第2話 草食系男子(18)、物好きな道草を食わされる
東京は人が多くて、すっかり迷ってしまった。
標準語を喋る圏内に住んでるくせに、東京を知らないなんて。
そう嗤う人もいるかもしれない。
ただ、東京なんて通いでなければ知らなくて当然なのだった。
ぼくはこの年になるまで東京とは無縁の生活を送っていた。
神社の近くの小学校。
隣町の中学校。
そして田んぼのド真ん中の高校を通って、都内へは大学受験で数回出たっきり。
この程度の人間に、いきなり東京で迷うな、というのは無理な話だろう。
だから、渚さんから「いまどこ?」と通話口で訊かれたとき、ぼくはしどろもどろになるしかなかったのである。
《なにか目印のようなもの、ある?》
ひさびさに聞く渚さんの声は、変わらず優しい。
「えっと、人がいっぱいいて」
《
笑っていた。
「あ、あの。シュークリーム屋さんがあります」
《ああ、〝ヒゲオヤジ〟の》
「えっあっ、ハイ」
《だったらわかるよ。ガシャポンたくさんあるでしょ?》
「合ってます」
《おっけー。じゃあそっち行くからよろしく》
通話、終わり。
充電が四〇パーセントを切ったスマホを片手に、ぼくは改めて場所の名前を確認した。
池袋。そう言うらしい。
名前はよく聞いていた。アニメ(というかライトノベル)の舞台にもなっていた。ただちゃんと来たのは大学受験の日以来だ。
て、言っても、ひと月前でしかないけれども。
ふう、と大きく吐いたため息。
空いてる壁にもたれかかって、茫然と人混みを観察する。
十五時。三月ももう後半で、春休みシーズンなのもあいまってか、やたらと人が多い。子供連れもあれば、高校生くらいの同級生組が待ち合わせして騒いでいるのも見える。
ひょっとするとぼくと同い年かもしれないのに、彼女たちは見知った近所を歩くように注意散漫に歩いて去った。すごいな。ぼくなんてスマホで現在地を示してもらわないとどこに向かうかすら、わからないのに。
いや、いちおうわかってる。
この春から東京の大学に行くし、まずは渚さんの家にあがるのだ。
でもそれは、イマイチ実感の湧かない、レールの上のことで、親から聞かされた話でしかなかった。
自分で決めたわけじゃない。
親がそこそこ〝教えたがり〟の家系で、せめて学歴は付けなさいとか、服はこれを着なさいとか、いろんなお世話を焼く。その合間を縫って、泳ぐように過ごしてきた中学・高校時代は、いまとなっては確信がない。とにかく叱られないように勉強したし、友達に誘われても夜遊びはしないようにした。
結果、まじめなんだけど冴えないね、と面と向かって同級生から嗤われるような、そんなヤツになってしまった。
べつに大学デビューとか、狙ってるわけじゃない。けど。
ただ、地元からも親からも思いっきり離れたこの場所での新生活に、ワクワクする気持ちがないでもなかった。
それも──
「おまたせ」
人混みから、ひとり。
コートを着た、すらっとした女性がやって来た。髪はミディアム(っていうんだろうか? ショートよりは長く感じた)に切り揃えられていて、シルバーのピアスが明るい髪色に映えている。
「渚さん」
ぼくはその人の名前を呼んだ。
まるで初めて会った人のように。
「お久しぶりです」
それを察したのか、渚さんは手を口に寄せて、くすっと笑った。
「大げさだよ、さっきまで電話してたのに」
「まあ、そうですけど──」
「ああそうそう。大学合格、おめでとう」
「ありがとうございます」
「あんなに小さかった夏樹くんも、もう大学生かー。わたしも歳取るわけだわ」
「そんなことないですよ」
「いやいや、大学生からみたらアラサーはババアですよぉ」
他意はないだろう。
けど、眉をへの字に曲げて笑う様子に、ちょっと言い返したくもなる。
「渚さんはとても綺麗ですよ」
「お褒めの言葉、ありがと」
余裕ある表情に、すらっと
「キャンパスこっちなんでしょ? この辺少し歩き回って慣れといたほうがいいよ」
「……はい」
とほほ、となぜか心にもなく思ったのだった。
渚さんに導かれるようにして、ぼくたちは丸の内線の改札と東武の前を過ぎて西口へのエスカレーターを登った。渚さんいわく、池袋は〝西〟が東武で〝東〟が西武らしい。
「ふつうさ、逆だと思わない?」
「ええ、まあ」
「だから、この駅で道に迷ったら、必ず西武と東武の場所を確認して。それの逆の方角だ、て覚えるの。そうすれば行きたい出口がわかるよ。きみの大学は、東武のあるほう」
目まぐるしく動く人に、流されるようにしてぼくは街に繰り出した。
緑色のふくろうが立つ広場っぽい空間に、交番が立って、繁華街らしきものを右手に臨む。聞けばそこは〝ロマンス通り〟というらしい。言うほど男女のロマンスがあるわけじゃないらしいけど、その名前の響きにドキッとする自分がいた。
でも、紹介されると、案外ふつうの駅前商店街という感じで、シックな雰囲気だけがある料理店や喫茶店が軒を連ねているばかり。
「西口から大学に向かうんだったら、劇場通りのほう、ホラ、あの東京芸術劇場のあたりを突っ切って、その先ね」
「あ、あそこは覚えてます。受験する時通りました」
「よし。じゃあ、あとは慣れだね」
「ええ……」
「入学式までしばらく探索してればいいじゃないの。ひとりでなんでもやってみるものですよ」
そうこうしているうちに、ぼくらはまた地下に戻った。有楽町線の改札まで進んで、ICカードをチャージした。
この道を逆にたどれば、最寄りの駅から大学へのルートになるよ、と渚さんは言ってくれた。わたしは保護者じゃないから、と念を押すように言っていたが、こうして東京を案内するついでに気を利かしてくれるところは親戚の姉のようにていねいだった。
──さすが、仕事ができる。
そう思った。
渚さんの住んでいるところは月島と言って、有楽町線でずっと進んだ先にある。その道中、座席に座りながら、ぼくたちは世間話をしていた。
「ほんとはもっとマシなところ、てか、埼玉とか東武練馬、板橋の東上線あたりでひとり暮らししたほうがずっと便利なのにね」
「まあでも、地元から行くよりはうんと近いですから」
「そりゃそうだけど、メトロの月島って駅としては微妙よ? 週始めと週末はネズミの耳を付けたひとたちがワラワラ乗っかって来るし、そうじゃなくてもゆりかもめの乗り降りで混むしで」
さんざんなものの言いようだけど、その立地に立派なマンション借りて住んでるのだから、どっちもどっちではないか。
なんて、思ったりもしたが、口には出さずに「へえ」とか「そうなんですね」と返していた。渚さんったら日ごろ喋り足りないんじゃないかってくらいにいろんなことを話してくれるから、ぼくはぼくで聞き役に徹すればよかったのだった。
やがて、電車が月島に着いて。
ぼくは渚さんの住むマンションに連れられて入ったのだった。
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