サントエルマの森の魔法使い:珠玉(しゅぎょく)の母

淡路こじゅ

プロローグ

 イザヴェル歴462年の夏のある日、ラザラ・ポーリンはサントエルマの森の紫苑しえんの塔の最上階を目指して、らせん状の石段を登っていた。


 サントエルマの森の魔法使いであることを示す上質な黒いローブのすそが、階段のほこりをはらう。そしてその手には、驚くべき知らせを伝える羊皮紙ようひしの手紙が握られていた。


 息を切らせて最上階にたどり着いた彼女は、つたへびが絡み合う紋様もんようが描かれた木製の大扉のまえで、しばし呼吸を整えた。


 サントエルマの森のおさ、ローグ・エラダンの部屋である。


 緊張感とともにこみ上げる感情が、もうひとつ。


 エラダンの部屋の大扉には強力な呪文がかけられ、ある合い言葉を唱えなければ扉はひらかない。


 ポーリンは大きくため息をついた。


「“わたしは、ねこに、はさまれたい”」


 重々しい音をたてて扉が開く。


 呪文の巻物や書物、実験道具が散乱したその部屋には、何十匹もの猫たちがうろうろしていた。


 行き交う猫のその奥の、古く大きな木机には、群青色ぐんじょういろのローブに身をつつんだ老婆が向き合っていた。


 羽ペンを動かす手をとめ、しわの深い顔とは対照的な、大きくきらきらした少女のような瞳をポーリンに向けた。


「おや、ラザラ・ポーリン。次代のサントエルマの森の長になるのは、おまえか、フィラーゲンか、決めたかえ?」

「……残念ながら、その話はまだ」


 ポーリンは足下に寄ってくる猫をいっぴきいっぴき手で持ち上げてよそへやるのに苦心していた。


 ローグ・エラダン。優秀な予見者アルケミストでありながら、猫好きが高じて猫魔法ねこまほうという独自の魔法を一代で作り上げた変わり者である。


 猫をかきわけ、ようやくエラダンの机へとたどり着いたポーリンは、ぐったりとしたように小さく息をついた。


「コヴィニオン王国へ行く許可を、ください」

「コヴィニオン王国? またえらく遠くへ……」


 エラダンは目をまん丸く見開いた。


 ポーリンは、手に握っていた羊皮紙の手紙をばんと、机に置いた。


「私の“弟”を名乗る者からの手紙です。助けに行かなければなりません」

「ほう」


 少女のようなキラキラした目がすっと細くなる。無邪気さの中にも時に光る、ナイフの刃のような鋭さが垣間見えていた。


「おぬしに弟がいたとは、初耳じゃな」

「……私も初耳ですよ」


 机の上に乗った猫が、羊皮紙に爪を伸ばしてきたので、ポーリンはそそくさと手紙をしまった。


「真実かどうか、確かめるためにも、ぜひ」


 興味津々に彼女の袖口をのぞき込む猫をかかえて床の上に下ろしながら、彼女は言った。


「なにやら、複雑な理由がありそうだが……これは、例の〈予見よけん〉と関係あるのか?」


 エラダンは考え込むようにあごに手を当てた。


「……私がサントエルマの森の百年後の運命を左右するのかどうかは知りませんが、最善と思える目の前の一歩を歩んでいくのみです。どうか、おいとまを」

「ふむ」


 エラダンはまだ考えていた。


 彼女が授ける〈予見〉は、難解なんかい抽象的ちゅうしょうてきだが、何かの重大な未来を指し示していることが多い。先日、彼女はラザラ・ポーリンにある〈予見〉を授けたばかりだった。


 それは、サントエルマの森の未来を大きく揺るがしかねないもの……


「まあ、よかろう」


 エラダンは膝の上に乗っかってきた猫の喉元をなでながら、そう言った。ふたたび、純真な少女のような表情になる。


「おぬしの信じる道を行くがよい、サントエルマの影の使い手よ。〈予見〉の解釈は私にもできないし、なにより未来はまだ確定しておらぬ」

「感謝いたします」


 ポーリンは頭を下げた。


「うむ、それでは――」


 と、エラダンは猫を持ち上げて手を振るふりをさせる。


「そなたにも猫の加護があらんことを」


 再び頭を下げるポーリンの耳に、先日受けた〈予見〉の言葉がこだましていた。




『ひとつ得れば、五つを失う』

『ひとつ失えば、五つを得る』

『いずれも、サントエルマの森の、偉大なる果実なり』



◆◆◆

「サントエルマの森の魔法使い:珠玉しゅぎょくの母」の表紙めいたもの:

https://kakuyomu.jp/users/AwajiKoju/news/16818093080949596396



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