第3話 お部屋? 汚部屋! Oh!部屋!
いいよ、入って──そう言うまで、夏樹くんはそこに突っ立っていた。
相変わらず鈍臭いなぁ。というのが、わたしの個人的な感想。
おどおどしてるさまは、ちょっと可愛い。思い出のなかの少年とリンクして、でももう背丈はわたしよりも高くなっていて、もはやアルバムで見たなー、これ、て感じだ。
「お邪魔します」
かれなりの礼儀なのだろうが、わたしはちょっとおかしかった。
「ちょっと。これから〝ただいま〟を言うところなのよ、ここ」
「あっ、はい。そういえばそうだ……」
「まあ女の人のひとり暮らし部屋に入るの、て初めてでしょうから、緊張するのかもしれないけどね」
「ええ、まあ」
照れくさそうにぺこぺこ頭を下げる夏樹くんの、なんか妙に世話を焼きたくなる感じは何も変わらなかった。
むかしからそうだった。小さい頃からふつう男の子が好きになりそうなものが全然ハマらなくて、むしろわたしの小さい頃遊んでいたおままごとや人形遊びセットをお下がりでもらっていったくらいだった。そのなかにはうさちゃん人形の家族が過ごす家の模型なんかもあって、わたしがぞんざいに扱った過去なんてなかったみたいにていねいに使ってくれていてびっくりしたものだった。
夏樹くんが小学校に上がってしばらくは、可愛い弟分という感じだったが、四年生を過ぎたあたりから単純に予定が合わなくなって会う機会が減った。
でもうわさに聞くと家庭科が抜群に上手くて、親たちの会話いわく授業で作ったというスイートポテトやアップルパイが見映え良く、美味しかったという話だった。
そういうかれの目から見たとき、わたしの部屋はどう見えるんだろうか。
少し冷や汗が出た。
やっぱり掃除と片付けはしておかなきゃいけないよな。いまの、この遠慮がちな状態が続いているあいだにもうちょい、なんとかしなきゃ……
靴下が、廊下を踏んだ。
わたしの家の構成は1LDKで、一人で住むにはほどよいが、ふたりで住めと言われればさすがに狭い。水回りは玄関に集約されていて、入ってすぐがキッチン、その反対側にトイレと洗面台がある始末だった。
細長い廊下を──いうほどものが片付いてるわけじゃないんだけど──くぐり抜けるとそこには、リビングがあり、そこから逸れるように一部屋ベッドルームがある。
そうなのだ。
大変困ったことに、ベッドルームは一つしかない。
わたしはひと部屋ずつ説明した。
とりあえず、リビング。
ダイニングとキッチンがセットになったみたいな理想的な居間で、大きな窓に沿って脚の長いテーブルがたたずんでいる。
椅子は来客用にあるもので、横並びに二つある。当面これでなんとか足りるだろうけどいずれは増やさなきゃ、とは思ってる。
なにせ今日いきなり来るって話になったのだ。なんだそれ。相手が夏樹くんじゃなかったら追い出してたところだぞ。
そんな冗談を言ってのけると、やっぱり夏樹くんは夏樹くんなりに「すみません」と言って縮こまってしまった。
「ちょっとぉ、冗談だってばぁ」
「いやでも女性のひとり暮らしに入るのってよくないじゃないですか。フツーに考えて」
「まあ、それはそうだけど」
「…………」
「あ、でもさ、わたしと夏樹くんの仲だから、親戚のおばちゃんみたいなものだと思ってくれればいいのよ」
言いながら、自分でもトホホ、と思った。
そうなのだ。世間一般サマから見りゃ、わたしは二十八歳、つまりアラサー。
大人の世界に憧れて背伸びしていたつもりが、若作りのために背伸びしなきゃいけなくなる、そのゆるやかな傾斜の始まりに爪先立ちしているようなもの。
そんな現実、あんまり直面したかない。
夏樹くんは優しいから、「そんなことないですよ」とか「〝いとこのお姉さん〟ということにしておきますよ」などと言い繕ってくれはいるが、現実は現実なのだ。
いまは世の中が優しくなってるから、嫁に行けとか結婚しないと云々と言った社会的な圧は少なくなっている。けれども、わたしぐらいの年になると周囲も次第に仕事か結婚かで進路を真剣に考える層が増えていくもの。
結婚。
この二文字に何度女は苦労したことか。
しょーじき、ぶっちゃけた話、わたしにはお見合いしていた時代の人のことはよくわからない。平成一桁生まれとしては、背伸びした
でも、恋愛ドラマが盛り上がった時代と思春期をともに過ごしてきて、恋愛に憧れる気持ちがなくはない。というか、誰しもそんなことってあるだろうと思う。シンデレラ・コンプレックスとかカッコつけたこと言わずとも、自分を誰かが愛してくれるかもしれない、なんて淡い希望は、生まれつき備わっているちょっとしたオマケなのだ。
『だから──は──なんだよ』
あ、いかん。
要らんフラッシュバックが。
一度は大量のアルコールと一緒に流したはずの思い出が、鍵をかけて閉じたはずの箱からボロボロとこぼれ出る。これはオトコと同棲していた時のことだろうか。それとも。
「……渚さん?」
まだ涙は流れてなかった。
でも、夏樹くんが心配そうに、上目遣いでこちらを伺っている。そういう顔をされると、
ううん、と首を振る。
「ごめん。ちょっとぼうっとしてた」
そしてわたしは自分ん家のルームツアーコンダクターの役割を全うしたのだった。
ところで。
「晩ご飯、どうしよっか。せっかくだし外食でもしない?」
「……いいんですか?」
「いいのよ。まあ、東京記念日? てことで」
「ありがとうございます。じゃあ……」
手荷物(と言ってもリュックサックだったけど)から東京観光案内を引っ張り出す。その中の有名店を指差し、夏樹くんの目はキラキラ輝いてる。
「月島なら、もんじゃ焼きってあるんで、どうですか?」
「あ、そこ高いからパス」
「えっ」
「あとわたしもんじゃ焼きは苦手。お好み焼き(それも広島風)の方が好き」
「えー」
「なによ」
「……いえ」
しょんぼりしてる。なんかかわいい。
「あの、」
「はい」
「月島に住んでるのに、もんじゃ苦手なんですか?」
「なによ。あなた茨城出身だからって毎日納豆と干し芋ばっか食べてたわけじゃないでしょ? 練馬に住んでるから練馬大根ばっかり食べてるわけじゃないのよ!」
「まあそうですけど」
突風にあおられたみたいな顔をしている夏樹くんであった。
「どうしましょう。渚さんのおすすめの店とかありますか」
「特にないけど」
「じゃあ」
「だめ」
「…………」
「だめなものはだめ」
「まだ何も言ってませんって」
いや顔面いっぱいに物語っていた。
そんなに食べたいか。もんじゃ焼き。
「そのうち大学の同級生と一緒に食べに行ってください。わたしはとりあえずね──」
こうして、最初の一日は過ぎていった。
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