肆  満月と新月 (二)

 河を渡る術をあれこれと考えながら走ってきたが、それは杞憂だった。川幅は確かにとても広かったが、深さはせいぜいくるぶしまでしかなく、流れもとても緩やかだったため、簡単に渡りきることができたのだ。

 休む間もなく走り、遠くに見えていた建物を目指す。満月のうちに、人を見つけたい。私の予想が正しければ、二つの月は対になっていて、次に昇る月は新月のはずだ。今こんな場所で真っ暗になられたら、心が折れる。

 なんとか白壁の建物までたどり着き、扉をノックする。

「すみません、誰かいませんか」

 返事が、ない。

 ここまで来たのに。いや、まだ諦めるな自分。他にも建物はある。別の場所に行こう。

「あの」

「ぎゃぁぁぁぁ」

「わぁぁぁぁぁぁぁ」

 突然後ろから声をかけられ悲鳴を上げると、相手もそれに負けない悲鳴を上げた。

「な、何だよ。大声出すなよな。びっくりするだろ、もう」

 ぶつぶつ不平を言うのは、私より十五センチほど背の高い男の子。帽子を目深に被っているし、満月とはいえ夜だから顔はよく見えないが、同じ年頃のように思えた。

「やっと……やっと人に会えたー!」

 嬉しすぎて、手を掴んでぶんぶん振っていると、迷惑そうに振りほどかれた。

「………手なんか掴むなよ」

 危うく不審者認定されそうになり、慌てて手を離した。

「違うんです。私ここに来たばかりでよくわからなくて。あなたはここに来てどれくらいですか」

「さぁ。ここじゃ時間の感覚なんて保てないから。月は自由気ままだし、太陽はないし。惑星じゃないから自転もしてないし。でも俺はたぶんもう十年くらいはここにいるんじゃないかな」

 同年代かと思っていたが、断然年上だった。

「あの、私人捜ししてるんです」

「誰を捜してるの。手伝ってやるよ。どうせやること無くて暇だし」

 運よく手助けを得られ、舞い上がる。優しい人でよかった。

「ありがとうございます!あの、私のお爺ちゃんと、黄泉の国の役人さんなんですけど……」

 男の子は、はぁ、とわざとらしく溜め息をついた。

「お爺ちゃん、じゃわかるわけないだろう。名前を言え」

 盲点だった。深麗香と話している時はお爺ちゃん、で通っていたから、深く考えていなかったのだ。

「新谷大造です」

「あぁ、それならわかる。隣町だから少し歩くことになるけれど」

「ホントですか!」

 一人目からお爺ちゃんを知っているなんて、運がいい。

「あと、黄泉の役人って言ったな」

「はい」

「それは……無理だ」

「何でですか!」

 何で。

 ここまで来たのに。

「黄泉の国の役人なんてものは、存在しないからだよ」

 存在……しない?

「正確には、黄泉の国には存在しない、だな。役人はもっと別の場所にいる」

「証拠、証拠はあるんですか。絶対この世界にいないって言う証拠が」

 探し足りないだけかもしれない。そうだ、きっとそうだ。

「早鳴も気づいているだろう。この世界は殺風景だ。天国でも地獄でもなければ、ましてや神の使いが住む場所でもない」

「でも、もしかしたら…」

「決定的な証拠を言おうか。この世界は、外界に接触する術を持たないんだ。それがどういうことだか、わかるか」

 首を横に振る。

「つまり、ここにいたら現世での生死判別なんて不可能だって意味だ。現世が全く見えないのに、そんなことできるはずがない」

 言葉を失うしかなかった。

「残念だけれど、早鳴は――早鳴を含めて誰一人として、黄泉の役人には会えないよ」

 泣くな。

 泣くな。

 泣きながら、何度もそう自分に言い聞かせ…泣いた。

「新月になる前に行こう。早鳴にはまだ、会いたい人がいるんだろう」

 手を引かれ、我に返った。

 そうだ。お爺ちゃんには会える。当初の目的とは異なってしまったけれど、せめてお爺ちゃんに詫びてから帰ろう。それくらいの時間はまだあるはずだ。

「隣町までは、遠いですか」

「少しね。でも日の長さも、距離も、その時々で変わってしまうから。近くあって欲しいと願えば、近くなる」

 ここはとても不思議な空間だった。満月は沈みかけていたけれど、沈まないでと願うと止まっているように見えた。

「着くまではしばらくかかるから、何か会話でもしようか。俺も久しぶりに会えて嬉しいんだ」

 前を行く背中は振り返らなかったけれど、繋いだ手の温もりがとても心地よかった。

「この町には、あなた以外に誰もいないんですか」

「ここは始まりの町だから。生きていたときの悲しみや、苦しみや、痛みが、消えない場所だから。みんな幸せになれる街へすぐに引っ越してしまうんだ」

「じゃああなたはどうして、引っ越さないんですか」

 くすり、と笑う気配がした。

「知りたいか?」

「はい」

 男の子は、しばらく言葉を捜していたが、やがてそっと言葉を紡いだ。

「……約束したんだ」

「やくそく?」

「そう約束。『お前がこっちの世界に来たら、一番に会いに行くから』って。だからこの町にいる。ここは死んだ者が必ず通る場所でもあるから」

「その約束を交わした相手は、誰ですか」

「愛する人」

 恥ずかしがる素振りも見せず、当然のようにそう口にした背中は、とてもかっこよく見えた。

「実は私、もう一度人間道に戻る予定なんです。もしよかったら、あなたの恋人、探しますよ。お名前は何ですか」

 しかし男の子は、その質問に答えてはくれなかった。

「早鳴には、好きな人がいる?」

「えっ、私は」

 突然そんなこと……。

「ごめんね、困らせちゃったね」

 男の子が立ち止まった。

「あそこに赤い屋根の家が見えるだろう」

 指差すほうを向くと、ほんの数十メートル先に確かに赤い屋根があった。

「あの家に、早鳴のお爺ちゃんがいるはずだ。行っておいで。俺が送れるのはここまでだから」

「ありがとうございました」

 男の子を追い越しかけて、最後にちゃんと顔を見ておこうと立ち止まった。

「振り返っちゃ駄目だ」

 鋭い言葉に、びくりと固まる。

「ごめん。早鳴を怖がらせるつもりはなかったのだけれど」

 あれ……?

「そういえば、何で私の名前……」

 自己紹介はしていないはずだった。それなのに男の子は私を早鳴と呼んでいた。

「あなたは、」

 私のことを早鳴と呼ぶ男子なんて、一人しかいない。

 でも、何故―――。

「本当に、ごめんね。俺はここで待ってるから。ずっとずっと…いつまでだって待ってるから。だから早鳴はゆっくり、来ればいいんだよ。ちゃんと早鳴だけを想って、早鳴だけを愛して、待ってるからね。……だからどうか、幸せに」

 振り返ったとき、そこには誰もいなかった。

 そして私は……誰がそこにいたのかわからなくなった。

 頑張って思い出そうとしても、どうも記憶に霧がかかったような状態になっていて、上手く思い出せなかった。

 はっきりと思い出せるのは、赤い屋根の家を目指すということと、繋いだ手の温もりだけ。

 でも、今はそれで十分だと思った。

 私は誰もいない道に背を向けて、目的地に向かって走り出した。

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