を読み漁っていて、こんな話を読んだことがある。


 獣は同族同士の縄張り合いにおいて、力や身体の大きさなどで勝敗を決めることが大半である。

 なぜならそれは最も単純であり、明確であり、種の反映という別側面の重要な役割をも同時に果たすことができているからだ。


 しかし動物の中には、力も身体も尺度として使わずに、勝敗を決めるものもいる。──睨み合い。先に目を逸らしたり、後退ったりしたほうが負けという実に単純な決闘方法。

 互いの胆力をぶつけ合い、持てる全てを以て互いを威圧し、その果てに勝者を決する。


「なにか策があると思っていたのだがな」


 この二柱の睨み合いは、そんな獣同士の戦いに酷似していた。

 そして、私の最後の切り札であるカゲルは、その勝負に負けてしまったのだ。


「いかんせん、拍子抜けだ」


 その目は、まるで虫ケラを見るかのような冷たい氷のようなものだった。

 そこには勝利に対する喜びや高揚感はなかった。

 怒り、失望、そして単純な不快感を露骨に滲み出し、全身で自らの中で渦巻く『不快感』を主張している。

 多少とはいえカゲルに対する期待があったのだろうか? 彼女の小さな眉間に寄った皺を見ると、その表情はどこか悲しげなようにも思えた。


「今の貴様が我と全力で殴り合ったとしても、結果など目に見えているだろう? まさかとは思うが、相打ちに持ち込めるとでも思っていたのか?」

「ガタガタ震えてるガキに言われても説得力ねぇなぁ」

「──」


 その殺意は、床を壁を天井を揺らす。

 眉間の血管が浮かび上がったその形相は、子供のような愛らしさを喰い破って出てきた鬼のように恐ろしかった。

  握りしめた拳に、爪が食い込む。痛みを感じていなければ、気が狂いそうだった。


「そうキレんなよ、俺達の仲だろ?」

「……お前は消えなければならない。この世からも、民の記憶からも……貴様のようなバケモノに怯えながら暮らすのは、もう、私だけで十分だ」


 その目に宿る光は、大義名分を胸に宿した者のみが持つことを許されるものだった。


 アマテラスが言うことは、考えてみれば全て正しい。

 カゲルはこの国の中枢を担う太陽神である彼女に恨みを持ち、明確な殺意を示している。

 加えて私一人の信仰のみで信じられないほどの強さを発揮するような、存在としての格が根本からかけ離れている。


 私から見れば味方だったから頼もしいことこの上なかったが、そうだ。

 この国からしてみれば、カゲルは今も尚肥大化し続ける脅威でしかないのだ。


(……だけど)

「どういう事情で天道家と契約したかは知らんが、その関係も今日までだ。──おい」

「ひっ」


 カゲルに向けられていた言葉が、急に私の方に向いてきた。私は思わず背筋を正し、不格好にアマテラスに向かい合った。


「まだ名前を聞いてなかったな、名は?」

「てっ、天道ヒナタです!」

「ヒナタ、日向……常に日の向かう場所、か。いい名前だな」

「えっ、あっ……ありがとう、ございます?」


 なんで急に名前なんか聞かれたんだろう? 恐怖の中に入り交じる混乱を整理できないまま、私はカゲルとアマテラスの顔を交互に見た。

 片や厳しくもう片方を睨みつけ、片や不敵にそれを薄く笑っていた。


「ヒナタ、お前我と契約しろ」

「え、ええっと……」


 ヒナタ。オマエ、ワレトケイヤクシロ。

 ひなた。おまえ、われとけいやくしろ。

 ヒナタ。お前、我と契約しろ。


「……ええっ!?」

「聞こえなかったか? ならもう一度言ってやろう……命令だ、天道ヒナタ。我と、この太陽神アマテラスと契約を結べ」


 突然言われたことが、あまりにも突拍子もないこと過ぎて言葉が出ない。

 ただただ瞬きを繰り返すことぐらいしかできない私を見て、アマテラスは更に口角を上げていく。


「悪い話ではないだろう? お前は今よりも何倍も強い神である私と契約し、巫女としての地位を未来永劫確固たるものにすることができる……ああ、一応言っておくがこれは単なる損得だけの話ではないぞ? 私はお前を気に入った、身が竦むような恐れを抱きながらも牙を剥くその蛮勇を」


 座していたその姿勢を崩し、アマテラスは立ち上がる。その一挙手一投足は実に美しく流麗で、同時に周囲の神気をかき乱し撹乱していく。


「そんじょそこらの巫女に力を貸してやるつもりはなかったが、お前ならば興味がある」


 差し伸べられる手。

 三、四歩。少し歩いて伸ばせば届くぐらいの位置で、それは私の返答を待っている。


「……」


 多分、こんな絶好の機会は二度と巡ってこない。

 そもそも、多分人間がこんな機会を得たのはこれが初めてなのだろう。

 今までこの神が、天照大御神という最高神が、たった一人の巫女や巫と契約を交わしたことなど一度もない……そんな歴史は、今までになかった。──そう、今この時この瞬間までは。


「嫌です」


 故に、私は私なりに答えた。

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