第8話 気になるあの子たちのブランチ

 大学に通い始めてから、はやくも一ヶ月が経っていた。


 でも、慣れたかというとそうでもなく、むしろようやく始まったなあという感じが強かった。というのも、四月はやたらとオリエンテーションの連続で、やれ教科書を買えだとか、うちの講義ではこうするだとか、サークルも新歓コンパだらけで、ぼくはすっかり目を回しそうだったのだ。


 渚さんにそのことを愚痴る日もあるにはあったが──


「ま、それが大学ってもんよ。新入生に飢えてるのよ」


 とのことだった。

 おかげで毎日がお祭り騒ぎで、電車や大学のなかで人混みに揉まれに揉まれて、漬け物だってこんなに揉まれないだろうってくらいにもみくちゃにされて、ようやく平凡でおとなしい大学生活はスタートしたのだった。


 今日は朝一限。必修科目のミクロ経済学。


 早起きついでに渚さんのぶんを含め、お弁当を作ってきてしまったが──眠い。

 とにかく眠い。この必修科目の先生は、教授になると同時に催眠術の訓練を受けたのではないか……なんて思いたくなるほど、その声から一挙手一投足をして、眠くさせる。ぼくも最初は大まじめに聴こうかなんて思って最前列に座ってたんだけど、二回目三回目とだんだんキツくなってきて、とうとう中段に退避した。最前列の席は、いまやガラ空きだった。それほどの教授先生。


 おまけに、難しいし気難しい。


「わたしの授業はぁ、とても基礎的かつ重要な内容であるからして──」、〝であるからして〟ってアニメや漫画以外で話す人、初めて見た。「出欠票を取ります。三分の二未満の出席率の人間は再履修を求めますのでぇ、みなさん本気でやってくださぁい」


 すでにクラスの三分の一が脱落している。


 この講義は必修だから、百人近い学生(その中には二回生もいた!)が登録されていて、大講義室のプロジェクターで教材を映して授業する。朝早く、部屋は暗い。おまけに先生の読み上げ声は淡々と抑揚がないうえに間延びしていて、いかにも「眠ってください」と言わんばかりだった。

 こんなの、辛すぎる。そう言いたげな隣の席の男女が俯きがちにスマホをいじってるのはまだ可愛いほうで、そもそも来ない人もいれば、あきらめた人もいる。ミクロ経済学の阿久津教授といえば、もう退屈・偏屈・窮屈の三屈と言われており、その授業が行われる教室はつねに〝魔窟〟と呼ばれていた。そのうわさにたがわぬめんどくささと無味乾燥とした講義の羅列──すごくもったいぶったことを言うくせに実際の授業は教科書の音読とむかしの自慢話ばかりで、これはさすがにぼくでも気が引けてしまったのだった。


「あーあ、結局あいつボソボソ言ってるだけだから何言ってんのかぜんぜんわかんねーんだよなー」


 地獄の一限から解放され、カフェ代わりに学食に逃げ込む。

 そこで悪態を吐いているのは同学年の田中明日夢だった。アスム、と呼んでる。かれは四月も終わる頃になって急にやってきた変わり者で、なんでも入学直前に大きな病気をもらって入院してたらしい。「おかげで入学式とかしてなくてさ」と、途方に暮れていたところを、中国語の教科書を貸したりノートを見せたりで仲良くなった。


 いまじゃ、まあまあ悪友って感じだ。


「まあまあ」

「必修科目を担当してるからってチョーシ乗ってるよな阿久津のやろう。ほんとに」

「そこはノーコメントで」

「ああもう、政府の公式発表みたいに言いやがって」


 このままだとマクロ経済学の単位が危ないのはぼくもアスムもおんなじなので、そのための井戸端会議兼作戦会議がさいきんアツい話題だった。ぼくたちはその場でノートを開いて、飛びそうなった意識でかろうじて書き留めた暗号文の解読にはげむ。


「このあとどうする?」

「あ、ぼくは三限ある」

「なに?」

「社会倫理学」

「教養科目とってんのかー」

「いやいちおう教職取ろうとしてて」

「へー、香田が先生か」

「うん。親も先生だからね」

「そりゃやだな」

「うん。ちょっとたいへんだった」


 他愛もない会話が、たのしい。


 親の薦めで渚さんの家に寝泊まりすることになったけど、親元を離れて過ごす大学生活はすごくわくわくした。けっこうあれやこれやと言われてばかりだったから、何もかもを自分で考えて一日を過ごすというのが思ったよりも楽しいことだと知ったのだ。最初はいろいろ遠慮はしていたけども、こうして自由にやらせてもらえてるのは、渚さんにも感謝しなきゃなって思ってる。

 ついでだから、学食が混み始める前にランチにした。お弁当を開く。アスムが定食を取りに席を離れているあいだ、ぼくはひとりで先にいただいていた。


「あ、香田じゃん」


 そこに声をかけてきたのは──


「よっすー」

がわ先輩」


 すらっと高い背丈、長い髪。おしゃれなカットソーに、韓流を意識したっぽい鮮やかな口紅を引いた顔。

 那珂川志保先輩。気兼ねなく接してくれるクライミングサークルの先輩だった。


 すごくきゃしゃで吹けば飛ぶようなスタイルをしているが、先輩のクライミングはとても上手い。もともとぼくは初心者として参加したから、まったくぜんぜんなのだけど、先輩は上級者の先輩たちがあと一歩のところで落ちてしまうのを、平気な顔してつかんで超えていく──

 そんな彼女は、文学部の独文専攻。一年上の先輩なので何をやってるかはよく知らないけれども、聞いてる限りだと、文芸創作サークルから登山サークルまで、いろいろ掛け持ちをしているっぽかった。


「なにしてるんですか?」

「んー、なんつうか、恋愛相談ていうか? だった、ていうか」

「はあ」

「そうだ、ねえ聞いてよ。思わせぶりな態度を取り続けて何もしないオトコってどう思うよ?」

「……?」


 聞くところによると、会話も盛り上がって、定期的にLINEもして、プレゼントも交換する仲なのに一回もデートをしたことがないらしい。おまけにどうやら相談相手なる那珂川さんの幼なじみは、その相手の男の人を好きになっちゃってるらしい。

 でも、那珂川さん的には、男の人も当の幼ななじみのことが好きなような気がしていて、いわゆる〝両片想い〟ってやつだった。


「ありえませんね」

「でしょー?」

「ボクなら、好きな人は早いところデートに誘います」

「おお、香田くんダイタン」

「断られてばっかりですけどね」

「それって脈ナシって言うんじゃ」

「いや、いろいろ複雑な事情が──」

「まあいいや、そっちはそっちで面白そうだけど、また今度ね」


 言いたい放題いって、那珂川先輩は行ってしまった。と思ったら途中で振り返った。


「ねー、今日は五時から駅前のノボレスト集合ね」

「わかりました!」


 ノボレストは、ぼくらがサークルで活動しているボルダリングジムのことだった。

 その入れ違いで、アスムが戻ってくる。那珂川先輩のことをおっかなびっくり脇見してから、ぼくに「だれ?」と訊いた。「サークルの先輩」と答えた。「役得じゃん」と恨まれて、でもなぜか、そんなに緊張せずに気さくに話している自分に驚いたのだった。


「ふつう緊張するぜ、あんな美人」

「と、言われてもなあ」


 ぼくはあらためて那珂川先輩の向かった先を見る。

 すると、先輩が別の女子と喋っているのを見つけた。背の低い、ツインテールの女の子。どこかで見たことあるような気がしたし、どこでも見かけるような気もした。やたらつま先立ちになって、突っかかるみたいな感じだったが、やがて話がおさまったのか、ふたりは何もなかったように別れた。


 その瞬間、ツインテールの女の子から冷たい一瞥を受けた気がした。

 背筋が思わず冷える。

 でも、なぜ? そんなことを考える間もなく、その子はスタスタと革のリュックの背を向けて、去ったのだった。

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草食系オオカミくんは抜け目ない 八雲 辰毘古 @tatsu_yakumo

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