肆  満月と新月 (三)

 その家は小さかったけれど、とても綺麗で真新しいことがわかった。高鳴る鼓動を押さえつけ、ドアをノックする。

「お爺ちゃん、早鳴だよ。いるなら返事をして」

 中から走るような足音がして、扉が勢いよく開いた。

「早鳴!」

「お爺ちゃん!」

 思わず飛びつくと、ぎゅっと抱きしめられた。

「どうして……どうして早鳴がこんな場所にいるんだい。まだ寿命はたくさんあったろう」

「お爺ちゃんに、謝りたくて来たの」

 腕を解いて、きちんと向き直る。

「私、お爺ちゃんを『志士』の力でここに送ったの」

「そうか…辛い思いをさせてごめんな」

 首を激しく横に振る。

「でも、お爺ちゃんの寿命はまだあったの。まだ十年生きられるはずだったの。でも私、奉仕の褒美はカウントされないなんて知らなくて、それで……ごめんなさい」

 ぽん、と頭に大きな手がのった。

「泣かないでおくれ。早鳴は何も悪くないんだよ」

「悪いのは私だよ。お爺ちゃんを、」

「違うんだ。悪いのはお爺ちゃんなんだよ。ごめんな、早鳴にだけは、きちんと話しておくべきだったなぁ。本当にごめんな、辛い思いをさせて」

 祖父は家の中に私を招き入れて、温かいスープや美味しい食べ物を出してくれた。黄泉の国では飢えは無いが、嗜好としての食はあるそうだ。食事はお腹を満たすというよりも、心を満たしてくれた。

「さて、どこから話そうかね」

 食事を終えたのを見計らって、祖父が続きを話し出した。

「褒美の十年をもらえる条件は知っているかい」

「一生を、『志士』としての奉仕で神に捧げること」

「少し違う。一生、禁を犯さず、奉仕をすることだ。お爺ちゃんはね、禁を犯してしまったんだよ」

 禁を……犯していた?

「早鳴が小学生の頃、お婆ちゃんが亡くなっただろう。本当はね、もっと前にそうなっているはずだったんだ。でも、お爺ちゃんは、お婆ちゃんに死んで欲しくなかったから、ずっとお婆ちゃんを一族の者から遠ざけていたんだ」

 余命が尽きていると知りながら、死を与えない。立派に禁のひとつだ。

「だからね、お爺ちゃんには褒美の十年は無かったんだよ。早鳴が正しいんだ」

「私、お爺ちゃんが大好き。お爺ちゃんに死んで欲しくなんてなかった!」

 あぁ、私は泣いてばかりだ。泣き虫になってしまった。

「わかっているよ。お爺ちゃんも、早鳴が大好きだよ」

「…お爺ちゃんを、殺したのに?」

「殺されたなんて思っていないよ。あるべき死を迎えさせてくれた。感謝しているくらいさ」

「本当に?」

「本当だよ。だから泣かないで。さ、涙を拭いて笑って。お爺ちゃんは、早鳴の笑った顔のが好きだよ」

 無理やり口角を引き上げる。鏡が無いからわからないが、きっと歪な笑顔だろう。それでもこれが、精一杯の笑顔だった。

「そう。悲しくても、笑いなさい。心も釣られて笑い出すから。それまでは辛くても、無理やりにでも笑いなさい。どうしても笑えないときは、友達に頼ればいい。きっと笑わせてくれるから」

 ほんの少し、心が笑えた気がした。

「さぁ、こんなところに長居はよくないよ。帰り道はわかるかい?」

「『清士』の友達が、戻してくれる手はずになっているのだけれど」

「それなら、もっと出口の近くにいなきゃ駄目だ。こんなに深いところまでは、『清士』の力も届かないよ」

「そうなの?」

 それは困った。このままここにいれば、勝手に七日で戻れるものだと思い込んでいた。

「来た道を戻っていけば、じき河に着く。そこまで戻れれば大丈夫だよ。本当は送って行ってあげたいけれど、お爺ちゃんはこの町から出られないんだ」

「平気だよ。ひとりでもちゃんと帰れる」

 右手には、まだ誰かの温もりが残っているし、両腕にはお爺ちゃんの匂いがある。一人でも、独りじゃない。

「強くなったね」

 この優しい手に頭を撫でてもらうのも、これが最後だろう。

「この先どんなことがあっても、早鳴は早鳴らしく、頑張るんだよ」

「はい」

 家の外へ出る。

 何と言おうか迷ったけれど、この非日常に一番しっくりくる言葉は、結局至って日常的な言葉だった。

「お爺ちゃん。―――行ってきます」

「行ってらっしゃい」

 私は振り返らなかった。振り返ったら、もう帰れなくなる気がした。全速力で走る。今は一体何日目だろう。満月は地平線に半分姿を隠しており、そこから推測するに、反対側には既に新月がいるはずだった。時間の感覚はとうになくなっていた。二つの月に見守られながら、今はただ友を信じて足を前へ前へと動かすのみだった。

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