本編

第一章 見栄っ張りステッカー

第1話 肉食系女子(28)、食わず嫌いをする

 後ろ髪引かれる、なんて言葉があるから、さっさとばっさり切っちゃった。

 あれほど泣いていたのもバカみたい。

 寝て起きて食べてるうちに、ぽっかり空いた穴もふさがって、カサブタになった。


 もう何度目なんだろう。

 数えるのも忘れるくらい。


 身体に刻み付けられたキスの痕は、いつか消えるかもしれない。けれども自分の心に付けられた傷は、カサブタになって、せいぜい図太くなるだけだった。

 朝のメイクもカンペキ。笑顔もおっけー。さあ出社。働くぞお、なんて思ってた。


なぎさまたフラれたのね」

「それ言わない約束ー」

「長い付き合いだもん。わかるよ」

「はー、くそったれええ」


 でも、せっかく朝から時間をかけて構築した素肌の護岸工事も、昼休み時間あっけなく友人のヒロミに看破されたのだった。

 切れた堤防からチョロチョロと、抑え切れない負の感情がこぼれ出してしまう。


「今度はどんなあほタレと付き合ってたんだー? んー?」

「はあああ、口にするのもヘドが出る。まだ話したくない」

「あ、そお?」


 ヒロミはにやにやしている。

 こんちくしょう。こいつってば。


 どーせ、話さずにはいられない。わたしってばそういう性格。よくわかってるから。

 だ、だって。

 溜め込むのもよくないじゃない?

 抵抗はわずか五分で終わった。

 気がついたら昼休みが終わってて、定時が過ぎたら夜の反省会が始まって、そして終電ギリギリまで盛り上がって。


 それから。


「はー! もっと良い恋はないのか!」

「そうだそうだ!」

「われわれワァ、対等な関係と裏切らないオトコを要求するぅ」


 ハイ。酔っ払いアラサーの出来上がり。


 言いたいことはを洗いざらい吐き出して、ついでにちょっと戻して、気持ち悪いのか泣きたいのかわからない涙目をぬぐって。


 そんな日だった。

 親から電話があったのは。


 思い出の血祭り騒ぎが終わって、過去の清算も終わったころ、つまり零時過ぎってことなんだけど、そのあたりでわたしは家に珍しく留守電が入ってるのを見つけた。

 すでに上機嫌な気持ちになってたわたしもこれには一瞬気分が害された。


 だいたい、スマホの時代に家電いえでんするなんてナンセンスなやつはそういない。

 たいていセールスか、詐欺か、世論調査のどれかなのだ。


 ただ、例外もいる。


 わたしが気にしてるのは、その例外──つまり、スマホとは縁のない方々、イコール、親ってことなのだ。


「着信は二〇時ごろ……と」


 やっぱり親だ。

 見間違いようもなく、家電の電話帳にわざわざ明記した「親」というラベルと、電話番号。実家の番号なのである。


《留守番電話を再生します》


 ピーっという音が、散らかった部屋を素知らぬ顔して通り過ぎた。


《あ、もしもし渚? 仕事忙しいだろうから用件だけさっさと言うとね》


 それから続く母の言葉に、わたしは目を点にするしかなかった。


《近所だった香田こうださんの息子さん──夏樹くんをさ、渚の家に泊めてやってくんない? 在学中ずっと》

「──ッ?!」


 思わず言い返したくなったけど。

 いや待て。これは留守電。


 続く言葉がだらだらと説明として尾を引いているけれども、わたしの酔った脳みそはすっかりこの一撃で目覚めていた。

 つーか聞けば聞くほどわけがわからん。


 なぜ? わたしが?

 今年大学生になるお隣さんの息子を?

 しかも卒業するまで?

 泊めてやらねばならんのだ?


 香田夏樹という名前は、そーゆー意味で、ハッキリ言っちゃうけど、わたしのポッカリ空いた穴に突如滑り込んできた〝異物〟なのであった。

 これに抗議をしない、わたしではない。


 翌朝、出社前に返しの電話──


「もしもしお母さん?」

《あら渚、どおしたの》

「すっとぼけないでよ! 聞いたよ昨日の留守電。あれなに?」

《なにって、言ったとおりだけど》

「じゃあなに、ほんとに言ってるのね」

《あら、あなたわたしの娘でしょ。今までそんな冗談言ったことがあって?》

「冗談でないと信じられないことばかり口にする女でしたね、あなたは。ええ、ええ」


 この娘にして、この親あり、なのか。

 いや逆か。


《酷いわねえ。でもいまさら断れないのよ。もう夏樹くん、そっちに向かうことが決まっててね》

「え?」

《そーなのよ、今日。話決まったの一週間前だったのに、わたしも言うの忘れちゃっててえ》

「このバカ親! ふざけんな!」


 それからわたしは思いつく限りのすべての罵倒語を並びたててみたが、グーグルにもウィキペディアにも及ばないわたしの頭の中では五秒も持たずにネタが尽きた。

 それでも言い切れない悪態を、絞り出すように言った。


「第一、夏樹くん自身、もういい年ごろの男の子じゃない。それを娘の家に泊める許可を、よくも、よくも……」

《それを言うならあなたも、いい歳した分別のあるオトナでしょう? いいのよ、然るべき関係に発展しても。それならそれでわたしはお赤飯炊くだけだからね》

「さてはそれ狙いだな?」

《はて、なんのことでしょう? わたしはもうじき三十になるのに結婚のけの字も報告するそぶりを見せない娘のことなんて心配してませんよ?》


 嘘つけ、と内心で言ったのは我ながら褒めてやりたい。


《それにねえ、香田さんも「渚さんの家なら、長い付き合いだし、息子の生活力も心配ななかお世話してもらえて安心ですぅ」ておっしゃっててねえ。頼りにされてるわよ、

「…………」


 。その呼び方は、わたしをはるか遠く、小学生時代へと呼び戻す。


 そもそも分譲マンション住まいの我が家では、隣りや向かいといった部屋の近いご家族との交流がそこそこ盛んで、買い物だとかその辺を出かけるだけでよく会って話すことが多かった。

 ついでに言うと、わたしはひとりっ子だ。母親はうざいし父親はよくわからんけど、それなりに不自由なく育ててもらったし、そのことに対して恨む気持ちもない。


 ただ。


 弟とか妹、みたいな存在に一時期憧れていたことがあった。


 時は小学三年生。まだちびでガキだったわたしは、お姉さんぶりたくて仕方なかった。そんななか生まれたのが香田さん家の夏樹くん。なんと九歳差の赤ん坊で、他人事のくせして見たい見たいとせがんだものだった。

 実際初めて退院した香田ママに抱かれた夏樹少年は、くしゃくしゃで、ちびで、弱々しい存在だった。ほおを突いてみたが、なんともふやけたティッシュペーパーでも触ってるみたいな感じがした。モチモチするのはもっとずっとあとのことだった。


 まあ、そんな頃からの付き合いなのだ。


 ざっと、わたしが小学生三年から高校を出るまでの、ざっと八年間──それだけといえば、それだけ。でも、きっとかなり長い期間お世話していたのだろう。

 別にそれ以降も会ってなかったわけじゃないけど、わたしにとって最後の記憶は夏樹くんが高校一年生になるくらいのことで、その頃は部活が忙しいとか、なんとか言って、それくらいしか話題がなかった。向こうも向こうなりに青春があるだろうし、わたしもそんな気があったわけじゃないので、「ああようやく思春期入ったんだな」て思うくらいの。


 そんな程度の距離感だった。

 だからこそ気まずいというか、「ほんとにいいの?」ていうか。


「ねえ、もう一回言うけど、夏樹くんはほんとにそれでいいの?」

《いいんじゃないの? 言われて断るそぶりもなかったし。第一、せっかく東京の大学受かったのにお金の事情で親元離れらんないなんてお互いかわいそうよ。今ドキ、バイト漬けで青春送れない子も少なくないのよー?》

「わーッ、もう、わかった、わかった。でもあれね。食べ物と寝るところ用意するだけだからね」


 結局折れた。

 というか、事後承諾って言うんだこれは。


 それからいろいろよけーなことを言われたけど、それはいったん置いておく。


 問題は。


 わたしは部屋を見まわした。

 ハッキリ言って、汚い。


 たたんでない洗濯物、しまい損ねた下着の数々、洗い物を放置してるシンクに、埃をかぶった食器棚。

 飲みカスだらけのローテーブルと、タコ足配線のテレビと、それから……


「会社、今日はサボろ」


 わたしはスマホでメールを打った。生理休暇の口実で、休みを申請したのだった。

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