肆 満月と新月 (一)
新谷が死んだ。
眩暈がするほどに激しい旋律は、彼女の死が不適であることを訴えている。生あるものの命の力は強すぎて、鈴という繊細な楽器を奏でるには向かないのだと思う。新谷はまだ寿命を多く残しているわけだから、それだけ『清士』へ届くもはや音楽ですらない――騒音は、大きい。
生き返ることを前提に死ぬのは、意外と大変だった。外傷を与えれば生き返ってから障害や傷跡が残ってしまうし、薬を使ってもその後の健康に悪影響を及ぼしかねない。『志士』の力を使えば楽に死ぬことが可能だが、それをしてしまったら『清士』の力が使えなくなるのだから元も子もない。最終的に新谷がとった策は―――凍死。これはなかなかに利口な策であった。
新谷の身体は、現在私の屋敷の空き部屋にいる。両親には友達の家にしばらく泊まると言ってきたらしい。高校には高熱でしばらく休むと連絡したそうだし、私も新谷から連絡を頼まれている振りをして、今日も休みです、と毎朝断っているので、何も疑われてはいない。
私も人の命を預かっている身として、自分なりに調べ直してみた。それによると、今までの事例で死してから生き返らせるまでの日数は最長で七日。それは冬場だったから良かったものの、今は六月下旬。下手をすると新谷がゾンビとして生きていかねばならなくなってしまう―――というのは、新谷が普通に死んでいた場合のお話。新谷の身体は現在、凍結されている。つまり、腐敗をふせげるという寸法だ。一石二鳥。……新谷が凄い策士に思えるのは気のせいだろうか。
新谷と話し合って決めたタイムリミットは、前例と同じ七日。これ以上はリスクが高すぎる。
「がんばれ」
聞こえないとわかっていても、そう言わずにはいられない。彼女はもう、役人に会えたのだろうか。
✻ ✻ ✻
死ぬのがこんなに苦しいとは思わなかった。自殺なんてするものじゃない。
気がつくとそこは、荒野だった。直ぐ傍を一本大河が静かに流れている。
「想像してたのと、なんか違うな」
黄泉の国は、香り豊かな花に囲まれる天国か、針山に囲まれた地獄か、そのどちらかに似た場所だと思っていた。しかし今目の前にあるのは、殺風景な何も無い世界。人っ子一人いない。
「え、困る」
そう、人の気配が全く無いのだ。役人どころではない。死した人すら、いないのだ。タイムリミットは七日。時間が無い。
兎に角、歩き出さねば。…どっちに。迷っている暇は無い。自身の直感だけが頼りだ。私は念のため、最初の地点にたまたまつけていたバレッタを置いていくことにした。身体は置いてきたはずなのに、小物が再現されているというのは興味深い。目印とできるものがあってよかった。
川に沿って、左に進む。一日中歩いても、誰にも会わず、景色も変わらなかった。ついでに空の色も変わらず黒いままだった。そう。この世界にはどうやら太陽が無いらしいのだ。月が昇って、また月が昇る。二つの月は上弦の月と下弦の月で、別物らしかった。
四回月を見送って――おそらく二日が経った時点で、私はあることに気づいた。
「ここ……最初の場所………」
荒野の中にポツンと、見覚えのあるバレッタが落ちていた。移動してきたのだと信じたいが、どうやら本当に戻ってきてしまったと考えた方がいいらしい。この世界は二日で一周できてしまうほどの大きさしか無かったのだ。そして、一周仕切っても尚、私は誰一人として出会うことはできなかった。
二日間歩き続け、それが無駄骨だったとわかり、一気に疲れが噴出した。仰向けに寝転がると、下弦の月が真上にあった。
「私はどうしたらいいの」
つぅ、とこめかみを涙が流れていく。
「お爺ちゃん……」
世界に独りぼっち。本当に独りぼっちだ。
その時、月がにぃっと笑った。いや、月に顔があるわけではない。涙を拭ってもう一度空を見ると、ついさっきまで半月だったはずの月が、三日月になっていた。私は、そんなに長い間泣いていたのだろうか。否、まだ私がここにいるということは、七日経っていないはずだ。こんなに一気に月が欠けるはずがない。三日月は明らかに今までよりも速度を上げて沈んでゆき、反対側からは初めて太陽――太陽と見紛うほどに輝く満月が昇ってきた。
一気に照らし出された世界は、私を笑顔にさせるに十分なものだった。
何とも簡単なトリックだったのだ。私は、世界の端っこにいただけだった。
大河の向こう岸には、広い世界があったのだ。少し遠くには町らしき影も見て取れる。私は再び走り出した。こんなところで時間を無駄にしている余裕は無い。
その前に。
頭上できらめく月に大きく手を振った。
「ありがとう!」
月は速度を落としており、まるでなるべく長く私に光を提供しようとしてくれているかのようだった。
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