第二章 青春の酸っぱすぎる果実

第7話 その後のとある日常

 わたし──羽鳥なぎさの朝は、まあまあ早い。


 目覚ましは午前七時に鳴る。ベッドからむにゃむにゃ寝言をいいながら、わたしはとりあえず手さぐりでスマホをさがす。

 見つけたら、アラームをスヌーズ。あと十分待って、また鳴る。止める。鳴る。これをだいたい三回は繰り返すのが五月病の常。


 すると、次は別のアラームが鳴る。

 七時半の合図だ。


 わたしはその音が鳴るとさすがに「ヤバい」と思ってスマホを見る。案の定、七時半だった。うっかりしてるとこれが八時になっているからあなどれない。

 ただ、それはさいきん滅多になくなった。なぜかと言えば──


 ノック音。おっと。


「渚さん、おはようございます。いつもの朝ごはんとお弁当、リビングに置いてありますから」

「んー」

「今日はだし巻き卵が良い感じに仕上がってます。熱いうちに食べたかったら早く起きてください」

「ぬー」

「それじゃ、今日は一限授業なんでそろそろ出る支度します。常備菜は好きなの選んでくださいね」

「むー」


 言われてみれば、だし巻き卵のいい匂いがする……はっ。

 起きなきゃ。

 ベッドからようやく布団をいで、なんとか身体を起こす。おふとんの重力場が強すぎてまたうっかり寝そうになるけど、今日はなんとか踏みとどまった。そのまま這い出るようにベッドから降り立つと、パジャマのままリビングに向かった。


 開けたそこには、訳あって居候いそうろうの大学生:香田夏樹くんがいた。靴下を履いているところだったみたい。


「おはよう」

「おはようございます」にこっと笑う。


 夏樹くんとは、同棲、というほどイチャイチャはしてない。むしろ親戚の子供を住まわせてやってる感じ。でも、実態としては面倒を見られてるのはわたしの側で開始数週間もしないうちに日頃のだらしなさを隠せなくなったと言うだけの話だった。

 わたしもさすがにそれじゃだめだって自覚はあった。だから、少し話し合って、正直になることにした。だらしないのはもう素なんです、ゆるしてください、てね。


 夏樹くんには色々ご迷惑をお掛けしていて申し訳ねえな、てたまには思う。

 でも、夏樹くんもまんざらじゃなさそうに、というか至極当たり前の顔で掃除とか洗濯とか料理とかしてくれちゃうので、次第にそういうものだと馴染んでしまったのだ。


 それが、はやくも一ヶ月強。

 歯磨きをしながら見たテーブルには。


 ほくほくの白米と味噌汁。

 だし巻き卵と納豆。味付き海苔。

 典型的な、心が整いそうな朝の食卓。


 おまけに冷蔵庫を開けると、すりしょうがで味付けした薬膳きんぴらごぼうと、ほうれん草の胡麻和えと、ひじきとかおからとかがタッパーに入ってて、「さあお好きに取ってください」と言わんばかりの陳列っぷり。


 わたしは和食ホテルのルームサービスでも雇ったのかしら。

 なんて。

 そんなことをうっかり思ってしまう。


「(相変わらずすごいねー)」

「渚さん、せめて歯磨き終わってから言ってくださいよ」


 がらがらがら、ぺっ。


「ご飯いつもありがとうね」

「いえ、ふつうのことなんで」

「そのってのはね、大人になると贅沢なものなんだよ」

「はあ」

「まあいいけど」


 夏樹くんはそのまま玄関に向かった。


「いってらっしゃい」

「いってきまーす」


 扉が閉まり、鍵が掛かる音がした。


 最初はあんなにオドオドしてたのになー。

 なんか、住めば都というか、慣れって怖えなって思ったとさ。


 わたしはそれまで朝食と言ったら仕方なく焼いたパンにバター塗って、それでも足りないから会社の近くのコンビニでおにぎり買って食べてたみたいなところがあった。

 案外朝はガッツリ食いたい派なんだけど、朝を食べるための時間とかいろんな余裕がなかなか作れず、金の力でなんとか解決した。栄養の偏りだって、仕事の知識を悪用してサプリメントと美容液を買って、使って誤魔化してきたのである。


 それが、いまは。

 ていねいすぎるくらいの暮らし。


 朝食に納豆かけご飯なんて、何年振りなんだろうか。少なくとも自宅はない。社員旅行とかホテルのモーニングでしかやらない。

 バランスよく食事だなんてことも、なんか小中学生の時の給食のメニューみたい。それ以来、栄養管理なんてろくすっぽしてないんだから、せいぜい糖質制限とか、サプリメントの分量とかでしか自分の健康を測れてないわけですよ。それが、こんなものを毎日食べてごらんなさい。びっくりするくらい自分の身体がととのってしまうわけでして。


「青物野菜が毎朝食卓で食べられるなんてねえ、感動モンだわ」


 都会のニンゲンよ、注意されたし。特に定食屋とかで意識的に摂らないと、日々のご飯は茶色で染まりがちになるからな。青いものなんて青海苔とパセリと、備え付けのミニサラダしかなくなるものだからな。

 そういうのが怖くて、糖質に偏るのが怖くて、女はサラダボウルとか野菜だしのスープしか出さないチェーン店に足を運ぶのだ。


 だてに女を二十八年もやってねえ。

 なめんなよ。


 そうこうしているうちに、時計は八時を回ろうとしていた。テレビでニュースが始まるのを見て、大慌てで白米をかっ込む。

 お茶碗お鉢ほかもろもろを流しでさっさか洗っておくと、急いで着替えて化粧をする。ギリそれをする時間は確保してるつもりだけど、いつもズルズル伸びてしまう。だから会社に近い立地にしたのだけど、それが災いしていつも朝はだるいほど寝坊してしまう。


 ちなみにいちおう男と女の不可侵協定は結ばれていて、少なくとも夏樹くんはわたしが寝てる間のベッドルームに入らないことが決まっていた。掃除はするけど、ひとが休んでいるのを邪魔しない──ただし業務に差し障りの出る場合は除く、ということで。


 結果的に、いままで遅刻をしたわけじゃないんだけど、遅刻しそうになった回数も激減した。汗だくで出社しなくなっただけでも大成長を遂げたと言わざるを得ない。


「おはよー、渚。今日も居候くんのお弁当?」


 出社するとヒロミが変わらず話しかけてくれる。


「そーなの。これがまた手が込んでてさ」

「さいきんランチつれないじゃん。また美味しいとこ出かけようよ」

「そのうちねー」


 ヒロミはああ言ってるけど、わたしたち本社勤務継続長いから、いまさら新規でどこを開拓するってくらい外食しまくったじゃん。


 とは、さすがに面と向かっては言えないのだけれど──


「でさー、さいきんYouTubeでモテとか結婚とからがトレンド上がって来ちゃうのよ」


 お昼休み時間。

 結局ヒロミは、近場のお弁当屋さんで買ってきた出来合いのものを持ってきて、わたしといっしょにランチをしていた。


「で、見ちゃうのよね。結婚相談所なんかさ、二十七くらいが一番の〝売りドキ〟って言われると、さすがに心がぐらつくよね」

「へえ、そういうもんかあ」

「でもそうだよ。家庭持って仕事もやって、子供も産んで──て考えたら、そろそろ自分で何するか決めないと流されて、何もできないまま終わりだからね」

「…………」


 そういや、わたしはなんでこの仕事を始めたんだったっけなあ。

 最初は田舎に帰って結婚するとかいうのが嫌で、都会で生きていくことだけを考えていたような気がする。だからひとり暮らしをして、家賃と水道代光熱費を払い、税金を支払い、保険まで差し引いて残ったなけなしの金を、食費などの必要最低限の経費で差っ引いてさらに虚しい可処分所得を貯金した。万が一があっては困る──その思いでお金を貯め、情報収集し、ときには投資もした。


 さいわい運にも恵まれたのと、それなりに仕事が身についたからお金で困ることは少なくなったけど、逆に言えばそれだけだった。恋愛については自分の好き嫌いで突っ走ってはコケてを繰り返し、いまもまた、絶賛募集中の札を心のなかに貼り付けて、開店休業状態だったと言えるだろう。


 じきに迫る、アラサーの壁。

 その向こうにある人生は、ちっとも希望も展望もない。


「難しいなあ」

「難しいねえ」


 女子会に人生の答えはない。

 女子会は人生の謎の掃き溜めなのだ。


 わたしたちは結局、共感と言いたいことを言い合うだけの催しに日々終始し、そして同じことを繰り返し、日々のタスクの中に埋もれて、その日を過ごしたのであった。

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