「第十八話」タタリガミと血の涙
「ふざけんなよ、お前」
焼け焦げ、熱に揺らぐ河原の中心にそれは立っている。久怨が放つ邪気を飲み込む勢いで、この世の全てを覆い尽くすほどの怨念をちらつかせながら。
久怨はそれを見て、瞬時に理解した。
「逆なんだよ」
血涙を滴らせたあの神を、自分は怒らせてしまったのだと。
「逆なんだよぉおぉぉおっっッッ!!!」
その瞬間、久怨は自らに残っていた人間としての性、それが全力で発する悲鳴のような警告に突き動かされた。
「『怨鎖』ッ!」
開く虚空、そこから飛び出し放たれる無数の錆びた鎖。染み付いた呪いはその輪郭をぼやけさせる程にこびりついており、掠るだけでも致命傷は裂けられないことを暗示していた。──だが鎖が飛び出す頃には既に、久怨の視界から白い神はいなくなっていた。
ぞくり。
背後。そこに漂う虫唾が走るほどの神気、それを凌駕するほどにどす黒い妖気……鳥肌が立つほどに真の通った、殺意を帯びた怒り。
「っ……!?」
間合い、距離が生み出す安心感など無意味だった。
そんな直感に基づき、久怨は虚空より祟神を引きずり出そうとした。
「お──」
穴が開くと同時に、吹き出す黒炎。
舞い散る爛れた神の骸を突っ切るのは、灰を被ったような白髪の神だった。
「そいッ!!!!!」
姿勢は低く、殴るというよりは全体重を拳に乗せた体当たりのようなものだった。
しかも、ただの拳ではない。
指と指、握りしめた拳から漏れ出る黒い炎を、久怨は見逃さなかった。
「『天──」
「『黒血眼』……!」
カゲルの拳が振るわれる直前、久怨の頬を血涙が濡らす。直後、血がドス黒く染まっていき……弾け、黒い霧として散布したのである。しかし霧程度で怯むカゲルではなく、鬼の形相のまま霧の中に見える人影を殴りつけた。
「──喰』ッッッ!!!」
収束、同時に弾け吹きすさぶ熱風。その中心にはカゲルの拳、その隙間より来る黒い炎獄の渦……総じて黒い爆炎を伴う一撃は、漂う黒い霧ごと久怨を吹き飛ばした。
「が、はぁっ」
黒い爆炎の中から煙を吹き出しながら、久怨が宙を舞う。カゲルは無防備な彼女にも容赦なく飛びかかり、突き上げるような膝蹴り……それから一回転した踵落としで地上に叩きつけた。──ずどん。重鈍で豪快な音が、大気を震わす衝撃とともに迸る。
「……」
無言のまま、カゲルは着地する。
圧倒的に優勢にも見えるその額には、薄っすらと汗が浮かんでいた。
(畜生、やっぱり硬い)
威力に妥協したつもりはなかった。一撃一撃が山をも抉り、雲で覆われた空を割るような威力……全盛期の自分には遠く及ばないにしろ、並の神や妖魔であれば纏めて殺せるようなものばかりだった。──なのに。
「……流石は、“元”黒き太陽神だ」
砂埃の中からゆっくりと立ち上がる人影。
直後、吹きすさぶ不気味な風によってそれは吹き飛ばされる。
「だが、今やたった一人の信仰のみ……所詮は私の足元にも及ばない」
開けた視界に映るその姿には、傷一つついていなかった。──不敵に笑うその女は、遠回しに『自分が本気を出せばお前など敵ではない』という事実を突きつけ、同時にそれを美酒のごとく嗜んでいた。
歯痒い。
なんとも、歯痒い。
全盛期の自分であれば、この程度の妖魔もどき一撃で消し飛ばせたというのに。だが今はどうだ、信仰を失い神としての座も風前の灯……得られる力の源はツバキと比較する気にもなれないほど貧弱な小娘からのみ。
(このまま戦っても良くて腕一本ぐらいか? それでも負ける……確実に間違いなく取り込まれちまう)
退却。
敗走。
既に朽ちたはずの誇りに、カゲルは今更ながら惜しさを感じていた。
それが、彼の一番の敗因であった。
「……っ!?」
──足に感じた違和感。カゲルが見ると其処には、黒い穴から出てきた腕のようなものが、彼の華奢な足をしっかりと掴んでいたのだ。
「っ、『虚神──」
その瞬間、カゲルの視界は二重に揺らいだ。平衡感覚が崩れ、足元が襲撃を受けているにも拘らず、その場に膝をつく。それを絶好の好機と言わんばかりに、久怨の指先が振るわれる……次の瞬間、カゲルを取り囲むように虚空に穴が入り乱れた。
「死ね」
穴から飛び出す無数の異形。前方に三体、後方に二体……その一体一体が元は多くの信仰を集めた神々であり、しかし今は人間を辞めた未練と呪い塗れの異形、その手駒と化している。
カゲルは今一度、他人の傀儡として自らを殺そうとしている神だった何かを見据える。
「……どけよ」
そこに意思はない。
そこに誇りはない。
そこにあるのは、植え付けられた呪いだけ。
「退けよ」
白い神は吐き捨て、両掌に黒煙を握りしめた。──最大火力。自傷をも厭わない捨て身の黒い火達磨と成り果てた彼は、怯んだ抜け殻の神々を根こそぎ蹂躙していく。
「退けっつってんだろうがァァァァァアアアアアアアアアアアアア!!!」
黒炎に苛まれ悶える祟神の首をねじ切り、残りの胴を向かってくる他の祟神に投げる。千切り、抉り、潰し、刻んで……蹂躙に蹂躙を尽くした。
カゲルは、夥しい数の異形のその全てを殲滅した。
拉げたその身を捩らせている、瀕死の一体を残して。
「神が……人間如きにいいようにされてんじゃねぇよ……!」
身を捩らせるそれの頭を踏み潰し、更に黒炎を伴う拳を叩き込む。
それは死体蹴りなんて生易しいものではなく、痙攣する肉体を塵も残らないほどの獄炎で焼き尽くすという冷酷無比、まさに外道と呼ぶに相応しい所業であった。
「生温い不抜けた神共が、その腐った耳ん中かっぽじってよーく聞け」
「……!」
久怨はその姿に、その立ち振る舞いに今一度戦慄した。
僅かな信仰のみとは思えない圧倒的な強さ、その上で行われる格上の集団への虐殺……徹底的なまでの「神」という概念の重要視。
「神は絶対だ。人と寄り添うことも、その力を貸すこともあっていい……だが、人間が神を超える……いいや、神が人間より劣るなんてことはあっちゃいけない、あり得ない」
しかし彼女は知っていた、その全てはカゲルという神そのものが願った向上心でも誇りでもなく……たった一人、自分以外、しかも過去に存在していたただの人間の小娘一人のためだけのものだということを。
「だからお前は——人間じゃねえ、ただのバケモンなんだよ!!」
それはある意味では最大の称賛であった。
恐らく神という枠組みにおいて、誰も届かないような『最強』を欲しいままにしていた存在が、その両手を叩けるだけ叩いて褒めちぎっていた。
「テメェは、俺が何度も殺して来たんだ。今更お前に殺されたところでたかが一勝。何度もお前を殺してやれる」
それはある意味では尊敬に近い恐れであった。
恐らく神という枠組みにおいて最も多くの信仰を手中に収め、最も多くの人間への恐怖と尊敬を向けられていた存在が、自らをしっかりと抱きしめながら震えていたのだ。
「……なぁ、久怨」
「──ッ」
後退る。恐怖が、喉の奥までせり上がってきていた。
呼び出した祟神を積み上げ、そのぐちゃぐちゃの死体の上で胡座をかいているその存在が、双眸から血涙を滴らせながら告げる。
「どうしても俺を殺したきゃ、ツバキを連れてこいよ」
悲哀に満ちている。
それはとてもとても、優勢に立つ強者には見えなかった。
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